――物資運搬のために整えられた幅の広い緩やかな坂道を上った先に、工場の敷地がある。
一辺が100メートル程度の、ともすれば研究所や病院のようにも見える小さな白い箱形の建物が幾つか連なり集まっているそこは……。
ただ、だからといって決して周囲から浮いているというわけでもなく――。
その立方体の群れは、まるで自然が生み出した前衛芸術的な巨石のように、周囲を取り巻くのどかな田園風景の中に、不思議と溶け込んでいた。
――その敷地内の一画に建つ、居住棟内。
「たーだいまー!」
自動掃除ロボットによって清潔に保たれているカーペット敷きの廊下の中央――。
特に広い個室の前に立ったナビアは、内側に元気な声で呼びかけながら、返事も待たずに勢いよくドアを開いた。
多人数による利用を考慮してか、大きめのテーブルにソファまで置かれた、広い窓から射し込む陽光のせいもあって清潔感あふれる部屋――。
「――っ!?」
その一角のデスクで
少しズレたままの眼鏡が、彼の驚きのほどを物語っていた。
「だーかーらぁっ!
いきなり大声出して入ってくるなっていっつも言ってるだろ!」
「だって、お兄ちゃん集中してたら、『入っていい?』って訊いても聞こえてないんだもん」
「それならそれで、いちいち大声出さなくても、普通に入ればいいだろ」
「大声じゃないとお兄ちゃん気付いてくれないもん。
あいさつは大事なんだよ」
言って、ナビアはほら、とばかりに小首を傾げてノアを見る。
ノアは、いつものことながらまるで動じない妹のマイペースさに敗北感すら感じながら……。
ズレた眼鏡を直しつつ、ため息混じりに挨拶を返す。
「おかえり。
――これでいいか?」
ナビアは満足そうに笑って、ソファにぽんっと腰を投げ出した。
ノアはもう一度大きな息を吐くと、ナビアの後に続いて入室し……運んできた買い物袋を壁際の棚の上に置いているカインに、恨みがましい目を向ける。
「――おいカイン、アンタいるのになんでコイツ止めてくれなかったんだよ?」
「止めるとも。
――そうする必要があると判断すればな」
相変わらず無愛想で抑揚のない返事を返すカインだったが、その中に、どこかしら楽しんでいるような響きが含まれていることにノアは気付く。
それは――ここ1週間ほど、隠れ家として予め用意していたこの場所で、こうして一緒に生活してきた成果のようなものだ。
そしてそれを裏付けるように、カインの口元には、笑みとも取れる微かな動きがあった。
「それにしてもカイン……アンタ、ナビアに甘くないか?
何て言うか、娘を溺愛する父親みたいだぞ?
――まあ、実例は知らないから、あくまでイメージの上で、だけど」
ついつい口を突いて出るのは憎まれ口だが……。
ノアとしては、希薄なものであれ、カインが表情を見せてくれていることは素直に嬉しかった。
「あれ、お兄ちゃん、ヤキモチ?
おじさんに構って欲しいの?」
「ちーがーうっての。
――そんなことより、街の方で何か変わったこととかなかったか?」
「うん? うん、えっとね……」
ノアのその何気ない問いに――。
ナビアは、『特に問題はなかった』ことを、脱線と蛇足をふんだんに交えた一大冒険譚のように語って聞かせる。
それは、肝心なところを、カインが合間合間に補足してくれなければ、慣れたノアですら煙に巻かれて話の本質を見失ってしまいそうなほどだった。
もっとも、それでもまだナビア本人にしてみれば、全然語り足りていないらしい。
もういい、と兄に止められて、不満げに頬を膨らませる。
「とりあえずカイン、アンタが一緒で助かったよ。
――ナビアの話だけじゃ、何も無しと解読するのに丸一日食わされるところだった」
ちらりと兄に一瞥されたナビアは、バカにするなと言わんばかりに口を尖らせた。
「そんなこと言うなら、お兄ちゃんだってお買い物、いっしょに来れば良かったのに。
部屋にずっと閉じこもってるなんて不健康だよ。
――
「しょうがないだろ?
天咲茎の方にどういう動きがあるかの情報収集とか、
――そうだ、それはともかくさ、カイン」
一息に妹に対して反論したノアは、いつものように壁際で佇むカインに向き直る。
「まだ夕飯まで時間あるんだし、ちょっと休んできたらどうだ?
アンタっていつも起きてる気がするけど、ロクに休んでないんじゃないのか?」
この1週間程度の間だけでも、ノアは、カインが眠っているところを見たことがない。
いやそれどころか、この隠れ家で安心して食事を採れるようになってようやく、兄妹の求めに応じて一緒にテーブルについてくれるようになったほどで……。
そうでなければ、座ってさえいなかったのだ。
だからといって、カインに疲れのようなものが見えるわけではなかったが……。
それがまた逆に、無理をしているのではないかと、ノアが気にかける理由でもあった。
「うん、そうだね。
おじさんもたまにはゆっくりした方がいいよ」
ナビアも同調してカインを促す。
兄妹二人から休息を勧められた当のカインは、二人の顔を見比べた後、目を伏せつつ小さく首を振った。
「私のことなら気にしなくていい、休息なら取れるときに取っている。
だが――」
そう続けて顔を上げたカインは、ささやかな微笑を浮かべた。
「……折角の好意だ。ここは甘えさせてもらおう」
どことなく緊張気味だった兄妹も、その返事に表情を綻ばせる。
さらにナビアは、嬉々とした様子で、ひょいと手を挙げた。
「あっ、はい!
それじゃお買い物にも行ってきたんだし、おじさんのためにも、今日のご飯は保存食とかじゃなくて、あたしがちゃんとお料理するからね!」
「――そうか。楽しみにしている」
まるで驚く様子も見せず頷くカイン。
その様子に、むしろ驚いて目を丸くしたのはノアだった。
「カイン、アンタ……ナビアがメシを作るって聞いて、驚かないのな?
言っちゃなんだけどナビアって――その、無軌道って言うか……こんななのに」
その発言が、ナビアの怒りを誘うであろうことは理解しつつも、思わずノアはそう尋ねずにはいられなかった。
「特に驚くほどのことでもないと思うが」
しかしいつもと同じ調子で、カインはさらりとそう言ってのける。
ノアは呆気に取られたが……少なくとも、この発言のおかげで、ナビアの機嫌が大きく悪い方へ傾いたりするようなことはなさそうだった。
現に、視界の端に捉えたナビアは、ニコニコとご満悦の様子だ。
「……やっぱり、ナビアに甘いんじゃないかなあ……」
「どうかしたか?」
「いーや、何でもない。
――ああそうだ、ナビアのヤツ、こんなだけど意外に料理の腕はちゃんとしてるから、そこのところは安心していいよ」
また半ば反射的に、妹の神経を逆撫でしそうな発言をしてしまうノアだったが、カインは、自身が言った通りまるで心配していなかったようで……。
いつものように「そうか」とだけ答えて、部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送り、ドアが閉じたあともしばらく視線を外さなかったノアの口からは……ややあって、盛大なため息がこぼれ出る。
その原因は、気安く振り返るのが躊躇われるような、背後からの――妹の放つ、冷ややかな視線だった。
――夕食までに、何とかして機嫌を取らないと、自分だけとんでもないものを食べさせられるかも……。
記憶を掘り起こせば、こうしたときに受けるしっぺ返しは、思い出したくもないものが大半であり――。
自らの迂闊な発言が招いた事態を憂えて、ノアは内心頭を抱えるしかなかった。