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西暦20XX年 某所 ~ある少年の追憶~


 ――そこは、いわゆる猫の額ほどの、庭と呼ぶのもおこがましい小さな庭だ。

 周りは威圧的な高い壁に囲まれ、まるで谷底にいるようで、閉塞感すら漂う。


 けれど、そんな場所でも……。

 彼女は、心から楽しそうにはしゃいでいた。


 ついさっきまで、陽の光を全身に行き渡らせるようにくるくる踊っていたと思ったら――。

 もう今は、庭の広さに比例したちっぽけな花壇にしゃがみ込んで、咲いている花を興味深そうに愛でている。


 確かに、ここへ来るのは彼女の気分転換のためではあるけど……。

 もう何度も来ているこの場所で、どうしてこういつもいつも楽しそうにしていられるのか、僕には分からない。


 しかも、護衛も兼ねているとは言え――。

 僕のような存在が、常にこうして側で監視しているのに、だ。


 もしかしたら、本来子供とはそういうものなのかも知れない。

 僕も一応年齢の上では、彼女より少し年上なだけで、充分に子供なのだけれど……ただ僕がそうした、子供の当たり前の感覚というのを、全く理解出来ていないだけなのかも知れない。



 だけど何にしても、僕は――。

 彼女が楽しそうにしている姿を見るのは、嫌いじゃなかった。



 初めは、ただただ理解出来ないというだけだったけど……。

 今では、理解出来なくても出来ないなりに、こうして見ているだけで、本来の『仕事』では決して得られない、充足感のようなものが得られる気がしていた。


 いつの間にか彼女のことを、まぶしい、と……そう感じていた。



「ねえねえ、おにいちゃん」



 ふと気が付くと、彼女が側に来て、僕の顔を見上げながら話しかけてきていた。


 ……初めてのことだった。


 これまでは、じっと無言で立ち尽くす僕の様子を、遠くから、ちらちらと窺っているだけだったからだ。

 しかしそれは、彼女からすれば当然のことだろう。

 自分を監視する人間がいるとなれば、気にもなるはずだ。


 けれど――。


 そんな僕を不審に思い、警戒こそしても、まさか話しかけてくるなんて思っていなかったから……。

 意表を突かれた僕は、ただ、彼女の顔を見下ろすばかりだった。


 そんな僕の顔は、それは険しいものだったんだろう――。

 実際には、ただ戸惑っていただけなのだけど……彼女にそんなことが分かるはずもない。


 僕の機嫌を損ねたと思ったのか、その愛らしい顔を怯えに染めながら――。

 しかし退くことなく、果敢にももう一度、震える声で僕に呼びかけてくる。


「ね、ねえ、おにいちゃん……?」


 ――正直を言って、僕はどう答えればいいのか分からなかった。



 『人を殺す』という仕事――ただ、そのためだけに育てられてきた僕には。

 彼女の呼びかけに応えてあげられる言葉なんて、何一つ持ち合わせていなかったから。



 せめて明確な用件を言ってくれれば、それに対する答えぐらいは用意出来ると思って、彼女が言葉を続けるのをしばらく待つ。


 けれど……。


 ややあって、彼女がこぼしたのは、僕に対する質問などではなく――。

 頬を伝い落ちる大粒の涙と、嗚咽だった。


 彼女の監視と護衛……そんな僕の役目からすれば、彼女が泣こうが喚こうが、それが身体の異常に起因するものなどでなければ、気にする必要なんて全く無いはずだった。


 だけど僕は……自分が困惑するのを感じていた。

 一体何があったのかと、どうすればいいのかと、混乱するばかりだった。



「あ、ごめん、ごめんなさい……」



 立ち尽くしたまま、必死に考え続ける僕に投げかけられたのは……。

 完全に予想外の、謝罪の言葉だった。


「お仕事……だもんね?

 お仕事だから、わたしのことキライでも、いっしょにいてくれるんだよね?

 それなのに、お友達みたいにお話しして……。

 ごめんなさい、お仕事でもいっしょにいてくれてるのに、怒らせてごめんなさい!

 もうしゃべったりしないから、怒らせたりしないから……!」


 必死に目元を擦りながら、嗚咽混じりに彼女は僕に謝り続けた。



 ――どうして謝るんだ?

 君が謝ることなんて、何もないのに。



 僕は怒ってなんていないのに。

 眉間に皺が寄っているのも、何も返事しないのも……どう応えたらいいのか、困っているだけなのに。

 仕方のないことなのに。



 ――どうして泣くんだ?

 君が泣く必要なんて、ないのに。



「ごめんなさい……!」


 彼女が嗚咽を漏らすたび、謝るたびに、僕は……胸の奥を締め付けられるような感覚に襲われていた。


 居ても立ってもいられないような気分になって……。

 でも、何も出来ないうちに何分も経って。


 そうして、ようやく僕は理解した。

 ――理解して、受け入れた。



 そうだ……。


 泣かなくてもいい彼女を泣かせているのも――。

 謝らなくてもいい彼女を謝らせているのも――。


 全部全部、僕のせいじゃないか。

 なら――僕には、しなきゃいけないことがあるはずだ。

 人と話す言葉なんてロクに持たない僕でも、言えることがあるはずだ――。


 それは、人を殺すために生きている僕にとっては、必要なかった言葉。

 でも今の僕は、彼女にそれが言いたくて仕方なかった。


 だから――思ったよりもすんなり、その一言は唇からこぼれ出てくれた。



「――ごめん」



 自分のこんな声は初めて聞いたと、自分でも驚いていたら……。

 そもそも僕の声を聞くのが初めての彼女は、それこそ鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、僕を見上げていた。


「ごめんよ」


 もしかしたら伝わっていなかったかも知れないと思って、僕はもう一度繰り返した。

 さすがに今度こそ間違いなく届いたはずだけど……彼女はきょとんとしたままだった。


「なんで……?

 どうして、おにいちゃんがごめんなさい……?」


 改めて、そう問いかけてもらえて……。

 僕は堰を切ったように、言葉を紡ぐことが出来た。



「謝らせてごめん。泣かせてごめん。

 ――悪いのは僕なのに。

 君が謝ったり泣いたりする必要なんて、どこにもないのに」



「……どうして? どうしておにいちゃんが悪いの?」


 無邪気に問い直されて、僕はようやく、ちゃんと説明出来ていないことに気付いた。


 だから、頭を落ち着かせようと深呼吸してから……。

 膝を折って彼女と視線の高さを合わせ、自分が決して怒ってなんていないこと――どう話せばいいのか分からなかっただけってことを――きちんと告げた。


「じゃあ……わたしのこと、キライじゃないの?」


「うん、違う。キライなんかじゃない」


 僕がはっきりそう頷くと、彼女はようやく安心したらしい。


 僕もそれを見て、ほっとした。

 仕事をこなすときより、よほど緊張していたことに……そのときになって、初めて気が付いた。



 ――それから僕らは、二言三言、言葉を交わした。


 他愛もない彼女の質問に、僕が愛想もなく、言葉少なに答えるだけだったけど。

 それでも彼女は……ついさっきまでの泣き顔がウソのように、穏やかな顔をしてくれていた。


 そんなとき彼女は「あ、そうだ」と、いきなり手を叩いた。


「わたし昨日、先生に、おにいちゃんのこと教えてもらったんだよ?」


 そう言って――。

 僕に与えられていた名前と、その由来を、当の僕に楽しげに語って聞かせる。


「とってもキレイだね!

 とってもキレイなおにいちゃんにピッタリだね!」


「……そんなこと、ない」


 確かに僕には、太陽に代わって夜を照らす星の名――美しさを表すような名が与えられている。

 でもそれは、名付け親たちが皮肉すら込めて付けたもので……。


「そんなこと……ないよ」


 ましてや、彼女のように……。

 本当に、身も心も無垢で美しい存在を前にしては、おこがましいと言うしかない。


 あまりの気恥ずかしさに、僕は自嘲するしかなかった。

 けれど、そんな僕の表情に、彼女は一度驚いた後……さも嬉しそうに、また手を叩いた。



「わらった!

 おにいちゃん、やっとわらったね!」



 言われて僕は、思わず自分の顔を撫で回す。


 確かに笑ったと言えば笑ったかも知れないけど、それはあくまで、僕自身へ向けての嘲笑だ。

 楽しくて、嬉しくて、笑ったわけじゃない。


 そもそも僕は、そんな『本来の』笑い方なんて知らない。

 彼女のように出来るわけがない。


 でも……それを言っても、彼女は喜ぶのを止めなかった。

 どんな形でも笑えるのなら、きっといつか本当に笑えるから――と。

 つたない言葉を必死に繋げて、そんな意味のことを言った。


 そして――。

 朝日を受けて開く花のような、まばゆいばかりの満面の笑顔で、笑ってくれた。



 ――ああ、そうか……。



 僕は、ふと気が付いた。


 彼女を相手に、どう話せばいいか悩んだのも。

 泣かせ、謝らせたことに罪悪感を覚えたのも。

 謝らずにいられなかったのも――。


 全部……全部、ごくシンプルな答えに基づいていたんだ。



 ――そうだ。


 オリビア……僕は君に、いつだってそうして笑っていて欲しい。

 人を殺すだけの僕の――人を殺さない僕を、肯定して欲しい。



 僕の存在を、生を、許して欲しいんだ――。



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