翌日、寒さに耐えながら自転車で登校してきた彩羽。
寒い寒いと腕を抱えながら昇降口に駆け込み、冷たい風から身を守る。
(結局、篠原さんがわたしの名前呼んだのはあの時だけだったし……)
女子校の王子様をやってもらった後はすぐに苗字呼びに戻ったはず。
文化祭が終わってからだというものの、そのはっきりした原因というか、理由が分からない。
(これはもう、本人に聞くしかないのでは?)
考えて分からなければ、本人に直接聞けばいい。文化祭以降、よく話すようになったため、別に躊躇することではないのだ。
(うん、聞こう。悩むの面倒だから聞こう)
「おはようございます。彩羽さん」
ゆっくりと靴を履き替えていた彩羽の後ろから、タイミング良く天理の声が聞こえた。
「わっ――ナイスタイミング。おはよー」
振り返ると、せっせと靴を履き替えた天理がいた。サンダルを履いた天理は、彩羽の隣へやって来る。いつもと同じく微笑んでいた。
「なにか悩み事でもあったのですか?」
「うん、篠原さんのことでちょっとねー」
「まあ、私のことですか」
大きな目を更に開いた天理。瞳はキラキラ輝いており、速く聞かせてくださいと言っているようだった。
二人は三階に向かって階段を上る。その最中、彩羽が聞いてみた。
「なんで篠原さんがわたしを下の名前を呼ぶのかなーって」
そう言った直後、彩羽の視界の隅に写る天理の姿は消えた。
「どうしたの?」
途中で止ってしまった天理に振り向く。
そこでは、今にも泣きそうな表情になっている天理の姿があった。恐らく、誰も見たことが無い表情だろう。彩羽も初めて見る天理の表情にぎょっとして、慌てて階段を数段下る。
「え、どうしたの⁉」
「…………………………いや…………でしたか…………?」
今はまだ登校してきている生徒が少ないから聞こえたか細い声。まさか変な捉え方をしてしまったのかと彩羽は慌てる。
「いやいやいや、そうじゃない! そうじゃなくてただ単純に気になっただけ‼」
慌てて理由を伝える。言い訳に聞こえるかもしれないが、彩羽は本心を必死に伝える。
その本心が伝わったのか、天理はあからさまにホッとした様子で目を閉じる。
「驚きました……。すみません、早とちりしてしまって」
「いやほんとごめんわたしもいきなりすぎた」
再び、今度はゆっくりと階段を上り始める。
少し上ってから、天理がおずおずと口を開く。
「えっと、さっきの質問の答えなんですが……、呼びたいから……では、ダメ……ですか……?」
「あっ……へっへえー。そそそそうなんだあー」
なぜか頬を染めて答える天理に、なぜか彩羽まで赤くなってしまう。確かに、人を下の名前で呼ぶ理由なんて呼びたいからだろう。
できれば無言のまま行こうと思ったのだが、それにしては教室までが遠すぎる。それまで耐えることのできなかった彩羽は心臓が口から出ないように声を出す。
「てかいつからだっけ篠原さんがわたしを下の名前で呼んでくれるようになったのって」
もう訳が分からない、勢いで聞きたいことを全部聞いてしまえというテンションだった。
しかし彩羽はそうできたのだが、天理はその答えでいっぱいいっぱいだったらしく――。
「ごめんさない‼」
天理らしからぬ様子で、階段を駆け上がり、教室へ走り去ってしまう。
「……その手があったかー」
無理に続けず、天理のように逃げる選択肢もあったのだと気づく彩羽であった。