「――あ、お兄ちゃん!
もうすぐご飯できるから、おじさん呼んできてね!」
端末にかじりついての情報整理も一段落し、部屋を出てみれば漂う良い匂い。
それに惹かれて、食堂に顔を出したノア――。
そんな彼に妹が投げつけたのは、労いの言葉どころか、新たな仕事の指示だった。
追い出されるように食堂を離れたノアの足取りは、とぼとぼと力無い。
「まったく、アイツも大概、カインにべったりだよなあ……。
実は本能で、自分により甘い相手を嗅ぎ分けてるとか……?」
今ナビアが作っているシチューが、実は春咲姫から伝授されたものであるように……。
ナビアは天咲茎にいる頃は、姉のようでもある春咲姫にべったりだった。
しかしそのときにはまるで感じなかった、やるせないような感覚が今のノアにはある。
――二人が、まるで親子のようだから――?
ふっとノアの脳裏に、そんな考えが過ぎる。
……親子――。
正直なところ、その言葉から導かれる感情は、ノアにとって良いものではない。
まず彼は――そしてもちろんナビアも、父親のことはまったく知らなかった。
そもそもデータすら存在しないのだ。
ただこれは、別に後ろめたい理由があるわけではない。
不老不死を手に入れた
それが長い年月のうち、結婚という制度の在り方を大きく変えた。
端的に言って、配偶者を一人と決めること――それは、日々の生活から『変化』を奪い取るのではないかと、敬遠する人間が増えたのだ。
結果として今では、結婚をする人間がいないわけではないが、恋愛をするならするで、そうした枠にとらわれないよう自由に、というのが庭都住民の主流になっていた。
つまるところ、兄妹の母親は父親は誰なのか、特に気にしていなかったのだ。
そして天咲茎もまた、それを無理に詮索するようなことはしなかった。
だから、父親のデータは、消されたわけでも、
一方――母親については、きちんとデータも残っていた。
顔も、名前も、住所も――データベースの中に、そしてそれを何度も閲覧したノアたちの頭の中に、確かな記憶として刻み込まれている。
だが……逆に言えば、それだけしかなかった。
兄妹の実の母親は、ノアたちを天咲茎に預けてから、会いに来るどころか連絡の一つも寄越さなかった。この十数年間一度もだ。
それでもナビアは、そんな顔を合わせたこともない母を無邪気に慕っていた。
いや、今でもそうだろう。
一方……ノアはと言えば。
歳を経るにつれ、母に対して、薄情だと嫌悪を募らせるばかりだった。
――だけどそれは、もしかしたら、
まるで親子のようなナビアとカインの姿を見るにつけ、ノアはふと、そんな風に思った。
そんなナビアとカインの関係を、自分はうらやましいと感じているのではないだろうか――。
そしてそう感じるのは、母に甘えたいと願いながら、それが叶えられずにいたから……だから、母のことを必要以上に嫌っていたのではないか――と。
そんな風に、思ってしまったのだ。
(でも……あの女が薄情なのは確かなんだ。
そうだよ、拗ねてるだけだなんて……そんな、小さい子供じゃあるまいし……)
「ああもう、バカバカしい……!」
つまらないことを考えたと悪態をつき、ノアは少し乱暴にカインの部屋のドアを開ける。
窓際で、射し込む夕日を浴びながら……。
いつもの黒衣姿のカインは、泰然と佇んでいた。
(父親、か……)
それはやっぱり、こんな風に大きくて、何にも動じないような存在なのだろうか……。
ついさっきまで考えていたこともあって。
ノアはしばらく、そんなカインをぼうっと見ていた。
「ノア……? どうかしたのか?」
改めて呼びかけられたノアは、ああ、と少しバツが悪そうに目を合わせる。
「えっと……。
いや、ナビアがさ、もうすぐ夕飯が出来る、って……」
「それでわざわざ呼びに来てくれたのか。
――すまないな、お前も一仕事終えたところだろうに」
「いやまあ……何て言うか、ほら!
ナビアのヤツ、うるさいしさ……ほっとくと」
ささやかながら、思わぬところから労いをもらって、ノアはつい照れてしまう。
それを隠そうと、つい、口がどうでもいいことを並べ立てた。
「それでアイツが機嫌損ねたりして、この先ずっとマズいメシ作られたりしたら困るだろ?
だから――」
……何気ないノアの言葉。
深い意味があったわけでもない、照れ隠しのその言葉に、しかし意外にも――。
カインは、鋭く言葉を重ねてきた。
「この先ずっと――か。
本当に、そう思っているのか?」
一瞬何のことか分からず、怪訝そうにするノア。
カインはもう一度、真剣な表情でゆっくりと問い直す。
「この先ずっと――いつまでも。
この生活を続けていられると、本当にそう思っているか?」
今度こそ、ノアはカインの真意を悟った。
悟っただけに、軽々しい発言をすることも出来ず……しばらく押し黙って考える。
そしてカインはそれを、ただ静かに見守っていた。
「――俺は……」
やがて、自分なりに考えを整理したノアは……。
真剣な表情で、改めて口を開く。
「俺はさ。ただ普通に、人間として当たり前の寿命を迎えるまでの間、ナビアとこの庭都で生活出来ればよかった。穏やかに過ごせればよかった。
そして、それは決して不可能なんかじゃないって思ってた。
でも――」
ノアは一瞬目を伏せる。
開け放したドアから流れ込み、鼻をくすぐるシチューのいい香りがなぜか、切なく感じた。
「天咲茎を逃げ出して、実際にこうして生活を始めてみて……分かった。
データを改竄したりして、住む場所とか身分証明といった環境を確保しても、結局、不老不死を否定した以上、俺たちは歳を取る。
移り変わる存在だから、変わらない環境の中には居続けられない。
だから……永遠の命があって、永遠に俺たちを追い続けられる存在を相手に、最期の時を迎えるためには……一つの所に留まることなく、逃げ続けるしかないんだ。
でも、それは……本当に難しいことなんだよな」
ノアは笑う。
自分を――自分の中の甘い考えを、嘲笑う。
「……少し考えれば分かることなのにな。
多分俺、敢えてその事実を見ないようにしてたんだ。
きっと何とかなるって、楽観視してないと……逃げ出すなんて出来なかったんだ。
こういう、一見平穏な生活が出来る環境を作っておいたのも、裏を返せば、そんな甘えの表れなんだと思う。
――情けない話……だよな」
自嘲するノアを見据え、カインはいつものように、落ち着いた声で応じる。
「だが、お前は行動した。
そうするべきだと信じる道を、確かに選んだのだ。
そこには、確かに信念があるはずだ――お前自身が、今はまだ分からなくとも。
それに……だ。
安定した生活環境を作ろうとしたのは、何も甘えのせいだけではないだろう?」
やはり表情は乏しいものの、心を見透かしたかのようなカインの言葉に……。
ノアは驚きながらも、それを認める。
折しも階下からは――。
その理由となる人物の「おそーい!」という怒声が、微かに響いたところだった。
「……ナビアはさ。本人も少し言ってたと思うけど、ああ見えて意外と身体が弱いんだ。
ちょっとしたことで、すぐに体調を崩して寝込んだりする。
だから、アイツに負担をかけたくなかった。
いくら俺と同じ考えを持って、不老不死を否定して逃げ出す道を選んだとしても……つらい目には遭わせたくなかった。
アイツがいつまでも変わらず笑っていられるように……。
出来る限り、苦労をしないですむように……したかったんだ」
一度、階下からの呼び声に応えるように、ちらりと背後を振り返ったあと。
「でも」とノアは続ける。
「……最近、分かってきたんだ。
アイツは……平穏だからってだけで笑うんじゃなくて、自分を――いや、むしろ俺を励ますために笑うんじゃないかって。
笑っていれば前を向けるって分かってるから……だから笑うんじゃないか、って。
――俺が思ってたより、ずっと強いんだな……って」
ノアの言葉を受けて、カインは静かに――しかし満足そうに、頷いた。
当のノアは、その反応に……。
嬉しいとも恥ずかしいとも言えない表情で、所在なく頭を掻く。
「――ま、まあ、アイツ自身、それをどこまで分かってるのかは怪しいとこだけどさ」
まるで、ノアのその発言が聞こえていて、それに対して意義を申し立てるような絶妙のタイミングで――。
「おーにーいーちゃーん!」と、また階下から怒声が届けられる。
それに対して――。
カインが珍しく、はっきりとした苦笑を浮かべた。
「……取り敢えず、話はまた後にした方が良さそうだな」