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庭と呼ぶのもおこがましい、猫の額ほどに狭く――しかし丹念に手入れがされた純朴に美しいその庭には、こじんまりとした聖堂のような、白い建物が建てられている。
この場所を知る者からは、ただ〈
暖かな日射しに包まれたそこは、そっと頬を撫でていく風も優しく――。
まるで思い出そのものだといわんばかりに、世界から切り取られたかのような独特の静寂に満ちていた。
――この庭は、あの頃からずっと、世界から切り離されていたのかも知れない――。
大きく空を見上げて、ウェスペルスは目を細める。
かつては、他を圧する高い壁に囲まれて。
そして今は、時間の流れに取り残されて。
しかし――その小さな世界に存在したのは、澱む闇などではなかった。
息苦しいほどの悪意の土壌にありながら……だがそこに芽吹いたのは、素朴な花だった。
素朴な――しかし何より大切な、何にも増して美しい花。
腐り、枯れ果てるのみだったはずの自分のような者たちに、その命を気付かせ、心を与えた、母なる慈愛に満ちた花――。
こうして優しい思い出に浸り、清浄な空気を感じれば、心が安らかになる。
だが――今日ここへ来たのは、そのためではなかった。
ウェスペルスは意を決して、小さな白い建物に向かう。
遠目に目立つものではないが、近寄ればその建物は、周囲の花壇の花をそのまま壁面に移したかのような、細緻な彫刻に彩られているのがよく分かる。
それはウェスペルス自身が、永い時をかけて彫ったものだった。
この霊廟で眠る者への鎮魂と、贖罪の意志を込めて。
――安息の場所を、みだりに騒がすな。
先日
それが手の動きを止めたのも僅か一瞬――。
勢いよく、彼は扉を押し開く。
そもそも鍵など付けられていないその扉は、ウェスペルスには拍子抜けするほど軽い。
それは、この扉が、主だって訪れる少女の腕力を考えた上で設計されているからだが……彼はその軽さが却って、彼自身の自制を促しているようにすら感じられた。
しかし、彼は躊躇うことなく足を踏み入れる。
それに合わせてぼうっと発光する、ぐるりと壁沿いに並ぶ、自然光を利用した淡い照明が照らし出すのは……。
床にぽっかりと空いた縦穴と、その穴に沿って下へ降りていくための螺旋階段だ。
気温そのものは外の方が低いはずだったが、入り口の扉が閉まるや否や……彼は全身が冷気で引き締まる感触を覚える。
その峻厳な空気は、ここが死者の眠る墓所であることを改めて意識させた。
岩盤をくりぬいて作られた縦穴は、底まで20メートル程度しかない。
ともすれば彼なら、一息に飛び下りることも不可能ではなかったが……足音を立てることすら禁忌であるとばかりに、静かにゆっくりと、一段一段を踏みしめて螺旋階段を下っていく。
穴の底には、洞窟に掘られた短い参道のように、白い石材が奥へ向かって敷き詰められている。
その先――。
地上の庭と同程度の規模にひらけたドーム状の空間こそが、本当の意味での〈霊廟〉だ。
一面に咲き乱れる白い花と、天井の亀裂から射し込む一条の陽光とに抱かれて、空間の中央に鎮座する石棺――。
特別に飾り立てられているわけでもない、だが自然が作り上げた、神々しくも慎ましやかなその光景に見入って、しばし足を止めるウェスペルス。
――すまない。どうしても、確かめなければならないことなんだ。
目を閉じ、瞼に浮かぶ人々に一言謝ってから、改めて石棺へ近付く。
彼は、自分自身、そうそう感情が揺れ動いたりしないことは自覚している。
生来の性格というのもあるかも知れないが、何より幼い頃、そうあるように徹底的に鍛えられたからだ。
だがそんな彼でも、石棺の蓋に手をかけた瞬間、自らの内でうねる感情を、完全に御すことは出来なかった。
あまつさえ、複雑に入り乱れたそれがどういう感情なのか、把握することさえ出来なかった。
つうっ……と、一筋の汗が頬を伝う。
それを拭う代わりに、彼はもう一度謝罪の言葉を心の内で述べてから――。
蓋にかけた手に、一気に力を込めた。
* * *
昼食を終え、いつものように寝室でサラの淹れてくれた紅茶を飲みながら……。
しかし彼女の話に相鎚を打つ
嬉しいのか、悲しいのか……彼女は己の感情を計りかねていた。
「……春咲姫? 大丈夫ですか?」
サラの問いかけに曖昧に頷いてから、サラに――というより自分に問いかけるように、春咲姫は口を開く。
「わたしは……嬉しいのかな。悲しいのかな」
何が、と掘り下げるわけでもなく、かといって適当に合わせるわけでもなく……サラは穏やかに首を小さく傾げた。
それだけ聞けば、事情までは分からずとも、心中を察するには充分だとばかりに。
「それは確かに、相反する二つの感情ですが……。
だからといってどちらか一色にしか染まらないほど、人の心は単純ではないと――私はかつて、春咲姫に教えていただいた記憶がありますよ?」
春咲姫は、はっと顔を上げて傍らのサラを見上げる。
サラは優しく微笑んでいた。
「そう……そうだったね。
――おかしいな、わたしはそのことをよく分かってるはずだったのに」
「自分の心のことでも、なかなか思う通りにならない……それもまた人間、でしょう?」
サラの言葉に、春咲姫はまた頷く。
彼女によって、心の中の、どうにも置き場所を決めかねていた感情は――そもそも専用のスペースがあったかのように、すんなりと落ち着いてくれた。
――そう、どちらも間違いなくわたしの想い。
ただ、その
単純な問題を、複雑なように繕って、決心を鈍らせていただけなんだ……。
「……よし……!」
自分の中の気弱さに踏ん切りをつけた春咲姫は――。
力強く、すっくと椅子から立ち上がった。
「動きやすい着替え、用意してくれる、サラ?
ちょっと出かけなきゃいけないの」
「……それで、私に付いて来て欲しいというわけね?」
呼び出された中庭の噴水前で――。
ドレスというよりワンピースに近い簡素な服装に着替えた春咲姫から話を聞かされたライラは、内心の高ぶりを抑え込みながら、努めて冷静に問い返す。
そんなライラの胸の内など当然知る由もない春咲姫は、草色のケープの端を握り締めて、素直にこくんと首を縦に振った。
「ライラも、ついこの間大変な思いをしたばかりだって言うのに、無茶なお願いかも知れないけど……」
「そのことなら大丈夫よ。大した怪我でもなかったのだし」
微笑みを返しながらライラは……。
彼女自身の決意を実行に移すのに、またとない機会が訪れたと考えていた――同時に、しかしだからこそ慎重にならなければ、とも。
「それで……大丈夫?
ライラ、一緒に来てくれる?」
「ウェスペルスも居ないのに、もし私が無理だって言ったら、どうするつもりだったの?」
「いざとなれば一人でも行くよ、もちろん。
だって、これもわたしの役目だもの」
しっかりとした意志をもって見上げてくる瞳に、ライラはため息をつかずにはいられなかった。
こうした性格だからこそ、皆に慕われ、愛されるのは疑いようもないのだが、もう少しで良いから、こういうときは立場を弁えて自重するようにして欲しいものだ――と。
「まったく……あなたは。
――大丈夫、ちゃんと一緒に行ってあげるわよ、心配しないで」
勢い込んではいたものの、やはり不安だったのだろう。
ライラの返答に、春咲姫は胸を撫で下ろす。
「うん……ごめんね。ありがとう」
「いいのよ。
……さて、そうと決まれば急いだ方がいいわね。
私は私で準備を済ませてくるから、あなたは南門の方で待っていてくれる?
車もそちらに回すわ」
春咲姫に指示を出しながらライラは、計画を――。
『彼女自身の』計画を、頭の中で練り上げていく。
「うん、分かった。
……あ、そうだ、ウェスペルスにも連絡しておいた方がいいよね?」
「そうね――。ええ、それも私がやっておくわ。
だからあなたは、自分の準備を見直しておきなさいな」
当然のように疑いなどもたず、素直に指示を受け止めて駆け出していく少女。
その遠ざかる小さな背中に、罪悪感という胸の痛みを感じながら……。
ライラもまた、毅然と行動を開始した。