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第2節 存在しないもの Ⅲ


「――包囲されたな」



 ホテルのバルコニー越しに外の様子を窺いながら……。

 カインは緊迫した声色でただ一言、そう口にした。


「……え? 包囲された、って……」


「お前たちが、追っ手に――だ。

 ここから見えるだけでも、通りに持ち場を守って動かない制服の人間がいるのが分かる。

 ――思ったよりも早いな」


 カインの発言に納得がいかないノアは……。

 一見にしかずとばかり、あれほど警戒していたはずのカインの脇まで行くと、ガラスに顔を張り付かせ、同じように外の様子を窺う。


 確かに、通りの人々の中に警備隊の人間がいるのが分かるが、それ自体はいぶかしがるようなことではなく……。

 ノアの目には、特に誰かがこちらを見張っていたり――あまつさえ包囲しているようには、どうしても見えなかった。


「あの制服……警察か、それに近い役割を持つ存在だろう?」


「ケイサツ……?

 あぁ、旧史の頃にはそんな名前の組織があったんだっけ。

 まあ――そうだな。都市の治安を守るための存在だって言うなら、同じようなものかな」


「警備隊、って言うんだよ。おじさん、それも忘れてるの?」


 ナビアがそう付け加えると、カインは「そうか」と小さく頷く。


「その警備隊――私がこの街でこれまで見てきた彼らは、一様に、一定の区画を定期的に巡回していた。

 だが……あの制服は動いていない。

 そしてそれとは逆に、私がこの部屋に来る以前にはあったはずの、あの場所を通る巡回がなくなっている」


「まさか……」


 ノアは、ガラスにぶつかって少しずれた眼鏡を直しながら、眉間に皺を寄せる。


「上からの指示があった、ということだろう。

 お前たちは気付かなかったかも知れないが、この一帯の宿泊施設を見張るような位置に、何人か――そう、先刻お前たちを追い詰めていた、あの赤衣の男たちと同じ風体の人間が配置されていた」


「――え。それって……。

 そもそもこのあたりで休むって、見抜かれてたってことか……?」


 反射的に、ノアはカインを見上げる。


「あの場は逃げおおせたとは言え、一度捕捉された以上、行動範囲と思考を予測出来るなら、それぐらいはさほど難しいことではない。

 現に、土地勘もなく、知り合ったばかりの私ですら、こうしてお前たちを見つけられているだろう?」


「で、でも……俺たちぐらいの見た目の人間なら、ここは庭都ガーデンの中心に近いから、それなりにいるハズだし……。

 それに、ちゃんとデータベース内の俺たちの情報も消したし、身分証明の偽装もしてあるから、こんな簡単に特定されるなんてこと……!」


「だが、そもそも身を隠すという行動そのものについて、お前たちは素人だ。

 ――私のような人間と違ってな」


 そう言い置いて、ガラス戸を開いてバルコニーに出るカイン。


「お兄ちゃん……」


 立ち尽くすノアの側に、ナビアが駆け寄る。

 その表情はいつになく真剣だった。


「くそっ……碩賢メイガスのじーさんか……?」


 苦い顔で、ただ拳を握り締めるノア。



 やがて……少しして部屋の中に戻ってきたカインは、短く兄妹に告げる。



「――荷物をまとめろ。ここを出るぞ」


「出る、って……でも、どうやって?

 も、もう包囲されてるんだろ……?」


 動揺の抜けきらないノアのその質問には答えず――。

 カインは、とにかく動けと、言葉少なに指示を飛ばす。


 ……反射的に、無心でそれに従ったのが良かったのだろう。


 広げていた三枚の掌携端末ハンドコムを手早くリュックサックに詰め、背負い直しているうち……ノアは少しずつ、気を取り直していた。



「――こっちだ」



 ノアに続き、ナビアもソファに置いていた肩掛けカバンを手にしたところで……カインはきびすを返してガラス戸を開け、先に立ってバルコニーに出た。


 そして、向かいを指差す。


 向かいの建物は、このホテルよりもやや低く造られていた。

 カインに示されるまま視線を僅かに下げると……夜の闇の中に、飾り気のない屋上が広がっているのが分かる。


「向かいの屋上に飛び移る……ってことか?」


「そうだ。――追っ手は、お前たちが、包囲されていることに先に気付くとは考えていないだろう。

 この建物から気付かれずに移動出来れば、網を抜けられる可能性は高い」


 でも……と、ノアは不安そうに、向かいの屋上とカインの顔を交互に見比べる。


 するとカインは――。

 ノアを元気付けるようにその頭に大きな手を置き、「心配するな」と頷いた。


「跳ぶのは私だ。

 大丈夫だ……お前たちは、ただ私に掴まっているだけでいい」


 自分の頭に手を置いたカインを、ノアはぽかんとした顔で見上げていたが……。

 すぐさま、その手を大げさに払いのけ、ふんと鼻を鳴らした。


「いいな? 部屋に突入される前に移動しなければ意味がない、行くぞ」


 言って、カインはナビアを抱き上げる。

 そしてノアには、背中におぶさるよう指示した。


 分かった、と、素直に従いそうになって――そこではたと、ノアは動きを止める。



 ――このまま、なし崩しに、正体もはっきりしない人間の指示に従っていいのか?

 もしかしたら、部屋に残った方がいいんじゃないのか――?



 不安が、ふとノアの胸を過ぎった。

 思わず振り返った背後の部屋は、ベランダの向こうの闇とは対照的に、あたたかな光に包まれて……どうしようもなく魅力的に見える。



 ――戻るなら、今しかないんじゃないか……?



 そんな囁きが、胸を突いた。


 意地を張らずに戻れば……今ならまだ、ちょっとした家出で済むだろう。

 元通りの平穏な生活に……約束された、明るい幸福の中に帰れるのだ。


 だが、このまま進めば――。


 それが、自分が正しいと思った道だとしても……そうした幸せに、背を向けることになる。

 先の見えない闇を、手探りで歩くようなことになる。



 ――本当に、それでいいのか――?



「俺は……」


「お兄ちゃん、早くっ!」


 時間にしてはほんの僅か――。

 しかし、確かな怖じ気と迷いに心を掴まれていたノアは、妹の声にハッと我に返る。


 そして、自分の心にまとわりついていたそれらを打ち払おうとするように、首を勢いよくぶんぶん振ると……。

 意を決して、カインの背に飛びついた。


「いいな? 行くぞ」


 それを待っていたカインは、迷いなく手すりを乗り越え、眼下の屋上へと飛び移る。



 かなりの高さがあったにもかかわらず――その着地は、驚くほど静かで滑らかだった。



 予想していた衝撃の半分も感じられなかった気がする兄妹は、どこか拍子抜けしたような表情で、カインの身体から離れる。


「まだ詳しい事情も聞けていないが……この後、行く先にアテはあるのか?」


 カインの問いかけに、ノアは一瞬躊躇うように口ごもるも……。

 すぐに顔を上げて、ややつっけんどんな調子で答えた。


「――西だよ、西。

 西の〈田園地区〉の方に――」


 ノアの言葉が中途で止まる。

 カインを見上げていたその目が――大きく見開かれた。



「!? 上っ!」



 ノアが叫ぶのと、カインがそんなノアとナビアの体を両の腕でさらいつつ、鋭く前方に跳んだのは――ほとんど同時だった。


 直後、彼の背後で一条の光が稲妻のごとく閃く。


 遅れて宙を震わせる甲高い金属音――。

 そのただ中で、距離を開けていたカインは素早く向き直った。



「……今の一刀で、大人しく倒れていればよかったものを」



 頭上、ホテルのバルコニーから漏れる光を背負い、舞い上がる粉塵の内にゆらりと立ち上がったのは――赤衣の男だった。


 カインの夜目はこの暗がりにあっても、鮮明にその姿を捉え――。

 それが以前、初めてノアたちと出会った際に対峙した青年であることを認める。



「以前は、名乗るヒマさえありませんでしたね。

 ――わたしはヨシュア。

 君とまた会えたことを、嬉しく思いますよ――カイン」



 バルコニーから飛び降りざまに放った一撃により、床を深々と切り裂き、刀身半ばまで埋まっていた軍刀サーベルを軽々と引き抜いて……。

 ヨシュアはその切っ先を、改めてカインに突き付ける。


 その顔には、純粋な喜びだけによるものではない……。

 相反するような感情すら混じり合っているのだろう、どこか複雑な笑みが浮かんでいた。



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