――その執務室の色彩を一言で表すなら、よく晴れた夜空、というのが相応しいだろう。
全体的に暗色で統一されながら、しかし陰鬱なイメージも閉塞感もなく、むしろ身が清められるような、透き通った開放感がある。
しかし何より、この部屋の雰囲気を決定付けているのが、その主であることは疑いようがない。
それは、夜空に秘めやかに――。
しかし、他を圧する美しさをもって輝く、明星だからだ。
「――それで、グレン。君の印象はどうだったんだ?」
その主である明星、ウェスペルスの問いに。
グレンは、未だ鮮明な記憶を引き出しながら答える。
「正直なところ、俺はカインとは直接の面識がないからな……あれが本人だったのかと問われても断言は出来ん。
そもそも容姿なんざ、いくらでも手を加えられるものだしな。
だが――」
グレンの脳裏に浮かぶのは、工場の食堂で対峙した黒衣の影の――。
言葉、動き、そして――身に纏っていた、尋常ならざる気配だ。
「世界最高峰の戦士か、と問われたなら、躊躇いなく頷ける。
あれは――強い。
技量も、身体能力ももちろんだが……魂と言うか、覚悟と言うか。
そうしたものの存在感に圧倒されたよ」
それがグレンの正直な感想であることは間違いない。
しかし実際のところ、彼は――もっと踏み込んで、あの黒衣の男こそカイン本人だろうと、半ば確信していた。
そもそも不老不死さえ、旧史の常識からすれば夢物語のようなものなのだ。
死者が甦ることもありえない話ではないだろう――と。
「覚悟……か」
唄い上げるように繰り返しながら、ウェスペルスはゆっくりと執務机の前に回る。
「グレン、君も知っての通りに――。
僕らのように、人を殺めることが生業になった者は大抵、その重さから自分の心を護るために、意識的にであれ無意識のうちにであれ、様々な手段を講じるものだ。
人でなく機械になろうとしたり、殺人そのものを快楽としたり、受け流して慣れることに徹したり、ひたすら忘却に努めたり。
……だけど、彼は――カインは違った。
人を殺すことを躊躇いも迷いもせず、しかしその死から目を背けることも逃げることもせず……罪として自覚した上で、すべてを背負っていた。
それは想像を絶する重苦だろうに、そんなことはおくびにも出さず、僕らを思いやる人としての心を保ったまま、その覚悟を貫き続けた――」
机に腰掛けたウェスペルスは、昔を思い出しているのか、すっと目線を上げる。
もともと、グレンに比べればその半分程度の外見年齢でしかないウェスペルスだが、そのときの表情は……まさしく子供のそれだと、グレンは感じていた。
憧れる大人に、羨望と期待の入り混じった、無垢な眼差しを向ける子供と同じだ――と。
「……それが、カインという人間だった」
――ウェスペルスは瞼を閉じる。
そうして、思い出を飲み下したのだろうか……。
改めてグレンを見据えるその表情は、真摯なものへ立ち返っていた。
「君が感じた覚悟というのがまさしくそれであるなら、その男は本当にカインかも知れない。
いや……君やライラですら敗れたのだから、むしろそう考える方が自然なぐらいだ。
だけど、それだけは――それだけは、ありえない」
目の高さまで持ち上げた右手を、ウェスペルスはそっと、しかし力強く握り込む。
「誰よりも敬愛する彼を殺したのは、他でもない――この、僕自身なのだから」
言葉こそきっぱりと否定の意志を示しているウェスペルスだったが……。
グレンはそこに、感情の揺らぎを垣間見ていた。
立場上否定はするが、どういうわけかカイン本人が甦ったのだという、非現実的な考えを一番信じているのは、誰よりも彼なのかも知れないと――そう感じられた。
「……すまない、少し感傷に耽ってしまったけれど……。
ともかく、僕の用件はこれで済んだので、次の命令だ。
――グレン、君はこの後、
ウェスペルスが苦笑混じりに向けた話に、グレンは小さく首を傾げた。
「嬢ちゃんの書斎に?
俺が役に立つことなんて、せいぜい力仕事、本棚の移動ぐらいだと思うが……」
「サラに無事な姿を見せてあげるんだ。
仕事の処理を優先して、まだ会っていないだろう?」
「……いい年して子離れ出来ないのかと、説教されそうなんだが」
「あながち間違いでもないからいいんじゃないか?
それに……ヨシュアの訃報で、サラが心配していたのは事実だからね。
――いいかい? もう一度言うが、これは命令だ」
命令と言われれば、グレンは従うしかない。
彼は弱り顔で、降参とばかりに両手を挙げる。
「やれやれ、何を言われるやら。
……春咲姫の嬢ちゃんが、間に入ってくれりゃあマシなんだが……」
言いながら、かの少女の性格を考えれば、親子水入らずを邪魔したくないと、早々に席を外すのは目に見えていた。
娘が自分にくれるのが小言だけならいいが……ヨシュアの死を踏まえて心配していたとなると、最悪泣かれる可能性もある。
――そればっかりは本当に厄介だな、とグレンは口の中で唸っていた。
「そうだね……いかにサラでも、今回は涙を見せるかも知れない。
本当に心配していたから」
頭の中を覗いたかのようなウェスペルスの発言に、グレンは盛大にため息をつく。
「ボスは知らんだろうがな……。
女の涙ってやつは、男にとって、本当に扱いが困る厄介なものなんだぞ?」
八つ当たり気味にそんな言葉を向けると、ウェスペルスは穏やかに目を伏せて答えた。
「……知ってるよ。
イヤと言うほど、骨身に染みているさ――本当に、ね」
そんなウェスペルスの態度に毒気を抜かれたように、グレンは小さく肩を竦めた。
「……まあ、どのみち、遅かれ早かれ顔は合わせることだし……俺はこれで失礼するか。
ここでグズグズしてると覚悟が鈍りそうだ」
正直な心境をそのままに吐露し、振り返るグレン。
その手がドアにかかったところで、後方からもう一度ウェスペルスの声が飛ぶ。
「この先――」
それは、つい今しがたまでの気安いものではなく――多分に緊張感を伴った、公人としてのものだった。
グレンも思わず足を止める。
「何かと、君の力を借りる機会が増えると思うが……どうか、よろしく頼む」
「……ボス、前にも言っただろう?
アンタが手を差し延べてくれたから、俺たち夫婦は希望を見出せたんだ――」
グレンは肩越しに振り返った。
「何でも、とまで安請け合いはしないが……。
アンタの頼みなら、出来るだけのことはするさ」
「……ありがとう。頼りにしているよ」