食堂の入り口に姿を現したカインは、三人の方へと静かに歩みを進める。
その手は返り血で汚れていたが――彼自身には、着衣の乱れさえ見当たらない。
「!? おいおい、まさか……。
外を固めていた部下が全員、俺に連絡するヒマもなくやられたってことか?
挙げ句、この俺が、今の今までまるで気配に気付かなかっただと……?
まったく、悪い冗談もいいところだ……!」
――つい今まで、この場を完全に掌握していたはずのグレンの気配が揺らぐ。
その苦々しげな表情を見れば……彼が心底驚いているのは明らかだった。
「カイン!」「おじさん!」
「――すまない、二人とも。遅くなったな」
兄妹の歓声に、カインは普段と同じような調子ながら……しかしどことなく申し訳なさそうな声色で応える。
そして――改めて、ナビアを捕らえているグレンを見据えた。
「護る、という約束なのでな。
――その子を離してもらうぞ」
そう宣言するや否や……ゆらりと、カインの身体が
――刹那。
グレンは、ナビアをあっさりと突き放し――。
その、文字通り一瞬で交わされた攻防に、見惚れたように呆けるノア。
彼には知る由もなかったが、グレンが、人質として切り札になるはずのナビアを躊躇いなく解放したのも――。
彼女を捕らえたままでは勝負にならないという、相手の力量を瞬間的に見極めた、歴戦の勇士ならではの本能的な判断だった。
事実……カインとしても、人質に固執してくれれば、今の攻めで決められると踏んでいたのだ。
それだけに、グレンの見事な判断には彼も内心驚いていた。
やがて……一拍にも満たない間を置いて、カインの蹴りを防いだことで破壊された、グレンの拳銃の残骸が地面に落ちる。
それに合わせて、カインはグレンを牽制したまま――鋭くノアに指示を飛ばした。
「ノア! ナビアを!」
我に返ったノアは、自分もグレンに銃口を向けて警戒したまま……。
カウンターを乗り越えて、尻もちをついているナビアに近付き、肩を貸して立ち上がらせると――揃って、カインの方へと移動する。
「……まったく、なんて技のキレしてやがる……。
そりゃ、新史生まれの小僧じゃ相手にならんわけだ……!」
カインと視線を交えたまま、悪態をつくグレン。
しかし、その表情は――。
依然として気迫に満ちてはいるものの、先程までと比べてどこか愉しげだと……そんな風にノアは感じた。
「――貴様もな。
どうやら、ただ本物の『死』を知っている……という程度ではないらしい」
「フン……。
実はお互い、似た者同士ってことなのかも――な!」
言うや否や――グレンはさっと、腕を素早く翻す。
その手の中に、いつの間にかナイフが煌めいていることをノアが見て取ったそのときには――既に、銀色の凶刃は宙に放たれていた。
一直線に――事態を理解しきれていない、ノアの眉間目がけて。
「――――え」
……迫り来る刃は、ゆっくりと、宙を泳いでいるように感じられた。
しかし、まるでその速さにノア自身が合わせているかのように……避けようにも、身体はどうしても動こうとしない。
ただ、じっくりと――飛来する刃に貫かれるその瞬間を、想像することしか出来ない。
だが、その呪縛を――脇から差し延べられた、大きな手が打ち破った。
「――――ッ!」
――カインが、寸前まで迫って来ていたナイフを叩き落としたのだ。
勢いのまま床で跳ねた刃の閃きが、見開かれたままのノアの瞳に照り返す。
呪縛が解かれ、ようやく元の流れを取り戻したと感じる時間の中――。
気付けば、これまでの落差を埋めるかのように、グレンが急速に近付いて来ていた。
ナイフからノアを救うため、
そこに狙いを絞っていたグレンが、己の腕をムチのようにしならせて絡みつこうとする。
腕を固め、動きを封じ――逃れようのないところへ、必殺の一撃を叩き込むべく。
しかし、それを――カインはかわした。
いや、より正確に言えば、グレンの機先を制して反撃するように――。
逆に彼の方へと、腕を突き出していたのだ。
「…………ッ!!」
グレンは動きを見切られたことに驚くも、間合いと反応からして、ギリギリで致命傷は免れると読み――。
身を捩らせて、首を狙ったカインの手刀から逃れようとする。
だが、それすら嘲笑うように――。
カインの袖口からは、銀色の光が飛び出していた。
「貴様の仲間の物だ――返すぞ」
無機質な声でそう囁くカインの声に、その光がナイフだとグレンが理解したときには、既に遅く――。
一瞬で手刀の射程を引き延ばした肉厚の刃は、彼の喉を深く貫いていた。
「ごっ……ァ――!」
グレンは食らった一撃の勢いのまま、よたよたと後ずさったが……。
まだ余力があるのか、喉に突き立ったナイフを自ら引き抜く。
そして、苦笑めいた表情を浮かべながら、血の泡混じりに二言三言、何事かを呟いたかと思うと――。
喉からあふれ出た自らの血溜まりの中に、膝から崩れ落ちた。
「……二人とも、大丈夫か? よく頑張ったな」
グレンが動きを止めるのを見届けたカインは……。
緊張のためか、まだ構えたままだったノアの銃に、そっと手を添えて下げてやると……力が入らない様子のナビアを抱き上げる。
一方ノアは、その高ぶった気を静めようと、何度か深呼吸を繰り返す。
のんびりとしていられる状況ではなかったが、カインはそれを黙って見守っていた。
やがて……幾分落ち着いたらしいノアは、カインに急いでここを出ようと提案する。
「……前に話しておいた出口、覚えてるよな? あれを使おう」
「分かった。あまり時間がないが、荷物はどうするんだ?」
「ナビアが先に捕まったことから考えても、部屋の方はもう押さえられてるか、それでなくても侵入口として固められてると思う。
ヘタに姿を見られたくないし、諦めるしかない」
答えて、ノアはキッチンに置きっぱなしになっていた
「これ一つだけでも残ったのが不幸中の幸いだよ。
――行こう!」
* * *
「……大丈夫ですか、隊長?」
ノアたちが食堂を出てから、30分ほどが過ぎた頃――。
駆けつけた部下の手当てもあって、グレンはようやく意識を取り戻した。
ただの人間であれば即死は免れない傷だったが、今は生々しい血糊以外、痕跡はまったく残っていない。
しかし、気分的なものだろう――。
何となく違和感を覚えて、グレンは自身の首を撫でつける。
「すまんな、情けない姿をさらしたもんだ。
……それで、坊主どもの足取りはどうなってる?
包囲を突破されたにしても、後を追えないってことはないだろう?」
「はっ、それが――実は、どの出入り口にも姿を見せず……」
部下の困惑しきりといった報告に、思い切り顔をしかめるグレン。
「チッ……なるほどな。あの坊主め。
ここの建設記録の見取り図を書き換えて、いざというときの脱出用の出口を隠してたってところか……やってくれる」
グレンはヘッドセット型の通信機で、工場の外を固めている他の部下に指示を飛ばす。
「――全員、聞こえているな!
ここはもういい、チームごとに街の方へ追跡を始めろ! 急げ!」
「……間に合うでしょうか」
側の部下の呟きに、グレンは髭をさすりながらほんの少し考えた後、冷静に答えた。
「可能性は低くないだろう。妹の方が体調を崩しているようだったからな。
抱えて行くにも、あれでは状態を気遣って、休憩を取る必要が出てくる。
……そう早くは逃げられまい」
そうして、自らも追跡に加わろうとしたところで……部下から彼に通信が入った。
まさかもう見つかったのか――と、拍子抜けのような気分を味わいながら回線を繋げる。
しかし、相手は――。
別任務のために、若干名割いていた方の部下だった。
「……なに?
よし、分かった――とにかく後で俺も顔を出す。
それまでは、引き続き拘束しておけ」
「どうしました?」
怪訝そうな部下に、グレンはつい先刻、自分の喉を貫いたナイフを拾い上げながら答える。
「――ヨシュアが見つかった。
滞在先は見つけたものの、尾行を撒かれたと報告を受けていたんだが……先程、街でぶっ倒れていたところを確保したらしい。
……あのカインを名乗る男、出かけているにしても妙に現れるのが遅いと思ったが……。
つまりは、期せずして、ヨシュアが足止めになっていたということか」
カインが『仲間の物』と言ったそのナイフは、よく見れば
その事実から事情を察したグレンは、ナイフを懐に収めると、もうここには用は無いとばかりに出口へ向かう。
そんなグレンの背に、部下は遠慮がちに質問を投げかけた。
「――隊長。自分は通信で、ここでのやり取りをある程度聞いていましたが……。
隊長ならば、あの男が戻ってくる前に、兄妹を確保することも容易かったのではないかと思います。
なのに……どうして、あんな……脅しをかけるようなことを?」
グレンは足を止めると、困ったように笑った。
「そりゃお前、俺のことを買い被り過ぎだろう。
――それとも何か?
俺がわざと、ヤツらが逃げられるように取り計らってやったとでも?
言葉通りに、死ぬほど痛い思いまでして?」
グレンの射抜くような視線を受けた部下は、大慌てで手をぶんぶん振る。
「い、いえ、決してそのようなことは!
た、ただ、効率の面からも、どうしても気になったものですから……」
「冗談だ。
まァ――何と言うかあれは、イタズラが過ぎたことへの、俺なりのお仕置きのつもりだったんだがな」
その一言に、部下は首を傾げる。
するとグレンは、もうこの話は終わりだと大きく手を打った。
「――そら、お前もさっさと仕事に戻れ。
あの坊主どもが使っていた部屋を調べて、手掛かりになりそうなものを片っ端から回収するんだ、いいな!」
「は、はっ! 了解しました!」
駆け足で食堂を出ていく部下。
それを見送った後、グレンは改めて食堂内を振り返った。
――部下への言葉は嘘ではない。
実際には兄妹を傷付けるつもりなど毛頭ないにもかかわらず、ああして脅しをかけたのは、彼なりの戒めのためだった。
多くの人間に迷惑をかけたことを自覚させ、その上で――。
『死』がいかに恐ろしいものかを、改めてその身に教え込むための。
自分は嫌われるかも知れないが、そもそも好かれるような人間でもなし……。
引き換えに彼らが不死のありがたみを感じてくれるなら、やるだけの価値はあると思っての芝居だったのだ。
「……しかし、まあ……」
グレンの脳裏に浮かぶのは、我が身が危険にさらされながら、それでも決して助けを乞いはしなかった妹と――。
妹の危機を前にして心が揺れながらも、最後まで、安易に銃口を下げようとしなかった兄の姿だった。
「子供じみた一過性のワガママとは違う、ということなのか……」
グレンは、彼には珍しいもの静かな表情で――。
またそっと、自身の髭を撫でつけた。