「――だろうな」
調べた住民情報の結果に驚くノア――。
その声に応えたのは、この部屋にいるはずのない第三者だった。
弾かれたような勢いで、慌ててそちらを振り返る兄妹。
ドア近くの壁際――そこに、きらびやかなこの部屋には不釣り合いな黒い影が、静かに佇んでいた。
まるで、初めからずっといた――と、言わんばかりに。
「私は、この街の住民になった覚えはないからな」
黒い僧服の男――カインの落ち着き払った言葉に、驚くノアはまるで返事が出来なかった。
大きく見開いた目を瞬かせ、中途半端に口をぱくぱくと動かす。
そんな兄に対し、ナビアは……。
初めこそ同じように驚いていたものの、すぐさま、満面の笑顔で声を上げた。
「――おじさんっ!」
尻尾を振ってじゃれつく無邪気な子犬のように、今にもカインのもとへ一直線に駆け寄りそうなナビア。
妹の、そのあまりの無警戒さにようやく我に返ったのだろう――。
ノアは、立ち上がりかけたナビアの手を素早く掴んでソファに引き戻し、カインを睨み付ける。
「……アンタ、いつの間に――どこから!」
「ドアを開けて正面から入り、少し前からここにいた。
お前たちが気が付かなかっただけだ」
答えながら、カインは堂々と部屋の中を横切り……バルコニーに面したガラス戸の前に立った。
そして何かを確認するように、そこから外を窺う。
ノアはと言えば、そうするカイン自身の動きを警戒しつつ、反論する。
「しょ、正面からって――!
そんなことされて、気付かないわけないだろ!」
「その先入観をもっていてくれれば、案外たやすいことだ。
しかし――」
外を見ていたカインは、ようやく二人の方へ向き直り、小さく頭を下げた。
「無断で侵入した非礼は詫びる。すまなかった。
正直にノックしたところで、招き入れてもらえるとは思えなかったのでな」
横柄というわけではないものの、しかし同時に愛想に欠ける物言いに、ノアはムッとしないでもなかったが……。
そんなことよりもまずは確認しておくことがあると、苛立ちを抑えながら口を開く。
「カインって言ったよな。
アンタ……俺たちの味方、なのか?」
……何の駆け引きもない、愚直なほど真っ直ぐな問い。
そうしたのは、まるで大樹のように静かに佇むカインが、あまりに泰然とし過ぎていたからだった。
生まれて15年にも満たない自分では、この大樹を相手には未熟で、どうしたところで駆け引きなどにはなりえないと……そう感じたからだった。
あっさりとあしらわれるだけなのではないか――。
そんなノアの予想に反し、カインは言葉を選んでいるらしく僅かの間を置いてから……。
やはり愛想はないものの、逆にそれだけ重みがある答えを返した。
「……私はそのつもりだ。
少なくとも、お前たちに危害を加える気は毛頭無い」
「なら……どうしてだ? どうして俺たちの味方をする?」
一度目を閉じ、何かを思い出すようにまた沈黙を挟んでから、カインは答える。
「そう頼まれたからだ。
お前たち二人を護って欲しい――と」
「頼まれた……? 誰から?」
当然のように質問を重ねるノアに、目を伏せたカインは頭を振った。
「……姿は見ていないが、声からすれば女だ。
それ以上は……私にも分からない」
あまりに予想外の答えに、ノアは思わず「はあ?」と間の抜けた声を出してしまう。
一瞬、緊張感さえ緩みそうになるが……。
それを踏み止まると、代わりに上ってきた感情は怒りだった。
「ば……バカにするなよ、そんなことあるわけないだろ!
誰とも知れない人間の頼みを聞いて、俺たちの味方をするなんて……!
そんな、
テーブルを叩いてまくし立てるノア。
しかしカインは対照的に、感情の枝葉をそよとも波立たせることなく……。
もう一度、大きく首を横に振った。
「実のところ、今の私には……記憶らしい記憶が無い。
ゆえに、理由までは分からないが……心の底から、私はその『頼み』を聞き入れたいと強く感じた。そうしなければならないと信じた。
だから――行動した。
容易には信じられないだろうが……ただ、それだけなのだ」
「……おじさん、記憶ないの……?」
ノアの背後からひょっこりと……悲しそうな顔を出して尋ねるナビアに、カインは頷く。
そんなカインの、不思議と透明感さえ感じる真摯な表情に、そもそも人を疑うことに慣れているわけでもないノアは……いい加減毒気を抜かれたのか、困り顔で息をついた。
「しっかし、そう言われてもなぁ……。
そんなことを頼む人間が、今、この庭都にいるとは思えないし……」
「あ――もしかして!
ね、お兄ちゃん、お母さんじゃないかなあ?」
どこか嬉しそうにそう言うナビアに、しかし兄は――辛辣な反応を見せる。
「……あの女のわけないだろ。バカなこと言うな」
口調こそ静かながら、そこに込められた強い負の感情を、ナビアは敏感に感じ取ったのだろう。
ごめんなさい、と謝りながら小さくなる。
「……どうやら、心当たりは無いようだな。
お前たちならあるいは――と思っていたが」
「それよりも、だよ……!」
ナビアの発言による悪感情の名残をなびかせながら、ノアはカインを見る目をすがめる。
「まだ、アンタ自身のことを何も聞いて――」
そう問うノアの発言の最中、カインは唐突に肩越しにガラスの向こう、外の方を見やった。
そして、静かにしろと告げるように、兄妹へ手を向ける。
……その眉間には、いつの間にか深い皺が刻まれていた。
* * *
――建物の陰に、そして夜の闇に。
己の気配を殺して溶け込み、通りを隔てた向かいのホテルを観察するヨシュア。
つい先刻、
「……ヨシュア隊長」
そんな彼の下に、彼と同じ赤衣に身を包んだ青年が音もなく駆け寄る。
「付近の警備隊を動員しての包囲が完了しました」
「名目は?」
「危険分子が現れた際に備えての、我々
目的は、被疑者の速やかな確保。
しかし……突入は隊長が単独で行うとのことでしたので、彼ら警備隊には万一に備え、我々の指揮下で壁になってもらっているだけですが」
ヨシュアは視線を巡らせて、もう一度ホテルとその周囲を確かめる。
建築様式は同じロココを基調に、しかし背は少し低い建物に挟まれた、その宮殿ともビルともつかない5階建てのホテルの周りには……一定の間隔を空け、行き交う人々に紛れるようにして、警備隊員がぽつぽつと配置されていた。
部下は壁という表現を使ったものの、ヨシュアにはそれが適切だとは到底思えない。
もっとも――。
兄妹の逃亡の事実そのものが、一般の住民どころか警備隊にも未だ伏せられている上に、当の兄妹に気取られないよう目立つわけにもいかない――となると、これ以上厳重な包囲を敷くわけにもいかないのだが。
(それでも、確保には充分でしょう……部屋にいるのがあの二人だけならば、ですが)
兄妹がいるという部屋の方向を見上げるヨシュアの脳裏に、黒い宣教師の姿が過ぎる。
警備隊員程度の実力では、何人が束になろうと、およそ太刀打ち出来ないだろう――あのカインという男には。
何より苦い屈辱の記憶が蘇り、思わず拳を固く握り締めてしまう。
――これ以上の失態は重ねない。
今度こそ、主ライラを失望させはしない――。
「汚名は