――まるで、追い詰められた手負いの獣だな。
拘束していたヨシュアが再び逃亡を図ったとの報せを受け、現場に急行したグレンは――。
折良く捕捉出来た当人と対峙するや、真っ先にそんな感想を抱いた。
早朝ということもあり、まるで
そこに幽鬼のごとく佇むヨシュアは、どろどろと煮えたぎる感情によるものだろう、昏く澱んで血走った目をし……。
苦痛とも恐怖ともつかない感覚に苛まれた顔付きは、元の、穏やかだった表情からは想像もつかないほどにやつれ果てていた。
「どいてください!
わたしは、アイツを……あの男を、倒さなければならないのです……ッ!」
「……まあ待て、落ち着け。
なあヨシュア、お前、自分で気付いてるか?
その身体――致命傷から回復するまでの時間が、平均よりも大幅に遅くなってきてるぞ?」
一対一なら力ずくでも何とかなると踏んでいるのか――。
初めから腰を落として臨戦態勢でいるヨシュアをなだめるように、グレンは飄々とした様子で話しかける。
「俺たちは確かに、傷を負って死ぬことはない。
――だがな、そのときの痛み、苦しみまでなくなるわけじゃない。
特に、致命傷ともなればなおさらだ。
お前のように新史生まれで、実際の『死』がどんなものかまるで知らない人間は、免疫が無い分、ことのほか深い恐怖を感じるだろうな」
「それが、どうしたと……!」
「――だからだな。
お前の無意識と、そしてお前の中の
もう一度その感覚を味わうことを嫌がっている。
身体を再生しても、その果てにまた耐えがたい苦痛に襲われることに、怯え始めてるのさ。
本来ならありえないことだ、だがな……。
生存本能がその恐怖に屈服し、苦痛から逃れる最後の手段として『死』を切実に選んでしまったなら――いかに不凋花でも、それ以上肉体を再生することは出来なくなるだろう。
つまり、これ以上お前があの男に致命傷を負わされるようなら、今度こそ、本当に死ぬかも知れないということだ。
それでも――追いたいのか? あの男を」
グレンの発言に、ヨシュアは衝撃を受けたようだった。
身体をわななかせ、自らの両手の平に目を落とし、食い入るように見つめる。
そして、やがて……顔を上げると。
諦める、という言葉を口にする代わりに、大きく頭を振った。
「それでも……! どのみち、アイツは追いかけてくるのです!
どこまでも、いつまでも、わたしを!……死の恐怖とともに!
それを止めるためには、危険を冒そうとも――!」
「……そうか、分かった」
あっさりした口調でそう頷いたかと思うと――グレンは。
自分が預かっていた、もとはヨシュアのものだったナイフを投げ渡し、脇にどいて道を開けた。
その行動があまりに意外だったのか、ヨシュアは呆けたように動きを止める。
すると、グレンは改めて言葉で彼の背中を押した。
「どうした? 行け。
――止めたところでムダだと分かったからな」
ヨシュアは警戒しているのか、初めはじりじりとした動きだったが……。
やがて、本当に邪魔をする気がないことを悟ったのだろう。
全力で地を蹴って、グレンの目の前を駆け抜けていった。
「――感謝します……か。
お前らしいな、ヨシュア」
すれ違いざま、ヨシュアが残していった言葉を繰り返しながら……。
グレンはしばらくその場で、陽が昇っていく空を見上げていた。
* * *
「……あら、おはよう」
朝早く、目を覚まして寝室を出たノアは――居間でルイーザと出くわした。
「あ……おはよう、ございます」
小さく頭を下げつつ、眼鏡の隙間から指を入れて寝ぼけ眼を擦るノア。
そのいかにも子供っぽい仕草に、ルイーザは微笑む。
「よく眠れたみたいね、良かった。
――じゃあ、顔でも洗う? さっぱりするわよ」
ルイーザに連れられて洗面所に向かったノアは……。
寝起きでまだどこかぼやけている意識をきっちり覚醒させようと、冷水を何度も叩き付けるようにして、顔を洗った。
「……ねえ。一つ、聞いていいかしら?」
背後にいるルイーザの問いかけに、ノアは顔を洗いながら、正面の鏡越しに頷く。
「あなたたちはやっぱり、どうしても……不老不死を否定し続けるの?」
「あなたは気を悪くするかも知れないけど。
……そこに本当の命はないって、そう思うから」
流れる水を止めて、そう答えるノア。
言った通り、気を悪くさせるか、怒らせるかしたかも知れないと思ったが……。
彼にタオルを渡すルイーザは、ただ柔らかく頷くだけだった。
「――そう……。それがあなたたちの思いだと言うのなら、仕方ないことなのかもね。
でも、覚えておいて。
その生き方の先にあるのは、逃れようのない、確実な死。
そしてその死によって哀しむ人間がいるという、事実なの」
「それは……あなたが娘さんを喪ったときのように……ですか?」
何となく目を合わせづらくて、タオルで目元を隠しながら、ノアは尋ねる。
「昨夜の話……聞いてたの?」
「あ……はい。その、ちょうど目が覚めたとき、ドア越しに聞こえてきて……。
――それでその、やっぱり親って……子供のことは、何より心配だったりするんですか?」
自分たちを助けてくれた恩人のつらい過去を引き合いに出すことに、躊躇いはあった。
しかしそれでもノアは、どうしてもそのことを尋ねてみたいと昨夜から思っていたのだ――子を持つ母というイメージが確かである、彼女に。
もしかしたらそれは、馬鹿げた質問だったかも知れない。
だがルイーザは、改めて真っ直ぐに向けられたノアの視線を正面から受け止めた上で、諭すように微笑んだ。
「誰もがそうだとは言わない。
旧史の頃にも、子を虐げる親が……子に関心を持たない親がいた。
子を愛さない――愛せない親がいたわ。
……だけど、ほとんどはそうじゃないの。
子が親を慕うように、親は子を慈しむものよ――少なくとも、あたしはそう。
だから……きっとね、あなたたちのお母さんも――自分なりに良かれと思って、あなたたちを
子供のあなたたちからすれば、どんな理由を並べ立てようと納得出来ることじゃないかも知れない。
でも、出来れば……赦してあげて欲しい」
質問の真意をあっさりと見抜かれたノアは、気恥ずかしくなって思わず俯いてしまう。
母親――。
ノアはその存在について、今ははっきりとした答えを持てずにいた。
……
だが、カインとナビアが親子のように接している――少なくとも彼自身がそうだと感じる姿を見ていて、彼の中に新しく生まれた思いは……。
母を憎むのは、実は妹より母を慕うがゆえに、その想いに報いてくれないことへの反発なのではないか……というものだった。
だからこそ、その答えの手掛かりを求めて。
『母』という共通項を持つルイーザに、馬鹿馬鹿しいような問いを……改めて、言葉にして投げかけたのだ。
「俺は……その、何て言うか……」
「……いいのよ、そんなすぐに答えを出さなくても。
うんと悩みなさいな。
あなたがいくら頭が良くても、これは、そうしたものとは違う問題でしょうからね」
会って数時間にしかならないのに、この人は何でもお見通しなんだな、とノアは頭を掻く。
なまじ近しい人間ではないからか、その言葉はヘタな反発もなくいちいち素直に、彼の中に染み込んでいった。
「……ところで、それ、何ですか?」
顔の水気を拭い終わり、眼鏡を掛け直しながらタオルを返すノアは、ルイーザが小脇に服を抱えていることに気付いた。
女物のようだが、どう見てもルイーザには小さすぎるものだ。
「ああ、これ? あなたの妹さんにどうかと思ってね。
さすがに、このままパジャマで行動するわけにもいかないでしょう?
娘が小さい頃使っていたものだけど、昨夜のうちに少し直しておいたから、寸法とかも大丈夫だと思うし。
――ああ、そんな顔しないで、大丈夫。
これは亡くなった娘の形見とかじゃなくて、今も元気な、もう一人の娘の方のお古だから」
気持ちが顔に出ていたのだろう。
実際に彼が、そんな大事な物は受け取れないと口にする前に、ルイーザはそう釘を刺して笑った。
さらに続けて、
「でも女の子だから、デザインが気に入らないとか言われちゃうかしらね」
……などとも言いながら。
その屈託のない暖かい笑顔、そして優しい言葉を受けて……。
ノアの心の中で一つ、悩んでいたことに結論が出ようとしていた。
「大丈夫です、アイツ、いかにも女の子らしい服、大好きだから。
それに動きやすそうだし」
顔を上げてそう言うと、ノアは深々と頭を下げる。
「……本当に、何から何まで、ありがとうございました」
「いいのよ。
――これから、あなたたちが自分の思いを貫いた先に、何があるのかは分からないけど……そう……どう言えばいいのか。
とにかく――元気でね」
そっと頭を撫でられて、ノアはもう一度、心を込めてお礼を告げた。
そうすることで彼は、心に一つの整理をつけることができた。
――あの人に……会いに行こう。
地上へ降りる、その前に。
自分たちを手放した理由を問いただすためではなく。
それを、赦すかどうかを判断するためではなく。
もちろん、欠けていた愛情をねだるためでもなく――。
ただ、正面から向かい合い――。
そして、自分たちに生命を与えてくれたことへの礼と、別れの言葉を告げるために。
母に会おう、会いに行こうと――彼は心を決めた。
* * *
――日も高くなった頃、また、チャイムが鳴った。
昨夜のことを思い出しながらルイーザがドアを開けると、そこにあったのはアロンよりもずっと見慣れた――。
もはや馴染みがあるという程度では済まないほどに見慣れた男の顔だった。
お世辞にも男前とは言えない、古傷と髭に覆われた顔……。
しかしそれでも、彼女が向けたのは明るい笑顔だ。
「――いらっしゃい、グレン。久しぶりね」
「どうせなら、お帰りなさい――と、言ってもらいたいところだったな」
答えて、グレンも苦笑をもらす。
永遠の愛など、神父の前で形式として口にして以来、お互い冗談にしたことすらないというのに――気付けば1000年もの間連れ添っていた、彼女の夫だ。
「あたしも、どうせならサラが来てくれる方が良かったわね。
……あの子、元気にしてる?」
「つい先日、また執務室が汚いって雷を落とされたところだ。
春咲姫の嬢ちゃんが、俺のことは放っておくように――って、アイツに一言言ってくれりゃいいんだがなあ」
拗ねた子供のように口元を歪めながら、がしがしと乱暴に頭を掻くグレン。
一見すれば、その様子はまさに世間話をするためだけに立ち寄った、だらしのない夫という雰囲気だ。
しかしルイーザは、グレンが訪ねてきた本当の理由など、既に察しがついていた。
そして夫なら、こうして多少の言葉を交わし、ここから家の中の様子を見ただけで――彼女がどういう行動を取ったか見抜けるだろうということも。
「……予想される逃走経路の一つに、この家があるのを見たときから予感はあったが……」
頭を掻いていた手を止め、グレンは長い息を吐き出しながら、ルイーザを見た。
「リリーのことを……思い出したか?」
「それは、お互いさまなんじゃないの?」
グレンの問いに、ルイーザは悪びれるどころか、むしろ挑発するように問い返す。
果たして――。
グレンはしばしの間を置いて、参ったとばかりに首を振った。
「……お互い、こうも長いと隠しごとが出来んな」
「ずっと昔からよ。――あなたの方はね」
ルイーザは、くすりと笑い――。
玄関から居間の奥、写真の中で彼女に応えるように笑う、亡き愛娘を。
続けて、同じくそちらに視線を向けていた夫を、ちらりと見やる。
人一倍優しいがために……人一倍、喪失に心を痛めるがゆえに。
遙か昔の戦時中、同胞の人々を護ろうと戦い、そして実際多くの命を救いながら……しかし病魔に冒された最愛の娘だけは救えなかった、哀しい男。
自分に出来るのはそれだけと、死を払うために戦いながら……戦うがゆえに、死のただ中に身を置かざるを得なかった、不器用な男――。
それがグレンという男だと、ルイーザは誰よりも心得ている。
そしてそんな男だからこそ、自分と同じように――。
理屈では速やかに兄妹を確保するのが最善だと分かっていても、いざとなれば躊躇い、どこかで手心を加えてしまったであろうことも。
「それで、あたしをどうするの? 反逆者として連行する?」
グレンはもう一度、首を横に振った。
「まさかな。
病んで苦しむ子供を助けて、それがどう罪になるって言うんだ」
そして、ゆっくりとルイーザに背中を向ける。
「……なあ、ルイーザ……。
不老不死を受け入れたこと、後悔したりはしていないか?」
「いいえ」
グレンの言葉に、一瞬驚きはしたものの……ルイーザは即座にそう否定した。
「でなければ、サラを授かることもなく……。
リリーを喪った悲しみばかりを抱いて、墓に入ることになったでしょうから」
「――そうか。俺もだ」
背中を向け、まぶしそうに手の平をかざして空を見上げたまま――。
グレンは、静かに答えた。