――あなたも疲れているのよ。
今日はもう、何も考えずにゆっくりとお休みなさい――。
ライラのそんな助言に素直に従い、
服も着替えて一息つくと、眠くなるどころか、むしろますます目が冴えてきていた。
――何だろう。胸騒ぎが……する……。
ノアとの車内での会話、その内容を引きずって考えて……というわけでもない。
もちろん心中穏やかとはいかないが、それでも、そのことについては明日話そうと決めたのだから。
そうした具体的なものではない、もっと曖昧な……はっきりとは形を持たないものが、ざあざあと吹き荒れて、彼女の心をざわつかせていたのだ。
その果てに、何か、大変なことが起ころうとしているのではないか――そんな予感が、ふっと胸で鎌首をもたげる。
夜着の胸元をぎゅっと掴み……。
居ても立ってもいられなくなった少女は、足早に部屋を出た。
「こ、これは春咲姫……どうなさったのです?
今日はもうお休みになられた方が……」
「寝付けないので、散歩に。すぐ戻ります」
部屋の前を警護していた――それは同時に、春咲姫に兄妹の殺害を目撃されないようにするための監視でもあったのだが――
どこからどう考えても何の根拠もない衝動に突き動かされて。
正体も分からずざわつく心と、勘以外の何ものでもない予感に背を押されて。
しかし――それでも。
そこに何か、気の迷いだと振り払うにはあまりに確かなものを感じて――。
少女はただ、足を動かした。
* * *
この広大な古城全域に隈なく警備の目を光らせるには、さすがにライラの部下だけでは人数が足りないらしい。
要所に最低限の人員が配置されている以外、
途中、廊下の曲がり角の先――。
ボートが係留してある船着き場に続く、階段ホールの方向に人の声を聞いたグレンは、足を止め、何か情報でもと聞き耳を立てる。
「……しかし、ボートを見張る意味、本当にあるのかな」
「あの兄妹、この城に来たことがあるからな……ボートを使って逃げようと考えたっておかしくはないだろう?
もう一つ手を打ってあるとはいえ、ライラ様は事を荒げたくないのだしな」
「……もう一つの手?」
「ああ……そうか。お前はあのとき、ここの設備点検で不在だったな。
まあ、あくまで本当に万が一の事態のための予防線なんだが……統合生産地区の方に残った連中が、今頃――」
耳をそばだてていたグレンの顔が強張る。
警備の隊員たちの会話から飛び出たのは……。
彼にとってまさしく、想定外の問題だった。
* * *
「そろそろ……良い頃合いかしらね」
自分に割り当てた部屋で、鏡台に腰掛けていたライラは……。
鏡越しに壁掛け時計で時間を確認し、鏡の中の自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
今彼女が纏うのは、
枝裁鋏としての彼女のための、厳格な断罪者たる純白の法衣。
そして鏡台に並べ置かれているのは、彼女を美しく引き立てるための化粧品ではなく――。
彼女を鮮血で飾り立てるための、大小様々の無骨なナイフたちだった。
法衣の装飾に紛れるように、色々な部位に巻かれたナイフベルトに、彼女はその白銀に輝く凶刃を一つ一つ、丁寧に収めていく。
それこそ、夜会の華美なドレスを、煌びやかな宝飾品でさらに飾り立てでもするように。
そうして支度を終えた彼女は――。
改めて、純白の法衣を纏う自らの姿を確かめる。
……彼女はかつて、白を嫌悪していた。
容易く血に赤く染まり、否応なく死の存在を突き付ける白を、憎んでさえいた。
そう――たった一つの、無垢な白を除いて。
その白は……やがて真に、死を超越した永遠の白となった。
そしてそれを、彼女にも分け与えてくれた。
白が白いままでいられる世界を、現実にしてくれた。
今では彼女も分かっている。
自分は、白を愛し、何より憧れるからこそ、そこに嫌悪も抱いていたのだと。
白が白のままでいられないことを嘆いていたのだと。
だが、もはやその必要はない。
この法衣が血に染まろうとも、嘆く必要などない。
なぜならそれは、永遠の白を白いままに保つためであり――。
そしてそうであれば、彼女自身もまた、変わらず白のままでいられるからだ。
「……憐れな子たち」
俯き加減にぽつりと漏らし、彼女は音もなく立ち上がる。
彼女とて、幼い頃からノアたち兄妹が育つのを近くで見てきたのだ。
情が無いわけがない。
また、彼女に同調する部下の枝裁鋏隊員の中にも、やはり死への恐怖心からだろう、殺さずに済む方法を選ぶべきでは――という意見もあった。
しかし彼女は、兄妹の命を助ける道を、それでは不充分だと断じた。
……死を
だが、ただただ死を怖れ、泣き濡れる日々を送った昔とは違い、今の彼女には信念がある。
彼女にとっての永遠の白を――春咲姫を、何をしようとも護り抜くという誓いがある。
だから……『死』の存在を肯定する者たちに赦しを与えるつもりは一切無いと、彼女は断言したのだ。
永遠の白を、そして白い世界を汚しかねない存在となってしまった以上……彼女が、兄妹に対して情けをかけるとすれば、それはただ一つ――。
せめて、苦しまないよう速やかな死を――。
ただ、その一点だけだった。
* * *
「――ッ!」
声にならない声を上げて、ノアは跳ね起きた。
混乱した意識のまま、衝動的に周囲を見回し……。
思考が落ち着きを取り戻すとともに、ここが連れてこられた古城の一室であることを理解し、ようやく安堵のため息をつく。
「ああ……俺、あのまま寝ちまってたのか……」
サイドテーブルに鎮座する、年代物を思わせる小さな細工物の時計で時間を確認し、ノアはもう一度息を吐く。
ふと気付けば、全身が汗にじっとりと濡れて気持ちが悪い。
――冷や汗だ。
内容は覚えていないが、恐ろしい夢を見た……ということだけは、身体と心の両方がはっきりと記憶していた。
「んん……お兄ちゃん? どうかしたの?」
隣のベッドからの声に釣られてそちらを見ると、ナビアも目元を擦りながら彼の方を見ていた。
どうやら、ノアと同じく眠ってしまっていたらしい。
妹が無事にそこにいることに、ノアは自分でも驚くほどほっと安心していた。
それでようやく、悪夢のせいで早鐘のようだった鼓動が、落ち着きを取り戻していく。
「ああ、まあ……どうも、何か夢を見てたみたいだ。
その――お前は大丈夫か?」
いい年をして、妹相手に恐い夢などと言うのも憚られて――。
ノアは適当に言葉を濁して逆に問いかける。
ナビアは一度小さなあくびをして、だいじょうぶ、とこくんと首を振った。
「それならいいんだ。
……お前はもう少し寝ててもいいんだぞ?」
ノアがそう気を遣うも、ナビアは身を起こしてきた。
眠ってしまったのは短時間のようだが、逃げようとするならそうのんびりしていられる状況でもない……というのは、ナビアも理解しているのだろう。
最悪だった夢見の影響が大きいのか、まだ少し頭が上手く働かない感じだったが、ノアは何とか逃げ出すための算段を練ろうと、思考を巡らせる。
――部屋のドアがノックされたのは、ちょうどそんなときだった。
自分たち兄妹しかいなかった場所への――。
明らかな、第三者の介入を報せる乾いた音。
ノアは知らず知らず、覚えてもいないはずの悪夢を重ね見たのか――。
びくりと身を竦ませて、ドアに目をやる。
……少し様子を見ても、無機質なドアのノックは止む気配がない。
ごくりと唾を飲み込んだノアは、ナビアと視線を交わすと、ドアに近寄って鍵を外した。
そして、躊躇いがちに開く――。
「――ッ!」
その瞬間――何者かが、隙間をこじ開けるように素速く部屋に滑り込んで来た。
そしてそうかと思うと、声を上げそうになったノアの口を塞ぎ、ドアを閉める。
ドアの隙間から流れ込み、自分に纏わり付いた黒い影。
そこに悪夢の記憶を垣間見たノアは、一瞬パニックを起こしかけるが……。
直後にナビアの発した声が、彼の正気を繋いだ。
「――おじさんっ!」
落ち着いて視線を上げ、そこにあるのが見慣れた無精髭の顔だと確信すると……。
ノアは一転して、安堵に全身の力を抜いた。
カインはそんなノアを、すまない、と謝罪だけ述べて解放する。
「ほ、ホント、びっくりしたよ……。
それより、よくここが分かったよな?」
「詳しい話は後だ」
言って、カインは持っていたリュックサックをノアに渡す。
それは、この部屋に押し込められるより前に取り上げられた、彼の物に間違いなかった。
「近くに保管してあったのを見つけた。
――それで、体調はどうだ? すぐにでも動けるか?」
「うん、だいじょうぶだよ!」
カインの問いに、ナビアは飛び跳ねそうな勢いで手を挙げて真っ先に答える。
多少なりと眠れたおかげで、体力を取り戻せたのだろう。
やや遅れて、ノアも控えめに頷いた。
彼としては悪夢のせいで疲れを取るどころではなかったのだが、そもそも、疲労というほどの疲労は感じていない。
「よし、それならすぐにここを出るぞ。
そろそろ侵入に気付かれる頃だろうからな」
「でも……どこから逃げるんだ?」
ノアのもっともな質問に、ドアの僅かな隙間から外の様子を窺っていたカインは、一旦ドアを閉めてから答えた。
「階下の船着き場から、ボートで湖へ出る。
協力者が確保してくれているはずだ」
* * *
準備を終え――いざ部屋を出ようとしたところで、端末の呼び出しがライラの足を留めた。
厳密にこの時間に行動に出ると明言したわけではないが、邪魔にならないよう、部下たちには連絡を控えるよう指示してある。
それにもかかわらず……端末は彼女を呼び出している。
一抹の不安に駆られつつ回線を開く――と。
すぐさま、それが的中したことを悟らされた。
『ライラ様、侵入者です!
門前を警備していた者たちが、何者かに――!』
「! なんですって……!?」
兄妹が部屋を抜け出す可能性なら考慮していたが、外から、というのはまずありえないと踏んでいた事態だった。
しかも、矢継ぎ早に報告される鮮やかな手際からして、件の侵入者がカインを名乗るあの男であることは明らかだ。
一体どうやって、ここに兄妹が居ることを探り当てたのか――。
当然のように疑問が浮かぶが、その詮索は後回しだと切り替え、彼女は回線の向こう側に尋ねる。
「春咲姫と、兄妹の部屋の警備はどうなっているのっ!?」
『兄妹の部屋を監視していた者とは連絡が取れません!
それに春咲姫の方は、その……間が悪く、散歩に出られたとかで……』
部下の報告に、ライラははっきりと血の気が引くのを感じた。
だが次の瞬間――。
その血は引いた分の勢いを付けて、一気に頭頂部へと駆け上がる。
「――急いで捜し出して保護しなさい!!
何よりも優先して春咲姫の安全を確保! 急いで!!」
どうして春咲姫の外出を止めなかったのかと、怒鳴りつけたくなるのを抑え……。
それでも滾る怒りだけはそのまま吐き出してぶつけるように、ライラは回線越しに指示を叩き付けた。
そして、返事も聞かずに回線を切るや――。
蹴破りかねない勢いでドアを開けて外に飛び出る。
――兄妹の方は別の手も打ってあるからまだいい。
それよりも、もしも、
取り返しの付かない事態になるという恐怖を噛み殺し、ライラは廊下を駆ける。
――何よりもまず、あの男……!
カインを名乗るあの男を……殺さなければ!