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第2節 決意と迷いと Ⅱ


「――あ、お兄ちゃん!

 もうすぐご飯できるから、おじさん呼んできてね!」



 端末にかじりついての情報整理も一段落し、部屋を出てみれば漂う良い匂い。

 それに惹かれて、食堂に顔を出したノア――。


 そんな彼に妹が投げつけたのは、労いの言葉どころか、新たな仕事の指示だった。


 追い出されるように食堂を離れたノアの足取りは、とぼとぼと力無い。



「まったく、アイツも大概、カインにべったりだよなあ……。

 天咲茎ストークにいるときはその対象は春咲姫フローラだったし……。

 実は本能で、自分により甘い相手を嗅ぎ分けてるとか……?」



 今ナビアが作っているシチューが、実は春咲姫から伝授されたものであるように……。

 ナビアは天咲茎にいる頃は、姉のようでもある春咲姫にべったりだった。


 しかしそのときにはまるで感じなかった、やるせないような感覚が今のノアにはある。



 ――二人が、まるで親子のようだから――?


 ふっとノアの脳裏に、そんな考えが過ぎる。



 ……親子――。

 正直なところ、その言葉から導かれる感情は、ノアにとって良いものではない。


 まず彼は――そしてもちろんナビアも、父親のことはまったく知らなかった。

 そもそもデータすら存在しないのだ。


 ただこれは、別に後ろめたい理由があるわけではない。


 不老不死を手に入れた庭都ガーデンの人間たちは、精神の安定のため――精神にほど良い刺激を与えるため――なるべく『変化の無い生活はしない』ようにと心がけているわけだが……。


 それが長い年月のうち、結婚という制度の在り方を大きく変えた。


 端的に言って、配偶者を一人と決めること――それは、日々の生活から『変化』を奪い取るのではないかと、敬遠する人間が増えたのだ。

 結果として今では、結婚をする人間がいないわけではないが、恋愛をするならするで、そうした枠にとらわれないよう自由に、というのが庭都住民の主流になっていた。


 つまるところ、兄妹の母親は父親は誰なのか、特に気にしていなかったのだ。


 そして天咲茎もまた、それを無理に詮索するようなことはしなかった。

 だから、父親のデータは、消されたわけでも、改竄かいざんされたわけでもなく……初めから存在していないだけなのだ。


 一方――母親については、きちんとデータも残っていた。


 顔も、名前も、住所も――データベースの中に、そしてそれを何度も閲覧したノアたちの頭の中に、確かな記憶として刻み込まれている。



 だが……逆に言えば、それだけしかなかった。



 兄妹の実の母親は、ノアたちを天咲茎に預けてから、会いに来るどころか連絡の一つも寄越さなかった。この十数年間一度もだ。

 それでもナビアは、そんな顔を合わせたこともない母を無邪気に慕っていた。

 いや、今でもそうだろう。


 一方……ノアはと言えば。

 歳を経るにつれ、母に対して、薄情だと嫌悪を募らせるばかりだった。



 ――だけどそれは、もしかしたら、ねているだけなのかも知れない――。



 まるで親子のようなナビアとカインの姿を見るにつけ、ノアはふと、そんな風に思った。


 そんなナビアとカインの関係を、自分はうらやましいと感じているのではないだろうか――。

 そしてそう感じるのは、母に甘えたいと願いながら、それが叶えられずにいたから……だから、母のことを必要以上に嫌っていたのではないか――と。

 そんな風に、思ってしまったのだ。


(でも……あの女が薄情なのは確かなんだ。

 そうだよ、拗ねてるだけだなんて……そんな、小さい子供じゃあるまいし……)


「ああもう、バカバカしい……!」


 つまらないことを考えたと悪態をつき、ノアは少し乱暴にカインの部屋のドアを開ける。



 窓際で、射し込む夕日を浴びながら……。

 いつもの黒衣姿のカインは、泰然と佇んでいた。



(父親、か……)


 それはやっぱり、こんな風に大きくて、何にも動じないような存在なのだろうか……。


 ついさっきまで考えていたこともあって。

 ノアはしばらく、そんなカインをぼうっと見ていた。



「ノア……? どうかしたのか?」


 改めて呼びかけられたノアは、ああ、と少しバツが悪そうに目を合わせる。


「えっと……。

 いや、ナビアがさ、もうすぐ夕飯が出来る、って……」


「それでわざわざ呼びに来てくれたのか。

 ――すまないな、お前も一仕事終えたところだろうに」


「いやまあ……何て言うか、ほら!

 ナビアのヤツ、うるさいしさ……ほっとくと」


 ささやかながら、思わぬところから労いをもらって、ノアはつい照れてしまう。

 それを隠そうと、つい、口がどうでもいいことを並べ立てた。


「それでアイツが機嫌損ねたりして、この先ずっとマズいメシ作られたりしたら困るだろ?

 だから――」


 ……何気ないノアの言葉。

 深い意味があったわけでもない、照れ隠しのその言葉に、しかし意外にも――。

 カインは、鋭く言葉を重ねてきた。



「この先ずっと――か。

 本当に、そう思っているのか?」



 一瞬何のことか分からず、怪訝そうにするノア。

 カインはもう一度、真剣な表情でゆっくりと問い直す。



「この先ずっと――いつまでも。

 この生活を続けていられると、本当にそう思っているか?」



 今度こそ、ノアはカインの真意を悟った。

 悟っただけに、軽々しい発言をすることも出来ず……しばらく押し黙って考える。


 そしてカインはそれを、ただ静かに見守っていた。



「――俺は……」


 やがて、自分なりに考えを整理したノアは……。

 真剣な表情で、改めて口を開く。


「俺はさ。ただ普通に、人間として当たり前の寿命を迎えるまでの間、ナビアとこの庭都で生活出来ればよかった。穏やかに過ごせればよかった。

 そして、それは決して不可能なんかじゃないって思ってた。

 でも――」


 ノアは一瞬目を伏せる。

 開け放したドアから流れ込み、鼻をくすぐるシチューのいい香りがなぜか、切なく感じた。


「天咲茎を逃げ出して、実際にこうして生活を始めてみて……分かった。

 データを改竄したりして、住む場所とか身分証明といった環境を確保しても、結局、不老不死を否定した以上、俺たちは歳を取る。

 移り変わる存在だから、変わらない環境の中には居続けられない。

 だから……永遠の命があって、永遠に俺たちを追い続けられる存在を相手に、最期の時を迎えるためには……一つの所に留まることなく、逃げ続けるしかないんだ。

 でも、それは……本当に難しいことなんだよな」


 ノアは笑う。

 自分を――自分の中の甘い考えを、嘲笑う。


「……少し考えれば分かることなのにな。

 多分俺、敢えてその事実を見ないようにしてたんだ。

 きっと何とかなるって、楽観視してないと……逃げ出すなんて出来なかったんだ。

 こういう、一見平穏な生活が出来る環境を作っておいたのも、裏を返せば、そんな甘えの表れなんだと思う。

 ――情けない話……だよな」


 自嘲するノアを見据え、カインはいつものように、落ち着いた声で応じる。


「だが、お前は行動した。

 そうするべきだと信じる道を、確かに選んだのだ。

 そこには、確かに信念があるはずだ――お前自身が、今はまだ分からなくとも。

 それに……だ。

 安定した生活環境を作ろうとしたのは、何も甘えのせいだけではないだろう?」


 やはり表情は乏しいものの、心を見透かしたかのようなカインの言葉に……。

 ノアは驚きながらも、それを認める。


 折しも階下からは――。

 その理由となる人物の「おそーい!」という怒声が、微かに響いたところだった。


「……ナビアはさ。本人も少し言ってたと思うけど、ああ見えて意外と身体が弱いんだ。

 ちょっとしたことで、すぐに体調を崩して寝込んだりする。

 だから、アイツに負担をかけたくなかった。

 いくら俺と同じ考えを持って、不老不死を否定して逃げ出す道を選んだとしても……つらい目には遭わせたくなかった。

 アイツがいつまでも変わらず笑っていられるように……。

 出来る限り、苦労をしないですむように……したかったんだ」


 一度、階下からの呼び声に応えるように、ちらりと背後を振り返ったあと。

 「でも」とノアは続ける。


「……最近、分かってきたんだ。

 アイツは……平穏だからってだけで笑うんじゃなくて、自分を――いや、むしろ俺を励ますために笑うんじゃないかって。

 笑っていれば前を向けるって分かってるから……だから笑うんじゃないか、って。

 ――俺が思ってたより、ずっと強いんだな……って」


 ノアの言葉を受けて、カインは静かに――しかし満足そうに、頷いた。


 当のノアは、その反応に……。

 嬉しいとも恥ずかしいとも言えない表情で、所在なく頭を掻く。


「――ま、まあ、アイツ自身、それをどこまで分かってるのかは怪しいとこだけどさ」


 まるで、ノアのその発言が聞こえていて、それに対して意義を申し立てるような絶妙のタイミングで――。

 「おーにーいーちゃーん!」と、また階下から怒声が届けられる。


 それに対して――。

 カインが珍しく、はっきりとした苦笑を浮かべた。



「……取り敢えず、話はまた後にした方が良さそうだな」



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