「……さあ、そこにかけて。楽にしていいのよ?」
そう言われてノアは、気もそぞろに生返事をしながら……勧められるまま、リビングのソファに腰掛ける。
一瞬遅れてその隣に、普段ならソファなどには飛び込むように座るはずのナビアが、どことなく上品に腰を下ろした。
やっぱり緊張しているんだろうか……と妹の表情を窺って、ノアはすぐにその考えが間違いだと知る。
嬉しそうなナビアの顔は、とても緊張で強張っているとは言い難い。
つまり、ナビアは嬉しさ余って、少しばかり気取っているだけなのだ――と、ノアは理解した。
少しばかり大人ぶって……自分はもうこんなに立派になったと見せたいだけなのだ。
そう――。
マルタという名の……二人の、実の母親に。
「あらノア、どうかした?」
丈の低いテーブルを挟み、向かいに腰掛けたマルタがそう首を傾げても。
ノアは「別に」と素っ気なく答えながら……彼女をじっと見ていた目を、慌てて逸らすことしか出来ない。
状況を素直に受け入れているらしいナビアと違って、彼はまだ頭の中が整理しきれていなかった。
ここへ――母の住むこの家へとやって来て、呼び鈴を鳴らすとき……。
現れた母にどんな顔をすればいいのか、自分たちのことをどう説明すればいいのか――。
あらかじめ色々と考えておいたはずが、いざとなるとまた対応についてさんざんに悩んで。
さらにその上で、冷たくあしらわれたときの覚悟まで決めていたのだ。
しかし、拍子抜けするほどあっさりと、戸口に現れた母――マルタは、彼らを家に招き入れた。
それも、さすがに顔を合わせて名乗った瞬間は驚いたものの……。
結局、嫌悪されるどころか、こうして歓迎までされて。
――嬉しくないわけではない。
いや、むしろ嬉しいからか……こうまで見事に肩透かしを食らうと、あれこれ考えて身構えていた自分と現実との落差に、ノアは戸惑わずにはいられなかった。
……実際に見る母は、彼の想像以上に若かった。
母と言うより、姉と言った方が正しいくらいだ。
そしてそれは――父親についてはデータが残っていないという事実とともに。
改めて彼に、彼ら兄妹と母との間には、埋めようのない溝があることを知らしめた。
片や、自由奔放な恋愛も含めて、不老不死がもたらすものを全面的に肯定し、受け入れている者と――。
片や、不老不死を拒絶し、生命があるべき自然の姿を追及する者との。
いかに母が自分たちを歓迎してくれ、そして優しくしてくれたとしても。
やはり、その道が交わることはないのだと……その事実に、ノアは少し胸が痛むのを感じた。
あるいは、冷たくしてくれた方が、よっぽど気が楽だったのかも知れない――。
そんな風にも考えながら。
「……それにしても、本当によく来てくれたわね」
ノアの思いを知ってか知らずか、マルタは満面の笑顔を浮かべる。
その笑顔を前に、ノアは言葉に詰まった。
聞きたいことは色々あるし、それを頭の中で整理出来る程度には落ち着いてきたはずなのに、喉につっかえているように、なかなか言葉を形にすることが出来ない。
そうしていると、ナビアの方が先に質問を投げかけた。
「ねえ、あの――お母さん。
お母さんって……あたしたちのこと、知ってたの?」
何かと物怖じしないナビアだが、その『お母さん』という単語を口にするときだけは、何か踏ん切りをつけるような、不自然な力の込め方をしていた。
それに気付いてノアは、自分の喉につっかえて、発言を邪魔しているのも同じものなのだと理解する。
結局、まだ口にしていない呼び名――。
生まれたときから
その事実を飲み下した上で、相手との関係を、絆を、認めて受け入れる――。
その証である『母』という特別な呼び方に、怖れにも近い抵抗を感じていただけなのだと。
そしてそれを乗り越えるには、妹がしたように、ただ思い切って踏み切るしかないのだと悟ったノアは――決意が鈍らないうちにと、ナビアの質問を自分もなぞって繰り返した。
「そうだ――母さん。
母さんはどうして、俺たちのことを?」
一度口に出してしまうと、後は下り坂を滑り降りるように、すらすらと言葉が出た。
あれほどしつこく喉につっかえていたのが信じられないほどに。
同時にその特別な呼び名は、びっくりするほどすんなりと彼の胸に納まっていた――。
ただあるべき場所に戻っただけだとばかりに。
「
一般にはまだ伏せてあるけれど……ここへはやって来るかもしれないから、知っておいてほしいって」
母の返答に、当然か、とノアは思う。
自分たちが向かいそうな場所として、母の住まいを候補に挙げるのは自然なことだろう。
天咲茎に居る頃、母を嫌悪する発言をしていたとしても、逆に言えばそれは、母という存在を意識しているということに他ならないだから。
……そして現に、自分たちはここにいるのだ。
気持ちに突き動かされ、半ば勢いでここまで来たが、改めて考えると何と危険なことをやらかしたのだろうと、ノアは内心冷や汗をかく。
だが、後悔しているわけではない。
「ああ――でも、心配しないで。
あなたたちのことを報せるつもりなんてないから」
ノアの思考を見透かしたかのように、マルタは穏やかに告げた。
今さらとも思いながら、「どうして――」と問うノアに、マルタはさらに続ける。
「せっかく会いに来てくれたのに……。
追い返すなんて真似、出来るはずもないでしょう?」
「……これまで……。
これまで、そっちからは会いに来るどころか……連絡の一つもくれなかったのに?」
反射的に、ノアがそんな辛辣な台詞を吐くと、マルタは目礼するようにふと目を伏せる。
「――ノア、あなたは
そしてナビア、あなたはそんなノアを、誰より近い存在として側で支える身。
そんな、大事なあなたたちだから、洗礼を受け、成人として将来の道が安定するまでは、わたしなんかがヘタに連絡を取ったりして心を騒がせるわけにはいかないと思ったの。
わたしとしては、あなたたちを想ってのつもりだった……でも、あなたはそれがつらかったというのね?
ごめんなさい――ノア、ナビア」
「そんな、謝ったりしなくていいよ、お母さん!
それは……ちょっとはさびしいとか思うこともあったけど、あたしたち、怒ってたわけじゃないし……。
ね? お兄ちゃん――」
同意を求めるように言いながら、ノアの顔を覗き込むナビアは、どことなく不安そうな顔をしていた。
ほとんど初対面と言っていい母にそれが理解出来るかは分からないが、ずっと一緒に生きてきた双子の兄には、妹の不安が手に取るように分かった。
事実、ナビアが心配しているように――ノアはこれまで抑えてきた不平不満を、一度にぶちまけたい気分だった。
むしろ冷たくされていれば、やっぱりこんなものかとあっさり捨て去ることも出来ただろう。
だが、こうして優しくされると却って、どうして今さら……というやり切れない思いがふつふつと沸き起こってくる。
感情のまま、整理しきれない言葉たちの塊は、喉元まで迫り上がっていたが――
「……分かってる。
子供の頃は頭にもきたけど……今はもう、怒ってない」
ノアはそれを、毅然と押し戻した。
その原動力になったのは――他でもない、母親というものについて尋ねたときの、ルイーザの返答だった。
自分たちを助けてくれた恩人の、暖かい言葉で紡がれた、同じ母としての願いだった。
「怒ってなんてないよ……母さん」
一旦抑えきってしまえば、静かに凪いでいくのみとなった心をそのままに、ノアは静かに首を振った。
すぐ隣で、ナビアが表情を緩めているのを感じながら。
「そう……ありがとう」
言葉少なに母は礼を述べる。
わだかまりを感じなくなった子には、それで充分だった。
親子はそれからしばらく、互いにかける言葉を探しているのか、無言でいたが……。
やがて顔を上げたマルタが、恐る恐るといった感じで口を開いた。
「それで、やっぱり……あなたたちは、わたしとその話をするために……ここへ?」
予期せぬ歓迎を受けたこともあり、ついつい意識の脇に除けられていた、自分たちの本来の目的を思い出したノアは、居住まいを正し、真っ直ぐにマルタの目を見た。
言わずとも察したのだろう、ナビアも、彼に合わせる。
「いや、違うよ。俺たち、お別れに来たんだ。
――俺たちはこれから……地上に降りる。
そして、
だから……お別れを言いに」
マルタの顔に、サッと――これまでにないほど色濃く影が射した。
そこにはきっと、驚きだけでなく、地上に対する嫌悪や恐怖も含まれているのだろうとノアは思う。
そしてその反応については、ほぼ彼の予想通りのものだった。
「地上だなんて、そんな……。
生命の消え去った、恐ろしい死の土地だというのに」
「確かに地上は、この庭都のような楽園にはほど遠いと思う。
でも……荒れ果ててはいても、生命の一欠片すら存在しない、そんな場所じゃないはずなんだ」
一つ一つ、ノアは自ら噛み締めるように言葉を紡いでいく。
――その脳裏を過ぎるのは、いつか見た、鳩の親子の姿だ。
あの鳩の存在が、地上が完全な死の土地でない何よりの証拠だった。
「どのみち、俺たちは庭都にはいられないんだし、行くしかないんだ。
それに、地上をそんな場所にしたのは人間自身だ。
だから、その行く末を見るのは、俺たち人間の義務でもあると思う。
――大丈夫。
ナビアも一緒だし……どんなに過酷な環境でも、きっとなんとかなるよ」
決意を言葉に込めるノアに続いて、ナビアも、大丈夫、と両拳を握り締めてみせる。
そんな子供たちを交互に見比べ……母は小さくため息をついた。
そこに込められているのは諦めのようなものなのだろうが、ノアはそれでいいと思った。
ここで強く引き止められたりすれば、その優しさに甘えて、決心が鈍ってしまいそうだったからだ。
不死を否定する者と肯定する者と……決して道が交わることはなく、別れるのは必定だというのに。
それが分かっていてなお、母と自分に甘えて、不可避の選択をずるずると先延ばしにしてしまいそうだったからだ。
「……もう決めているのね。
なら、この地区にあるエレベーターを使うつもりで……?」
「さすがに天咲茎の方を使うのは難しいだろうから、そのつもりで来たんだけど……」
何か気懸かりでもあるのか、ノアのその返事に、マルタは眉間に皺を寄せた。
――マルタの家と、その周囲を警戒していたカインは、玄関に人の気配を感じて意識を向ける。
姿を見せたのはノアだった。
彼を捜しているのか、きょろきょろと周囲を見回している。
気配を殺していたカインは、辺りに誰もいないことを確認し、わざと音を立てて近付く。
すると、いきなり人が現れたように感じたのか……ノアは小さく声を上げて驚いた。
「すまない、驚かせる気はなかったのだが。
……どうかしたのか?」
カインの問いに、言葉を選んでいるのか少し間を置いてから、ノアは答える。
「あの……母さんの話によると……。
この地区にある地上へのエレベーターとその周辺の警備って、結構厳重らしいんだ。
それで、ひとまずナビアは母さんに預けておいて、様子を見に行こうと思うんだけど……その――付いてきてもらえないかな、って」
ノアのその依頼にカインは――。
ナビアと兄妹の母が談笑しているらしく、明るい声が聞こえてくる玄関の向こうをちらりと見やった後、首を横に振った。
「……私が一人で行こう。
下調べなら、それで充分だろう?」
でも、と戸惑うノアを尻目に、カインはもう一度家の方に視線を向ける。
「仲直りが出来たのだろう? 母と」
機械的な『あの人』でも、形式だけの『母さん』でもなく……。
ごく自然に、普通に――ノアが、母さんと口にしたことに、カインは気付いていた。
「あ、ン……まあ、そう……なるのかな」
これまで張ってきた意地のせいもあるのだろう、面と向かってそうだとはっきり認めるのは恥ずかしいらしく、俯き加減に曖昧に頷くノア。
だが、カインにはそれで充分だった。
「――ノア。この先、お前たちが庭都を捨てて、地上に降りたなら……道を違える母とは、二度と会うことはないのだろう。
だから――」
カインは片膝を突き、視線の高さを合わせると……。
真っ正面から、ノアの瞳を見据えた。
「せっかくの機会を――時間を、ムダにするな。
下調べ程度なら私がすませる。
お前は悔いの残らないよう、少しでも多く、母と言葉を交わせ。
少しでも長く一緒にいるんだ。――いいな?」
「……カイン……」
気遣いに触れた――。
その気持ちを正直に面に出すノアに、カインは深く頷いてやる。
「……ありがとう。頼ってばかりでごめん」
「気にしなくていい。こうしたことのために、私がいるのだ」
ゆっくりと立ち上がるカイン。
ノアはそんなカインに、ポケットから取り出した自分の
そして、簡潔に操作を説明する。
「……今言ったやり方で、端末の中に入ってる、ここからエレベーターまでと、周辺の地図、それからエレベーター自体の構造図が見られるから。参考にしてくれよ」
「助かる。
……だが、お前の方は端末がなくてもいいのか?」
受け取った端末をしまいながらカインが問うと、ノアはどこか悪戯っぽく笑う。
「母さんとの時間をムダにするなって言ったの、アンタだろ?」
「……そうだったな」
釣られてカインも……。
してやられたとばかりに、頬を緩めた。