カフェ「Tea & Leaf」の昼下がり。静かに流れるクラシック音楽の中、リョウはカウンターで紅茶を淹れながら、ふと手を止めた。
「すみません、ミルクティーを一杯ください」
振り向くと、常連の英国紳士ヘンリーさんが、優雅に微笑んでいた。
「かしこまりました」
ポットの紅茶をカップに注ごうとしたその瞬間、リョウは戸惑った。
——ミルクを、先に入れるべきか? それとも、後に入れるべきか?
以前、同僚のユイが「紅茶の本場では、ミルクを先に入れるのがマナーって聞いたよ」と言っていたが、本当にそうなのだろうか?
「迷っているね?」
ヘンリーさんが穏やかに声をかける。
「ええ……ミルクって、先に入れるべきなんでしょうか?」
「なるほど。いい質問だ。実はね、それは130年以上続くイギリスの大論争なんだよ」
リョウは驚いた。「そんなに長く?」
「そうさ。19世紀、イギリスでは紅茶を高級な陶器のカップで飲んでいた。しかし、お湯を直接注ぐと熱でカップが割れることがあった。だから、ミルクを先に入れて温度を和らげたんだ」
「なるほど……だからミルクインファースト(MIF)派が生まれたんですね?」
「その通り。そして、フランスの貴族たちは後からミルクを加え、香りを楽しむ文化を持っていた。これがミルクインアフター(MIA)派の始まりだ」
「じゃあ、どっちが正解なんですか?」
「実は2003年、イギリスの王立化学協会が研究を発表してね。結論は『ミルクが先』。理由は、熱い紅茶にミルクを入れると、ミルクのタンパク質が熱変性を起こし、風味が変わるからだ」
リョウは感心した。「化学的に決着がついたんですね!」
「ところが、論争は終わらなかった。MIA派は『ミルクの量を調整できるし、色を確認しながら入れられる』と主張し続けたんだ」
「紅茶にそんな深い歴史と議論があるなんて……」
「面白いだろう? 紅茶は単なる飲み物じゃない。文化と歴史が詰まっているんだよ」
リョウはミルクを先に注ぎ、ゆっくりと紅茶を注いだ。琥珀色の液体がミルクと混ざり、柔らかく美しいクリームブラウンが広がる。
「いい色だね」とヘンリーさんが微笑んだ。
リョウはこの日を境に、紅茶の奥深さに魅了されていくことになった。