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第2節 母たる者へ、子たる者へ Ⅳ


 ――碩賢メイガスは今日も一人、自室の、山と積まれた機器の谷間で、大きな椅子にその小さな身体を沈めていた。


 彼がこうして部屋に籠もること自体は、珍しいことではない。


 不凋花アマランスによる不死を得る前――少年の身体へと若返る以前、老人の頃から、彼は年齢を感じさせない精力で、それこそ寝食を忘れて研究に没頭することもあったからだ。


 しかし――その日の彼の行動は、普段とは違っていた。


 端末を忙しなく操るでもなく、紙面にペンを走らせるでもなく、資料のページを矢継ぎ早にめくるわけでもなく――。

 彼はただただ、まるで石にでもなったかのように身じろぎもせず、端末も置かれて手狭になっている机の上を見つめていた。


 その視線の先にあるのは、開かれた2冊の本だった。


 どちらも、時代がかった重厚な作りの装丁をしてはいるが……。

 片側が、その黄ばんだページからして真に古文書のようなものであるのに対し――。

 もう一方はそうした体裁を繕っていながらも、素材からして違うのか、つい先日印刷されたばかりのような真新しさを保っている。


 彼の瞳はその二つの間を何度も行き来していたが、表情はやはり硬く強張ったままだった。

 深く皺を寄せるそのさまは、彼が、年相応の老いを取り戻したかのようですらある。



「それはありえん話……だが……」



 唇が微かに動き、乾いた声で独り言を紡ぐ。


 開かれた本――それはどちらも研究書だった。


 新しい方の一冊は、碩賢自身が以前記した不老不死と不凋花についてのものであり……。

 古い方の一冊は、かつて葬悉そうしつ教会に伝わっていた予言書についてのものだ。


 予言書――『偽典』と呼ばれるそれは、遙か昔、名も無き一人の旅人が組織の保有する教会に立ち寄った際、書き記していったものだと伝えられる。


 全部で七十七章に渡っていたとされるそれは、しかし内容が組織の人間にとって好ましくなかったのか、そのほとんどが焼き捨てられた。

 だが、最後の七十七章だけが奇跡的に難を逃れて……今に至るまで、その内容が残っていたのだ。


 そして、机上で開かれたページの見出しとなっているのが――。


 新しい研究書が〈永朽花アスフォデル〉の存在についてであり……。

 古い研究書が〈凋零ちょうれい〉と題された、偽典最終章そのものだった。


「……永朽花……」


 紙面をなぞるように、碩賢は呟きをもらす。


 彼が、不凋花の研究における自らの仮定に付けた……冥界で永久に咲くという神話に基づく、その花の名を口にするのは、この1時間ほどで何度目になるか分からない。



 そう――それはあくまで仮定であり、根拠らしい根拠もない推論だった。



 不老不死という、自然の摂理からすれば禁忌とも言える道を開いたことへの罪悪感に駆られたのか……。

 森羅万象は表裏一体――という真理におもねる形で付記した、世界そのものへの言い訳のようですらある仮定。


 そしてそれは、仮定に過ぎないと固く信じていたからこそ記したのだと、今になって彼は確信する。

 偽典の一節に、当の永朽花を指すような語句があることも知らないわけではなかったが……。

 それでも、取るに足らないと気にしなかったのは、仮定は仮定のままで終わると信じていたからなのだ――と。


 だが……そんな永朽花についての仮定と予言を、明確に結びつけかねない存在が浮上してきた今となってはどうか。


 ――彼も科学者である。予言というものを、頭から信用するわけもない。


 だが、こうしたものをバカバカしいと一笑に付してきた多くの者と違い……。

 彼は頭ごなしに否定することなく、伝説や神話と呼ばれるものにも、何か意味があるはずだと真摯に向かい合ってきた。


 だからこそ彼は、不凋花を――不老不死を見出すことが出来たのだ。


 ゆえに彼は、これまで固く信じてきた――特別な自覚すら必要とせず信じてきた考えを、あらためなければならないのでは、と感じていた。


 ありえないはずのもの――それを認める必要があるのではないか、と。



「最後の罪……畢罪ひつざい……か」



 身体の内側で凝り固まっていたものをすべて外に出すように、碩賢は大きく深く、ゆっくりと息を吐く。



 ――いや、そもそも予感があったのかも知れん……。



 そっと2冊の本を閉じ、碩賢は大きく天井を見上げる。


 そんな彼の脳裏には――。

 春咲姫フローラに連れてこられたばかりの、赤ん坊だった頃の兄妹の姿が、ふっと浮かんでいた。





     *     *     *



 ――ナビアが母に他愛もない話を披露しているのを聞くともなしに聞きながら……ノアは意識を家の外に向けた。


 いつの間にか、カーテンの隙間から覗く景色は、すっかり闇に沈んでいる。


 こんなに時間が経っているとは思わなかった、というのがノアの正直な気持ちだ。

 主に天咲茎ストークでの生活のことなどを話題に、もっぱら口を動かしているのはナビアで、彼自身はそれほど話していたわけではないのだが……自分で思っている以上に、母との会話に没頭していたらしい。


 ――そういえば……ちょっと遅いな。


 改めて時間を意識すれば、調査を頼んだカインのことが頭を過ぎった。

 いい加減戻ってきていてもいいのではないか、と心配になる。


 だがそれも一時のこと……。

 彼はすぐさま、よりしっくりくる考えに思い至った。



 ――きっと……時間をくれたんだ。



 調査が終わったとカインに報告されれば、未練がましく母との時間を引き延ばさないためにも、ノアはきっぱり別れを告げて出発するつもりだった。

 しかし、それはカインにはきっとお見通しだったのだ。

 だから、今しばらく時間をくれたんだろう――。


 それが、ノアの至った結論だった。


「ん……そう言えば、ね」


 ずいぶん前に出されて、今ではすっかり冷め切っているコーヒーをくいと飲み干し一息ついたナビアは、カップを両手で包んだまま、小さく首を傾げた。


「ゼッタイ聞かれる、って思ってたけど……お母さん、聞かないんだね。

 あたしたちが、どうして不老不死から逃げ出したのか、ってこと」


 ナビアの一言に、ノアもそういえばそうだ、と思う。

 ともすれば、考え直すよう説得される可能性も考慮していたが……この数時間の会話の中で、まったくその話題は上らなかったのだ。


 やはり、自分たちが母に面と向かって、母の生き方を否定するような意見を語るのに躊躇いを感じるように、母も自分たちに遠慮しているのだろうか……。


 そう考えるノアだったが――。

 母は表情を曇らせるどころか穏やかな笑みを崩すことなく、静かに首肯した。



「そうね……。

 でも、それは聞くまでもないことだから」



 母の一言に、ノアの記憶にはルイーザの姿が呼び起こされた。


 ――そういえばあの人も、余計なことを言わなくても、事情を察してくれたっけ……。


 それが母親なのかな、とノアは思う。

 赤の他人のルイーザですらそうだったのだ……実の母ともなればそれこそ、何でもお見通しということなのかも知れない、と。



 不死を否定した理由を理解した上で、進む道を違えることも認めてくれているんだ――。



 そう思い至ると、カインやルイーザが彼らの考え、生き方を支持してくれたときとは、また違う感慨があった。


 カインたちのときは、背中を支えられるような感覚だったが――。

 母に認められるというのは、肩の荷が下りるような感じだった。

 胸を張りたくなるような感じだった。


 やはり来て良かった――と、しみじみ考えていたノアは、呼び鈴の音に我に返る。


 その、彼がこの結論に達するのを待っていたかのような絶妙のタイミングに……。

 ノアは気恥ずかしさも手伝って苦笑しながら、カインを迎えるべく立ち上がろうとする。


 だが、そんな彼の動きを制して、母マルタが先に席を立った。


「――待って。

 まだ誰だか分からないのだから、あなたたちはここにいて。いいわね?」


 十中八九カインで間違いないはずだが、母の言うことにも一理あると、ノアはソファに座り直す。

 そしてナビアとともに、居間を出る母の背中を見送った。


「……おじさん、わざとゆっくりさせてくれたのかな」


「ああ。そうだと思う」


 同じこと考えてたんだな、と思いつつ、ナビアの言葉に相鎚を打つノア。



「――お待ちしていました、ご苦労様です」


 玄関の開く音に続いて、マルタの声が聞こえてくる。



 カインが戻ってきた以上、いよいよここを発つ覚悟をしなくてはならない――。



 改めて、母にどういう別れの挨拶をすればいいのかと考えるノアだったが……。

 居間の戸口に人の気配を感じたので、まずはカインにお礼を言うのが先だと思い直す。


「あ、お帰り。

 その、任せっきりにして――」


 ごめん、と謝罪から口にしようとしたノアだったが……それは言葉にならなかった。


 文字通り――息が止まる。




「――久しぶりだね。ノア、ナビア」




 戸口に現れたのは……カインとは似ても似つかない小柄な人物だったからだ。


 兄妹にとってはカインよりもずっと馴染み深く――。

 しかしだからこそ、ここにいるはずのない人物。



「……フ、春咲姫……!」



 ノアの震える唇が、少女の呼び名を紡ぐ。



「来たよ――迎えに」



 可憐な花のごとき表情を、どうしてか、寂しげに曇らせながら――。

 しかしその瞳は兄妹を見据えてきっぱりと。


 その可憐な手を差し出し――春咲姫は告げた。



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