嫌になるほど見続けた、無機質で殺風景で陰気な白い天井を見上げて――。
あのとき、心は必死に願った。
……イヤだ、死にたくない――と。
忘れようもない、白くなった愛しい顔を見下ろして――。
あのとき、心は痛切に訴えた。
……いっそ、死にたかった――と。
「…………あ…………」
白い天井も。白い顔も――。
ふと気付けば、溶けて消えていた。
少女の開いた眼に映るのは、見慣れたベッドの天蓋……。
その艶のある木材に刻み込まれた、太陽と月を象った優美な彫刻だけ。
夢を見ていた気がするも、その細かい内容まではとても思い出せず……そうして意識がたゆたううちに、夢を見たという記憶すら曖昧になってくる。
ただ、そのときの感情だけが――存在を主張するように、弱々しく胸の奥で燻っていた。
「……起きなきゃ」
子供じみた仕草で何度か目元を擦ったあと、少女はゆっくりと上体を起こした。
そして、ベッド側の飾り棚に置かれた小さなベルを持ち上げ、静かに振る。
寝起きの頭にも優しい、その澄んだ音色に身を任せつつ……。
彼女は思わず、自嘲気味に微笑んでいた。
――鳴らす物が変わっただけで、起きてすぐこうして人を呼ばなければならないところは、子供の頃と何も変わっていない――と。
ぼうっとそんな風に考えて、彼女自身、それ自体が珍しいことだと気が付く。
そしてそれがきっと、見たのかどうかもあやふやな夢が、胸中にもたらした感傷のせいなのだろう……とも。
「――おはようございます、
素朴で控えめな、それでいて上品さも備えたドレスに身を包んだ若い女官が、部屋にやって来たのは……ベルを鳴らしてからほんの数秒後のことだった。
「おはよう……サラ」
サラと呼ばれた女官は、少女がどこかぼうっとしていることに気が付くと、そっと前にひざまずき、顔を覗き込む。
この
彼女は、サラのそんな……礼儀正しい中にも気安さを織り交ぜた、堅苦しすぎない接し方が好きだったからだ。
「お加減が悪いのですか?」
問われた少女は小さく首を横に振り、笑って見せる。
実際には自分の方が遙かに年上であるはずなのに、どこか姉のように感じられるところも、彼女がサラに好感を持つ理由の一つだった。
「……大丈夫。ちょっと、ぼうっとしてただけだから」
「それなら良いのですが……。
何かありましたら、すぐに呼びつけて下さいね?」
「うん……ありがとう」
少女の返事に満足したように、穏やかな笑顔を返して頷くと。
立ち上がったサラは、先程少女が鳴らしたベルのすぐ脇……台座に置いてあるクリスタルの水差しからグラスに水を注ぎ、少女に手渡した。
ひやりと冷たいそれを、少女は眠気覚ましとばかりに、一気に喉の奥へ流し込む。
「……ふう、美味しい」
「あらあら、はしたないですよ」
くすくすと笑いながらサラはお代わりを尋ねるが、少女は首を振ってグラスを返した。
「では、お支度をなさいますか?」
「うん。……あ、その前に……」
少女はひょいと軽やかにベッドから降りる。
質素ながら品の良い夜着の裾が、ふわりと広がってはためいた。
サラは思わずまたはしたないと口にしそうになるが、苦笑混じりに飲み下す。
春咲姫と崇められる少女が、こうした無防備な一面を見せるのは限られた人間に対してだけであり……。
そしてその一人が自分であることは、サラにとってこの上ない喜びであると同時に、誇りでもあった。
裸足のまま、寝室の窓際まで駆け寄った少女は、手ずからカーテンを開く。
眼下には、抜けるような青空と穏やかな陽射しの下、朝露のごとく輝く、美しい街並みが広がっていた。
その美しさは少女には、暮らす住民の平穏そのものにも映った。
恐怖、不安、憎悪……そんな様々な負の感情から解放され、老いも死も超越した人々の、屈託ない笑顔の証に感じた。
そしてそれこそが、彼女が――彼女たちが目指したもの、望んだ世界そのものだった。
事実、この景色を見るたびに、彼女は安堵にも似た幸福感を覚えるのだ。
しかし、同時に今は――そこに一抹の不安が影を射す。
それは、花である彼女に、花であるがゆえに刺さる、1000年の時を経ても抜けることのない小さな小さなトゲ……そこから広がる痛みだった。
永い時間覆い隠し、完全に忘れることは出来なくとも、意識の底に沈めていたはずのそのトゲが――今はズキリと、熱をもって疼くのだ。
「ノア……ナビア」
少女の可憐な唇は、自然とその名を紡いでいた。
自らに刺さった、小さなトゲの存在……それを改めて思い出させた兄妹の名を。
ともすれば、怒りをもって告げられてもおかしくはないその名を……。
しかし、優しく口にする少女の表情に浮かぶのは――悲しみだった。
「あの子たちのことが……気にかかるのですね」
少女の傍らに控えるサラは、主の憂いを帯びた横顔を窺いながら、静かに言った。
実の母親の手を離れ、春咲姫と
原因は不明ながら子供が誕生しなくなって久しいこの庭都において、実に200年振りの新生児となったその兄妹のことは、サラも良く知っている。
いや――知っているどころか、ようやく生まれた、新しく庭都の仲間となる子供たちに、養育係にも負けず劣らずの愛情をもって接してきたのだ。
そしてそれは、春咲姫も同様だった。
いやむしろ、人が不死を得る以前の時代――『旧史』と呼ばれる時代から生きているその少女は――。
『死』というものを実際に知るがゆえに、それを知らないサラたちでは及びもつかないほどの、特別の慈愛を傾けていたはずだ。
そして当の兄妹も、サラに甘え、少女に懐いていた。
接するすべての人たちの愛情を、素直に受け止めていた。
思いやりをもった人間に育っていた。
だが――彼らは姿を消した。
不老不死となるその直前に――真に庭都の仲間となる通過儀礼の前に。
まるでそれを否定するように、誰に告げるでもなく、彼女らの下を離れたのだ。
サラには、その理由が分からない。
分かるのはただ、自分もまた、憤るのではなく悲しい……ということだった。
兄妹を慈しみ、育ててきた春咲姫を……その当の二人が、悲しませるようなことをしているのが悲しい。
そして、敬愛する春咲姫が、二人のことを憂い、悲しんでいるのが……悲しい。
「……ん、それじゃあ支度しましょうか、サラ」
振り返った少女からは、憂いの色は消えていた。
それが、憂いをひとまず心の底に押し込めただけの空元気であることぐらい、サラは当然理解している。
だから彼女も、微笑みを浮かべ……。
お手伝いいたしますと、普段通りの態度を返した。
――しばらくの後、正装に着替え、身支度を整えた少女が寝室から姿を現した。
あどけなくも愛らしい姿はそのままに、しかしサラを従えた少女は、凛とした――気高く厳かな雰囲気をも身に纏っている。
そこにいるのは、無邪気な振る舞いをする少女でも、悲しみに憂う少女でもなく――。
庭都の住民すべてに親しまれ、愛され、敬われ、崇められる花。
庭都の住民すべてを親しみ、愛し、慈しみ、見守る花。
ただ一輪の慈母――〈春咲姫〉だった。