――外では、宵闇の中、珍しく強い風が吹き荒れている。
田園地区から
照明が使えないわけではなさそうだったが、目立つのを恐れ、ノアが使う
それは精巧緻密な――しかしそれゆえにか、温もりとは一線を画す、水晶細工の芸術品のようだとカインは感じていた。
強い風の音と、それに逆らうような端末の操作音――。
そのリズムだけしか存在しない、がらんとした室内に、やおらノアの「よし」という一声が響く。
それでようやく動きを思い出したように……。
窓際で外の様子を窺っていたカインと、彼とノアのちょうど間に座り込んでいたナビアが、同時にそちらに首を向けた。
「……そろそろ向こうも、色んな監視システムとかを使ってこっちを見つけようとしてくるだろうから、情報操作して、囮を作っておいた。
これで、俺たちが、本来向かうのとは別の方向に逃げてるように見えるはずだ」
眼鏡を整えながら、誰にともなくそう言ってから、ノアはついと視線を振る。
それが自分へと向けられることを……カインは、確信に近い形で予測していた。
「……それで。
カイン、改めてアンタに聞きたいことがある」
「私が、既に死んでいると言ったことについて――か?」
「それと、ライラと顔見知りだったこともだ。
グレンは……アンタのこと、殺し屋だって言ってた。
そのこととも関係があるのか?」
……眼鏡の奥で、ノアの瞳は揺れていた。
ともすれば、不審や疑いに染まってもおかしくないこの状況下にあって――その瞳の奥に窺えるのは、あくまで戸惑いだ。
カインの秘密を、欺瞞を、暴き立てて糾弾しようというのではなく……。
ただ、自らが信じる相手をなおも信じたいという、優しい願いの表れ。
二人の間で、小動物のように不安げに、ひょこひょこと互いを見比べるナビアもまた、微妙な考えの違いはあっても、根差す気持ちはきっと同じなのだろう。
「……優しいな、お前たちは」
それが、自然とカインの口をついて出た第一声だった。
「なんだよ……そんなんじゃないよ。
俺はただ、事実が知りたいだけで……」
「分かっている。
――と言っても、私もすべてを思い出したわけではない」
その言葉通りに、カインの記憶はいまだ不鮮明だった。
以前より霧は晴れているものの、記憶のカケラはそれぞれが飛び石のように離れていて……思考によって関連付けることは出来ても、本来の記憶としてあるべき繋がりは途絶えたまま。
その繋がりの役目を担うだろう、根幹にあるはずの記憶――。
それが、決して触れてはならない禁忌だとばかりに、未だに深い霧の彼方にあったからだ。
「……ただ、まずは謝らせてほしい。
私は、自分がかつて暗殺者であったこと、そして――既に死んだ身であることは、出会ったときから覚えていた。
それでいて黙っていたのだ……すまなかった」
カインは頭を下げる。
兄妹は、双子らしく同じように……さして間も置かず、そんなことはいいと首を振った。
「よかれと思ってのことなんだろ?
実際、会ってすぐの頃にそんなこと言われても、それこそ不信感が増しただけだっただろうしさ……だから、それはもういいよ。
それじゃあさ、ライラのことは……あのとき、やっと思い出したってことなのか?」
ノアの問いに、カインは「そうだ」と目を伏せた。
「彼女は……私と同じ、〈
ナビアばかりでなく、ノアですら聞いたことのないその名に、兄妹は顔を見合わせる。
「葬悉教会とは……お前たちの言う旧史の中でもさらに古い時代、同じ宗教内での宗派争いに敗れて異端とされ、以降、地下に潜った宗教組織だ。
本来ならそうしたものは力を失い、自然消滅するか根絶やしにされるか――いずれにせよ消えゆくものだが……。
葬悉教会の場合、その創立に携わった中心人物と、後押しをしていた出資者たちは、誰もが相当な資産を有する富豪だったらしくてな。
皮肉にも表舞台から排斥された彼らはむしろ、法の束縛を受けなくなった分、その財力を背景にしてあらゆる手を講じ……消え去るどころか、以前より大きな力を持つようになった。
そして――そもそもが、表立って世界を操るべく、宗教という肩書きを利用するつもりでいた野心家の富豪たちだ。
表舞台に立つ可能性を潰されても、世界を牛耳ろうという野望そのものを捨てることはなく――彼らは長い年月をかけて世界中に根を張り、誤った教えにより歪められた、世界を救うという名目のもと、あらゆる非合法な手段を用いて、歴史に介入し続ける闇組織となった――」
「そして、その活動を支えた手段の一つが……暗殺、ってことなのか」
「そうだ。――彼らは、世界中からさまざまな手段で幼い子供たちを集めては、自分たちの活動の道具にするべく、人を人とも思わぬ非道な訓練までして、あらゆる分野のスペシャリストを鍛え上げた。
……暗殺者の育成などはその最たるものだ。
そうして、物心がつく前より組織に縛り付けられ、自らの命を護るため、暗殺者として他者を殺めることを強いられ続けた子供たちの一人――。
それが、『闇夜の天使』を意味するライラという名を与えられた、彼女だ」
カインが告げた真実に、兄妹はしばし言葉を失う。
……それも当然だ、とカインは思った。
この庭都が、いかに人間の――命の、本来あるべき姿からは逸脱していようと、歴史上、類を見ないほどに平和で、穏やかで、安定した世界であることは確かなのだ。
そんな世界で生きてきた兄妹にとって、殺し、殺されるだけの世界など、容易く理解出来るものではないだろう。
だが、だからといって、ノアもナビアも、それをただの物語だと笑って片付けることは到底できなかった。
ヨシュアの死――。
本物の人の死というものを、目の当たりにしてしまったからだ。
「死ぬって、あれだけ怖くて悲しいんだから、殺すなんてもっと怖くて悲しいはずだよね。
なのに、小さい頃から、とか……どれだけつらいんだろう。
つらいとか、そんな風にも思えなくされちゃってたのかな……」
ぽつりと、ナビアが呟く。
その姿に、カインはなぜか一瞬、懐かしさのようなものを感じたが……結局、正体を掴むにはいたらなかった。
「――ナビア。お前の言うように、他者を殺めるという行為は、途方もなく重く――つらく、苦しいものだ。
だから、心が壊れてしまわないよう、多くの子供たちがそれより先に、感情や思考を――人としての自分を殺していた。
そうしてなんとか、最低限の心を守っていたのだ。
だが――それをしなかったり、出来なかったりする子もいた。
ライラは、そんな子らの一人だった。
死ぬことを恐れ、殺すことを恐れ――。
暗殺という任務を果たすたびに、泣き濡れていた……」
カインの語尾は、その憐れみの情を表すように小さく消えていく。
だが実際にそうなったのは感情のためだけではなかった。
記憶に霧がかかったからだ。
涙を流す幼いライラの姿は思い出せても、その周囲が霧に包まれる。
霧に隠れたそこにこそ、最も大事なものがあると感じるのに……どうしても、そこまで手を伸ばすことが出来ない。
「……そんなの……かわいそう。ひどいよ……」
眉をしかめてうつむくナビア。
そんな妹を気遣いつつノアは、改めてカインを見上げた。
「それで……アンタは?
やっぱり同じように、小さい頃から組織で……」
「――私は」
ノアの発言に被せて、カインは少し語気を強める。
それは――彼の決意の表れだった。
「私はライラと違い、自らの意志で組織に身を置いていた。
大切なもののため、そのためだけに――。
それが唾棄すべき罪であることを承知で、人を殺めていた。
――それだけのことをしていながら、その大切なものが何だったのか……それが思い出せないのも皮肉な話だが、な」
カインは、微かに笑った。
彼には珍しく、自嘲気味に。
「……軽蔑したか?」
兄妹は、その沈痛な表情を一度、互いの意志を確認するように見合わせた後……頭を振る。
「もしかしたら、するかも知れない。でも、今は出来ない。
その大切なものが何なのか、それが分からない限りは。
……だけど、俺たちはアンタが、その組織を支配してた奴らみたいに、私利私欲だけで人を殺したりするような人間じゃないって理解してる。
アンタのやったことは悪いことで、アンタは確かに罪人なんだろうけど、でも、罪と分かっていながらそうしなきゃならないだけの理由があったんだって……そう信じてる」
カインに向けられる二対の幼い瞳は、澄んだ輝きを秘めていた。
……暖かく、力強く。
「じゃあ――もう一つだ。
あのときの……既に死んでるって、どういう意味なんだよ?
その方法だけは無い、それだけは出来ない――って、
……まさか、ただの比喩ってわけでもないんだろう?」
ノアの問いかけに対しもう一度、自ら確かめるように、カインは胸に手を当てる。
「比喩どころか、言葉通りの意味だ。
……私は、この身体は、既に死んでいるのだ」
「な……何言ってるんだよ。
そんな……そんなバカなこと、あるわけないだろ?」
ノアは眉をしかめる。
冗談のような話であるし、冗談だと片付けてしまいたいのが本音なのだろうが……。
それをさせない気配が、カインの語調に表れていた。
「……正直なところ、私自身、なぜ今こうして自分が動いていられるのかは分からない。
ただ、私がかつて死んだということ、そして――今もまだ、この身に命は無いということ。
それだけは、間違いなく事実なのだ」
「じゃ、じゃあっ、ホントに……?」
「そうだ。不凋花による不老不死ではない。蘇生を受けたわけでもない。
――ノア、以前お前が、私が休んでいるところを見ていないと言ったが、それも当然だ。
私は眠る必要がなければ食う必要もない――正真正銘の、死人なのだから」
ノアとナビアの二人は、カインの告白に、どちらからともなく色を失った顔を見合わせる。
驚き、恐れるのも無理のないことだとカインは思う。
それを承知で事実を告げたのだ。
だがその後……ナビアの取った行動は彼の予想外のものだった。
黒衣の袖をぎゅっと掴んだ少女は、カインの顔を見上げ、次に戸惑う兄を見、声を張った。
「そんなの――そんなの関係ないよ!
びっくりしたけど、でも、おじさんはおじさんだよ!
――ねえ、そうでしょ、お兄ちゃん……!」
それは問いかけではあったが、どこか縋るような響きもあった。
そして、それを受けたノアは……一瞬、呆然としたかと思うと、すぐさま、頬を緩めて苦笑をもらした。
「……まったく……お前ってやつは」
「……え?」
「お前の言う通りだよ。
正直、ちょっと混乱はするけど……死人だなんだって、まだよく分からないんだしさ……だったら結局、カインはカインだって、そこに落ち着けばいいんだよな」
ノアはナビアの側に寄ると、その頭を優しく撫でた。
「――やっぱりそうだった。今、改めて感じたよ。
お前の方が、俺よりもよっぽど物事の本質を見てる。
よっぽど、芯の通った確かな信念があるんだよ。
だから……信念に引っ張られていたのは――それを頼りにしていたのは、やっぱり俺の方だったんだ」
「お兄ちゃん……?」
「俺はさ……結局、余計なことまで考えちまって、そのせいで迷いも捨て切れずにいる。
それに比べてお前は、不老不死を否定して本当の命を生きるって意味を――その本質を、正直に、真っ正面から見据えてた。
その上で、俺なんかよりずっと固い覚悟を決めてたんだ。
そんなお前に寄り添ってたから――だから俺は、ここまで諦めずにいられたんだ。
今さらこんなこと言うのもなんだけど……ありがとな」
「…………。
それは違うよ、お兄ちゃん」
ナビアは優しく微笑みながら、頭を撫でてくれた兄の手を取る。
「お兄ちゃんが、あたしの思いを認めてくれたから。
同じだって言ってくれたから。
だからあたしも、自分の思いを信じられるんだよ?
お兄ちゃんがいなきゃ……あたしだってダメなんだよ?」
「……ナビア……」
ナビアが口にしたその思いはよほど予想外だったのか、言葉を失うノア。
笑顔で頷き返すナビア。
そんな兄妹二人の頭に、今度はカインの大きな手が置かれた。
「カイン……」「おじさん」
そして、その大きな手は優しく、ゆっくりと二人の頭を撫でる。
これが死人であるということなのか、その手にぬくもりはなかったが――しかし確かなあたたかさを、二人は感じていた。
二人のあるがまま、そのありようを――。
それでいいのだと、優しく認められているようだった。
「ノア、ナビア。
……お前たちに出会い、こうして守護を担えるようになったことは、私にとってはまさしく幸運だったな」
「……おじさん……」
「だが――」
顔を綻ばせる兄妹に対し、カインは自らのそれを引き締める。
「私が……不老不死とはまた違う形ではあるが、しかし、命の在り方として間違った存在であるのは確かなのだ。
だから――今後、私の力がもう必要ないと、お前たちが判断するときが来たなら……。
そのときは、躊躇わずに私を切り捨ててほしい」
「そ、そんなことしないよ!
だって、ずっといっしょにって――!」
馬鹿げていると言わんばかりに目尻を上げるナビア。
そんな、勢い込んでカインの言葉を否定しようとする妹を遮り――。
ノアは力強く「分かったよ」と請け負った。
「お兄ちゃんっ!?」
「でも、アンタ自身が今言ったように、アンタが必要なくなったかどうか、判断するのは俺たちだ。アンタが勝手に決めることは、絶対に許さない。
――それでいいよな?」
真剣な眼差しで、自分をじっと見上げてくるノアに……。
カインは、ゆっくりと首を振って同意した。
「――ああ、もちろんだ」