「……ふむ、大丈夫じゃ。身体的な問題は何も無い」
先生は白くて豊かな顎髭を撫でつけながら、いつものように私にそう言った。
――けれど、その表情は明るくはない。
当然だ。
分かっているのだ、先生も――そして私自身も。
問題は身体の方じゃなくて、私の心にあるということぐらい。
先生の白い髪も髭も白衣も、白い診療室も、白い調度品も、白いカーテンも、白いベッドも……そして、私自身の白い手も。
私は嫌いだった。
本当に怖くて――嫌いだった。
白は……どんなに美しくても、簡単に血で赤く染まってしまうところが、どうしようもなく嫌いだった。
切り裂いた喉からあふれる血で染まり――
貫いた胸から流れる血で染まり――
唇からこぼれる血で染まる。
やがては、命そのものすら吸い取って――最後には赤から黒へ染まるのだ。
私の周りのあらゆるものが、そして……私自身が。
――脳裏を過ぎるそんな妄想が、現実の視界すらも、赤く黒く染めようとする……。
私は必死に頭を振り、大きく息をして心を落ち着かせ……妄想を振りほどく。
苦しくて堪らないけれど、これはいつものことだから……。
何とか自分を保っていられる、そのギリギリで踏ん張る
いっそ、壊れてしまえば楽なのかもしれない――そんな風にも思う。
けれど、そんなことが出来るわけがない。
なぜならそれこそが、私の最も恐れていることなのだから――。
「……お偉方にかけ合って、お前さんの『仕事』を減らすように――いや、いっそ休養を取らせるようにと、進言しなければなるまい。
そもそも、お前さんのような子供には……負担が大き過ぎるんじゃ」
先生は、私を気遣ってそう言ってくれる。
実際この人なら、自分の不利益も顧みずに、言葉通りの行動をしてくれるだろう。
でも――それが受け入れられるわけがない。
先生の影響力とか、そうした問題じゃなくて……ただ、ありえないからだ。
私は、この仕事――。
そう、『人を殺す』という、この仕事のためだけに育てられて。
そして、生かされているのだから――。
「ありがとうございます、先生。
でも……大丈夫ですから。いずれ、きっと……慣れます」
本当にそうなってくれたらどれだけ楽だろう。
――でも間違いなく、私は慣れることはない。
人を殺すことに――人の『死』そのものに。
そのあまりのおぞましさに、恐ろしさに……私はずっと怯え続けるのだろう。
……私はこれ以上ヘタに追及されないように、さっさと先生に一礼して診察室を出た。
意識を失ったりはしないよう、何とか気を張りつめてはいたけれど……。
正直言って気分が悪くてしょうがない私は、自分でもどこをどう歩いているのか分からないような状態で……。
けれど本能が理解しているのか、何とかいつもの場所に辿り着いた。
――それは、施設の中にある庭だ。
いわゆる猫の額ほどの広さの、庭と呼ぶのもおこがましい、小さな庭。
……そう、私の本能は理解している。
ここにだけ、安らぎがあることを。
ここでだけ、平穏が取り戻せることを――。
「……だいじょうぶ?」
――気が付けば……。
庭の片隅で膝を突いて
いつものように彼女が、私を
……彼女と知り合ったのがいつだったかは覚えていない。
けれどそのときから、私は彼女に平安を見出し、救われ続けている。
私たちに『仕事』を課し、それは世のため人のためだと説く、偉ぶった大人が奉る『神サマ』なんかじゃなく――。
小さく可憐な花のような、同じ人間の彼女に。
忌み嫌うことも恐れることもしなくていい、優しくてあたたかな白。
決して、いかなる血にも赤く黒く汚れることのない、気高く美しい白。
――それが、私にとっての彼女だった。
今日も彼女は、初めに私を労って以来、声をかけなかった。
ただただ、静かに優しく、私の背中をさすってくれていた――揺り籠でぐずる幼子をあやす、子守歌のように。
いつの間にか、私は泣いていた。
泣きじゃくって、本当に幼子になったかのように……。
抑え込み、溜め込んでいたものを、涙ごと吐き出していた。
「もう、殺したくない……!
死にたくない、殺されたくないけど……でももうイヤだ……!
もう殺したくない、殺したくないよぉ……っ!」
「……うん……」
私よりも幼い彼女は、しかし私よりもずっと人の生死を悟っているかのように……。
ただその深く大きな心を開いて、私を包み込んでくれていた。
やがて、涙も止まり……。
本当の意味で、ようやく落ち着きを取り戻した私に、少女は愛らしく小首を傾げてもう一度「だいじょうぶ?」と尋ねた。
――私は、今さらながら気恥ずかしささえ覚えながら、大丈夫と答える。
しかし……そうして改めて正面から彼女の顔を見て。
むしろ彼女こそ、体調を心配されなければならないと感じた。
彼女の顔は、いつにも増して白かったのだ――。
血の気も失せ、蒼白いというほどにまで。
当然ながら、私は彼女の体調を気遣ったが……返ってきたのは私と同じ、大丈夫という答えだった。
彼女によれば、この程度ならいつものことなのだという。
そう……彼女も、また。
私とは別の形で、死の恐怖にさらされ続けているのだ。
それにもかかわらず、どうしてこうも彼女は穏やかに……。
そう、肉親でもないのに、血と死の臭いが染みついた、私のような汚れた人間を気遣ったり出来るのか――。
ふと疑問に思った私は、彼女に訊いてみた。
もしかして、死ぬのが怖くないの――と。
すると彼女は弱々しく笑いながら、まさか、とばかりに首を横に振った。
「そんなことない。死ぬのは……怖いよ。すごく怖い。
だって、死にたくないもん。まだ生きていたいもん……。
でも……でもね、おねえちゃんが死ぬのだってイヤだから。
つらそうにしてるのも、苦しそうなのも……イヤだったから」
彼女の答えは、もしかしたら、ごく普通の世の中では、取るに足らない常識でしかないのかも知れない。
私が――私たちが、異常なだけなのかも知れない。
でも、私は――その答えに、また頬が濡れるのを止められなかった。
嬉しくて、そして――何よりも、悲しくて。
……彼女は知らない。
彼女がここにいて、そして生きているがゆえに――。
ただそれだけで、彼女の知らないところで……彼女の意志とは無関係に、彼女とは何の関係もない人たちが、死んでいっていることを。
彼女を護り、生かす――。
ただそのためだけに、人を殺めている者がいることを。
もちろん、そのことを、やはり自らが生きるためだけに他者を殺す私が、悪いなどと言えるわけがない。
ただ――。
他者の命を、これほどに愛おしむ彼女が……。
そんな彼女が、なのに、多くの死の上に生かされているというその皮肉な事実が、どうしようもなく悲しくて――そして、ひたすらに憎かった。
「……死なんて、なければいいのに。
誰も死んだりしなければいいのに……!」
馬鹿げているのは承知で……。
けれど、世の摂理への心からの恨み言を、私は口にせずにはいられなかった。
そう……そもそも『死』がなければ、私たちがこんなに苦しむこともないのに。
死がなければ、殺すということすらなくなるのに。
生きるために殺すことも、殺すために生きることもないのに。
――殺さなくても、死ななくても……よくなるのに。
「ねえ、どうしてだろうね、オリビア……」
心の、想いの切れ端だけを言葉にして少女に投げかけながら、私は――。
あまりに馬鹿馬鹿しい疑問を、それでも繰り返さずにはいられなかった。
人は、命は……。
どうして、死ななければならないのだろう――と。