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第6話

 急いで教室に駆け込んだ天理、教室には三人の生徒が既にいて、いつもとは様子の違う天理を目を丸くして見ている。


「おはようございます」


 サっと自席に着いて、リュックから荷物を取り出す。


 今しがた起きた出来事を思い出してしまうとどうにかなりそうで必死に目を逸らす。


 教室内は暖房が効いていることと天理が防寒着を着ていることもあり、火照った身体はなかなか冷えない。廊下に出て冷やそうかとも思ったが、うっかり彩羽と鉢合わせてしまうとまた逃げたくなる。


 全ての荷物を出すと天理は机に突っ伏す。今までやったことの無い行動。家でもそんなことはしない。


 他の生徒は驚くだろうが、今はそうするしかなかった。


 だけどそういったことをしてしまうと、頭の中であの時のことを思い出してしまう。昇降口で彩羽に会った時の天理ならこうはならなかった。


 このようにおかしくなってしまったのは、さっきの彩羽の言葉のせいだ。今までなんとも思っていなかったのに、意識されてしまうとこっちまで意識してしまう。

(駄目です……、どうしても彩羽さんのことを思い出してしまいます……)


 頭を振って考え事を振り落とそうとしても、いつもの自分とは違う動きをしているだけで彩羽のことを考えてしまう。


 どうすればいいのか。平常心を保ち、いつもの篠原天理に戻らなくてはならない。

(世界が彩られたと思いましたが、これは彩られすぎです‼)


 もがけばもがくほど程、全てが彩羽に塗りつぶされてしまう。


 居ても立っても居られない天理は、勢い良く席を立ち教室から出て行く。今まで見たことのない天理の様子に、他の生徒達は首を傾げるだけだった。



 訳も分からず教室を飛び出した天理がやってきた場所は特別棟だ。


 朝のこの時間ならほとんどの人は立ち入っておらず、冬の乾いた風が吹きすさぶ音だけが聞こえる。


「寒いです……」


 あまりの寒さに火照った身体が冷えすぎてしいそうになるがこの場所は、ある意味天理にとって特別な場所だ。そのため、再び身体が熱くなってくる。


 あの時と同じ場所で腰を下ろした。


 特別な場所、誰もいない場所。この状況で考えるなという方が無理だ。


「彩羽さん……」


 自らの世界を彩ってくれた人の名前を呼ぶ。何度呼んでも心地の良い名前だ。


 ――なんで篠原さんがわたしを下の名前を呼ぶのかなーって。


 そんなのは単純だ。彩羽の名前を呼んだ時に、音の響きの心地よさに心を掴まれたのだ。


 それを言う気は無かった。だけど、聞かれたのなら答えるしかない。誤魔化さず正直に。しかしその瞬間、なぜか身体中が熱くなってきたのだ。この状態では、彩羽の顔を見ることも叶わない。だから天理は逃げることにした。


「訳が分かりません。凄く恥ずかしいです……」


 初めての感情に振り回される天理は頭を抱える。


 ――てかいつからだっけ篠原さんがわたしを下の名前で呼んでくれるようになったのって。


 頭を抱えても、頭の中で聞えるのは彩羽の声。


 彩羽の名前を呼ぶようになった正確な日付は憶えている。でも、その正確な日付を彩羽に伝えると引かれてしまうのではないか?


 そんなことを考えていると、始業前の予鈴が鳴る。


「もうこんな時間ですか⁉ 急いで戻らないといけませんね」


 そんなことを言っているが、なかなか身体は動かない。寒さで鈍っている――ということではなく、ただ戻りづらいというだけだ。


 彩羽とはクラスが違うため、教室内で会うことは無いが、戻る途中に出会うかもしれない。そう考えると身体が動かないのだ。


「いっそのこと……サボるということも視野に入れて……」


 彩羽から教えてもらった『サボる』という行為。今こそ使うべきではないか。しかしすぐに頭を振る。


「今逃げてもなにも変わりません! ここは腹を括って行くしかありませんね‼」


 教室に戻って平常心を保てるか。いや、今の天理にはそんなことはどうでもいい。今の天理の頭の中は、彩羽に会わないよう行動することだけで埋め尽くされている。


 どう足掻いても、頭の中から彩羽の存在が消えることは無い。


 腹を括った天理は、早歩きで教室へ戻るのだった。

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