「――包囲されたな」
ホテルのバルコニー越しに外の様子を窺いながら……。
カインは緊迫した声色でただ一言、そう口にした。
「……え? 包囲された、って……」
「お前たちが、追っ手に――だ。
ここから見えるだけでも、通りに持ち場を守って動かない制服の人間がいるのが分かる。
――思ったよりも早いな」
カインの発言に納得がいかないノアは……。
一見にしかずとばかり、あれほど警戒していたはずのカインの脇まで行くと、ガラスに顔を張り付かせ、同じように外の様子を窺う。
確かに、通りの人々の中に警備隊の人間がいるのが分かるが、それ自体は
ノアの目には、特に誰かがこちらを見張っていたり――あまつさえ包囲しているようには、どうしても見えなかった。
「あの制服……警察か、それに近い役割を持つ存在だろう?」
「ケイサツ……?
あぁ、旧史の頃にはそんな名前の組織があったんだっけ。
まあ――そうだな。都市の治安を守るための存在だって言うなら、同じようなものかな」
「警備隊、って言うんだよ。おじさん、それも忘れてるの?」
ナビアがそう付け加えると、カインは「そうか」と小さく頷く。
「その警備隊――私がこの街でこれまで見てきた彼らは、一様に、一定の区画を定期的に巡回していた。
だが……あの制服は動いていない。
そしてそれとは逆に、私がこの部屋に来る以前にはあったはずの、あの場所を通る巡回がなくなっている」
「まさか……」
ノアは、ガラスにぶつかって少しずれた眼鏡を直しながら、眉間に皺を寄せる。
「上からの指示があった、ということだろう。
お前たちは気付かなかったかも知れないが、この一帯の宿泊施設を見張るような位置に、何人か――そう、先刻お前たちを追い詰めていた、あの赤衣の男たちと同じ風体の人間が配置されていた」
「――え。それって……。
そもそもこのあたりで休むって、見抜かれてたってことか……?」
反射的に、ノアはカインを見上げる。
「あの場は逃げおおせたとは言え、一度捕捉された以上、行動範囲と思考を予測出来るなら、それぐらいはさほど難しいことではない。
現に、土地勘もなく、知り合ったばかりの私ですら、こうしてお前たちを見つけられているだろう?」
「で、でも……俺たちぐらいの見た目の人間なら、ここは
それに、ちゃんとデータベース内の俺たちの情報も消したし、身分証明の偽装もしてあるから、こんな簡単に特定されるなんてこと……!」
「だが、そもそも身を隠すという行動そのものについて、お前たちは素人だ。
――私のような人間と違ってな」
そう言い置いて、ガラス戸を開いてバルコニーに出るカイン。
「お兄ちゃん……」
立ち尽くすノアの側に、ナビアが駆け寄る。
その表情はいつになく真剣だった。
「くそっ……
苦い顔で、ただ拳を握り締めるノア。
やがて……少しして部屋の中に戻ってきたカインは、短く兄妹に告げる。
「――荷物をまとめろ。ここを出るぞ」
「出る、って……でも、どうやって?
も、もう包囲されてるんだろ……?」
動揺の抜けきらないノアのその質問には答えず――。
カインは、とにかく動けと、言葉少なに指示を飛ばす。
……反射的に、無心でそれに従ったのが良かったのだろう。
広げていた三枚の
「――こっちだ」
ノアに続き、ナビアもソファに置いていた肩掛けカバンを手にしたところで……カインはきびすを返してガラス戸を開け、先に立ってバルコニーに出た。
そして、向かいを指差す。
向かいの建物は、このホテルよりもやや低く造られていた。
カインに示されるまま視線を僅かに下げると……夜の闇の中に、飾り気のない屋上が広がっているのが分かる。
「向かいの屋上に飛び移る……ってことか?」
「そうだ。――追っ手は、お前たちが、包囲されていることに先に気付くとは考えていないだろう。
この建物から気付かれずに移動出来れば、網を抜けられる可能性は高い」
でも……と、ノアは不安そうに、向かいの屋上とカインの顔を交互に見比べる。
するとカインは――。
ノアを元気付けるようにその頭に大きな手を置き、「心配するな」と頷いた。
「跳ぶのは私だ。
大丈夫だ……お前たちは、ただ私に掴まっているだけでいい」
自分の頭に手を置いたカインを、ノアはぽかんとした顔で見上げていたが……。
すぐさま、その手を大げさに払いのけ、ふんと鼻を鳴らした。
「いいな? 部屋に突入される前に移動しなければ意味がない、行くぞ」
言って、カインはナビアを抱き上げる。
そしてノアには、背中におぶさるよう指示した。
分かった、と、素直に従いそうになって――そこではたと、ノアは動きを止める。
――このまま、なし崩しに、正体もはっきりしない人間の指示に従っていいのか?
もしかしたら、部屋に残った方がいいんじゃないのか――?
不安が、ふとノアの胸を過ぎった。
思わず振り返った背後の部屋は、ベランダの向こうの闇とは対照的に、あたたかな光に包まれて……どうしようもなく魅力的に見える。
――戻るなら、今しかないんじゃないか……?
そんな囁きが、胸を突いた。
意地を張らずに戻れば……今ならまだ、ちょっとした家出で済むだろう。
元通りの平穏な生活に……約束された、明るい幸福の中に帰れるのだ。
だが、このまま進めば――。
それが、自分が正しいと思った道だとしても……そうした幸せに、背を向けることになる。
先の見えない闇を、手探りで歩くようなことになる。
――本当に、それでいいのか――?
「俺は……」
「お兄ちゃん、早くっ!」
時間にしてはほんの僅か――。
しかし、確かな怖じ気と迷いに心を掴まれていたノアは、妹の声にハッと我に返る。
そして、自分の心にまとわりついていたそれらを打ち払おうとするように、首を勢いよくぶんぶん振ると……。
意を決して、カインの背に飛びついた。
「いいな? 行くぞ」
それを待っていたカインは、迷いなく手すりを乗り越え、眼下の屋上へと飛び移る。
かなりの高さがあったにもかかわらず――その着地は、驚くほど静かで滑らかだった。
予想していた衝撃の半分も感じられなかった気がする兄妹は、どこか拍子抜けしたような表情で、カインの身体から離れる。
「まだ詳しい事情も聞けていないが……この後、行く先にアテはあるのか?」
カインの問いかけに、ノアは一瞬躊躇うように口ごもるも……。
すぐに顔を上げて、ややつっけんどんな調子で答えた。
「――西だよ、西。
西の〈田園地区〉の方に――」
ノアの言葉が中途で止まる。
カインを見上げていたその目が――大きく見開かれた。
「!? 上っ!」
ノアが叫ぶのと、カインがそんなノアとナビアの体を両の腕でさらいつつ、鋭く前方に跳んだのは――ほとんど同時だった。
直後、彼の背後で一条の光が稲妻のごとく閃く。
遅れて宙を震わせる甲高い金属音――。
そのただ中で、距離を開けていたカインは素早く向き直った。
「……今の一刀で、大人しく倒れていればよかったものを」
頭上、ホテルのバルコニーから漏れる光を背負い、舞い上がる粉塵の内にゆらりと立ち上がったのは――赤衣の男だった。
カインの夜目はこの暗がりにあっても、鮮明にその姿を捉え――。
それが以前、初めてノアたちと出会った際に対峙した青年であることを認める。
「以前は、名乗るヒマさえありませんでしたね。
――わたしはヨシュア。
君とまた会えたことを、嬉しく思いますよ――カイン」
バルコニーから飛び降りざまに放った一撃により、床を深々と切り裂き、刀身半ばまで埋まっていた
ヨシュアはその切っ先を、改めてカインに突き付ける。
その顔には、純粋な喜びだけによるものではない……。
相反するような感情すら混じり合っているのだろう、どこか複雑な笑みが浮かんでいた。