それゆえに方舟の主は方舟を降りる。
大樹となった鳩の小枝には背を向け、
帰らぬ鳩の小枝を求め、海の底へと。
〜
* * *
「よっこいしょ……と」
作業に一区切りのついたルイーザは畑から離れると、木柵の上に座って一息つく。
そうして、改めてぐるりと見れば……。
彼女自慢の小麦畑は、ちゃんと丁寧に整っているのがよく分かった。
田園地区――。
名の示す通り、のどかに広がる田園と、それを取り巻く草原が大半を占める地区。
その片隅の、こじんまりとした小麦畑と小さな丸太造りの家が、ルイーザのささやかな国だ。
最新の技術により、手間のかかる農事をこなさなくとも、安定した食料の生産・供給は可能となっているのだが、それでも農事に就く人間は僅かながらいた。
ルイーザもそんな一人だ。
理由は人それぞれだろうが、彼女については、昔ながらのやり方で――と言っても、彼女の外見はせいぜい30歳前後といったところだが――太陽の光の下、額に汗して作物を育てることが好きだからだった。
大地とともに生きている実感が得られる――と。
木柵に座ったまましばらく、自らが育てた小麦が、風に金色のさざ波を立てるさまを楽しんでいたルイーザだったが……。
そろそろ夕食の用意をと思い立って、玄関へ戻る。
すると……ちょうど彼女を訪ねてきたらしい、一人の警備隊員と鉢合わせになった。
「あら、アロン。
珍しいわね、どうかしたの?」
ルイーザの問いに、外見上は彼女と同年代に見える警備隊員のアロンは、愛想良く答える。
「ああ。
何か最近変わったことはなかったか、知り合いを回ってるんだが……どうかな?」
「ふうん……。
つまり、それは――何かがあった、ってことね?」
腕を組んで、にやりと笑うルイーザ。
その迫力すら漂う姿を前に……。
見た目は同い年ぐらいでも、実際には子供の頃から彼女の世話になっていて、今でも頭の上がらないアロンは、それこそ叱られた子供のように小さくなる。
「はあ……アンタには敵わないなあ、やっぱり。
まあ、アンタなら大丈夫だと思うし……。
――いいかい、今から言うことは絶対秘密にしてくれよ?」
「そうした方がいいと、あたしが思ったらね」
この返答にアロンは、まったく、とぼやきながらも、声を潜めて話を続ける。
「……実はな……。
天咲茎から、子供がいなくなったらしいんだよ」
アロンのその言葉を聞いた瞬間は、ルイーザには何のことかが分からなかった。
しかしその意味を噛み砕き、記憶と照らし合わせるうち……アロンの言わんとしていることを悟る。
そして、素直に驚いた。
「確か……200年振りだかに生まれた双子が、優れた才能があるからって、天咲茎で育てられることになった――って話があったわよね。
……まさか、その子たちが?」
「そう。もうすぐ洗礼を受けるってときになって、突然天咲茎を出たらしくてさ。
それで、洗礼の前にその子たちに万一のことがあったりしたらいけないから、行方を探るのに協力するように、って」
「……けど、どうしてまた。
ただの無断外出――ってワケでもないんでしょう?」
「俺にも……いや、
タイミングからして、不老不死になるのを拒んだってことなんだろうけど……それがそもそも、理解に苦しむことだしな」
そう言って難しい顔をするアロンに対し、ルイーザはどこか曖昧に頷き返す。
「でも……そういう話なら、
ルイーザがそう提案すると、アロンは首を横に振った。
「
子供たちの安全も大事だけど……ほら、どんな混乱が起きるかも知れないからさ」
「ああ……そうね。それは確かに……」
不死を常識とする、〈新史〉生まれ――。
つまりは、世界を崩壊させた大戦を知らない、庭都建設以降に生まれた人間には――『死』というものに対して、実際に接する機会など無いにもかかわらず――本能的にその恐怖だけは覚えているのか、アレルギーに近い、強い拒否反応を示す者も少なくなかった。
そんな中に、不死を自ら否定した、『死』を持ったままの人間がいるという話が伝わったりすれば。
『死という未知』への過敏な反応から、住民の間には、決して小さくはない混乱が生じることだろう――。
アロンの言わんとしていることを理解し、ルイーザは頷く。
「……で、だ……ルイーザ。
今の話を踏まえて、もう一回聞くけど……改めて、何か気付いたことってないか?」
「そうは言ってもねえ……。
せめて、写真とか画像とかないの? その子たちの」
「んー……それがさ。
双子の片割れが、天咲茎を出る前に、情報システムに細工していったらしくて……軒並み消されてるんだそうだよ、その子たちの記録が」
「それはまた徹底してるじゃない。
でも、そうなると……難しいわねえ」
前髪をすくい上げ、ルイーザは言葉通りに難しい顔をする。
――洗礼により、
間違いなく不死にはなるものの、身体の年齢については、『不凋花の細胞がその個体において最も安定する状態』で固着する、というのが正しい。
つまりは、洗礼から数年後に老化が止まることもあれば――年齢的に可能になり次第、すぐに洗礼が行われるようになってからは、まずありえない事ではあるものの――逆に若返る、ということもあるのだ。
結果として、庭都住民の大半は20代から40代程度の外見に収まるわけだが、だからといって洗礼直前の、10代半ば程度の見た目をした人間が決定的に少ないわけでもなく――。
逃げた子供たちが堂々とその中に混じり、普通に生活していれば、面識のない人間には怪しむのも難しいと思われた。
「うーん……やっぱり、特に思い当たらないねぇ」
ルイーザが考え考え答えると、アロンは「やっぱりお手上げか」と頭を掻く。
「そもそも、こっちの地区に来ているかどうかさえ分からないんだしなあ……」
「でも、そうやって地道に手掛かりを探すのも仕事でしょう?
――頑張りなさいな、ほら!」
母親が、子供を元気付けるようにそう言って――。
ルイーザはアロンの背中を、ばしんと勢いよく叩いた。