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【 双芽 】


 ――まるで人気のない、ひっそりと静まる夜の街路。

 そのただ中を、少年と少女が手を取り合い駆けていた。


 年の頃は10代前半から半ばといった風情の、外見からして兄妹らしいよく似た二人は、時折何もない後方を振り返りながら、息せき切って走り続ける。


 周囲の建物も道も老朽化の兆しなどまるでないが、彼らのいるこの区画は、再開発地区として立ち入りが禁止されている場所だ。

 電気は通らず、月光以外に満足な明かりもないので、あらゆる所で闇が物静かにうずくまっている。


 その深い闇は、ともすれば人目と光を避ける犯罪者たちの、絶好の温床となりそうだが――この〈庭都ガーデン〉において、それは常識としてありえないことだった。


 しかし背後を気にする兄妹の目は、そのことを理解していながらも、自分たち以外の存在を恐れていた。

 誰かがそちらにいるのを認識した上で、その誰かに見つかることを恐れていた。



 それもそのはず――。

 彼らこそが、人目をはばかる逃亡者だったからだ。



「……お兄、ちゃ……っ!」


 切れ切れの息の下に発した少女の呼びかけに、眼鏡をかけた少年は、声を出す余裕もないのか、首から力が抜けているだけのような弱々しい頷きを何度か返した。


 そして、もう一度後方を顧みて、誰の姿もないことを確認すると……。


 妹を引っ張り込むようにしていきなり進路を変えて角を曲がり、その先で資材の山の中へ潜り込み、隠れる。


 建築資材が連なって作り上げる谷間のような狭い空間は、さながら雑多な路地裏だった。


 そこで二人は向かい合って座り込み、なり振り構わず酸素を要求する身体を、大きな音を出さないよう懸命に御しながら、必死に呼吸を整える。


「何とか、撒いた……?」


 四つんばいになって、さっきまで走っていた通りへ顔を覗かせて様子を窺う少年。

 少女の方もそれに続こうと、兄のもとへ近付いたそのとき――。



「もう馬鹿なマネはやめなさい……ノア、ナビア」



 その背後からの穏やかな男の声に、二人は慌てて振り返る。


 つい今まで誰もいなかったはずのその場所に――いつの間にか、月の光が一つの人影を浮かび上がらせていた。


 鍛え抜かれた全身をぴっちりとした戦闘用のスーツに包み、その上から、まるで法衣のような襟の高いマントを羽織った若い男――。

 冷え冷えとした月明かりの中、黒と見紛うばかりの彼の着衣の色は、そのすべてが赤一色に統一されている。


 赤という色が生み出す本能的な危機感も手伝ってか……思わず自分たちの行く末に絶望を垣間見てしまった二人は、身を竦ませる。


 それでも、少年――ノアは、兄としての自分を奮い起こし、妹の身体を支えながら立ち上がると、精一杯の抵抗とばかりに赤衣の男を睨みつけた。


「俺たちをどうする。

 ……まさか、殺す、とか言わないよな?」


「当然でしょう? 我らが春咲姫フローラも、花冠院ガーランドも、そんなことを望みはしないと、君たちも分かっているはず。

 君たちを不完全な『死』から救おうとなさっているだけ。

 完全な存在として、仲間に迎えようとなさっているだけなのですから」


枝裁鋏シアーズなんて物騒な名前の、アンタら特殊部隊員を追っ手に回しておきながら、かよ?」


「それも君たちを想ってのことです。

 通常の警備隊では、騒ぎが大きくなってしまいますから」


「……なるほどね。特別にお膝元で育てられた俺たちが、花冠院に逆らって逃げ出すようなことがあっちゃいけないってわけだ?」


 口元に笑みさえ浮かべて強がって見せながら、ノアは妹に小声で何かを囁きかける。


 その内容は聞こえなくても、逃げ出す算段であることは想像がついたのだろう――。

 赤衣の男は「ムダですよ」と、優しい声色で諭すように告げた。


 それに対してノアが、何がだ、と食ってかかるよりも早く――。

 背後を振り返ったナビアが、兄の袖を引いた。


 ただならぬ気配に、ノアも慌てて後ろを顧みる。


 そこには――前に立ちはだかるのと同じ、赤一色の出で立ちをした男が、彼らの退路を塞いでいた。


「さあ、これで分かったでしょう?

 つまらない意地を張るのは止めて、我々と――」



「その二人から離れろ」



 赤衣の男が兄妹に手を伸ばそうとした瞬間――その場に、第三者の声が響き渡った。


 低いが良く通る、どことなく澄んだ響きを備えた、夜の闇そのものが発したかのような男の声――。

 その出所をたどり、少年たちの前方にいた赤衣の男は後方を振り返る。


 ノアたちのような素人ならいざ知らず、戦士として気の遠くなるほど長い時間訓練を積んできた赤衣の男ですら気付かぬ間に……そこには、一人の男が立っていた。



 宣教師を思わせる、黒い僧服ローブを纏った長身の男が。



「……誰です? 君は……」


「もう一度言う。その二人から離れろ。

 ――大人しく従えば、危害は加えない」


「何を馬鹿な……我らは、花冠院直々の任務にあたっているのです。

 何を勘違いしているのかは知りませんが、君こそ下がりなさい」


 赤衣の男がそう警告するも、宣教師は気に留める様子もなく確かな歩調で近付いてくる。


「……邪魔をするというのなら、少々痛い目を見ることにもなりますよ?」


 不機嫌そうに言って、赤衣の男は一瞬の動作で腰の拳銃を抜き、宣教師に向ける。



 いや――向けたはず、だった。

 少なくとも、彼はそうしたつもりでいた。



 しかし、伸ばした手の中に拳銃はなく――。


 遅れて腕を走った痺れで、ようやく彼は、一瞬で間合いを詰めていた宣教師に、銃を空高く蹴り上げられたのだと気付いた。



「私に銃を向けるな。――次は無いぞ」


「この……反逆者かっ!」


 赤衣の男は、もう一丁の拳銃を抜き放ちざま、宣教師の頭に向けて引き金を絞る。

 それはひたすらに無駄を排した、先程よりもずっと速く、鋭い動きだ。


 しかし――。



 銃口から弾き出された弾丸は、宣教師の頬をかすめただけで背後に消えていく。



 ……狙いを違えたわけではない。

 宣教師が、発砲の瞬間、赤衣の腕を外に払いのけ……射線を僅かにずらしていたのだ。



「警告したはずだ」



 言葉だけを残像に、赤衣の懐に入った宣教師は――。

 ほんのまばたきほどの間、驚きで無防備にさらけ出されていた赤衣の首へと、手刀を一直線に突き出す。


 それは――研ぎ澄まされた怜悧な刃もかくやとばかりに。

 赤衣の首を、寸分の狂いもなく鮮やかに刺し貫いた。


 悲鳴の代わりに、血の塊を吐き出して……赤衣の男は力無く膝から崩れ落ちる。


 一方――その向こう側では、ノアたちの退路を塞いでいたもう一人の赤衣の男が、仲間の危機に動じながらも、宣教師に向けて拳銃を構えていた。


 しかし、それが火を吹くよりも一瞬早く――。

 ちょうど目の前に落ちてきた、自身が最初に蹴り上げていた拳銃を宙で掴み取りざま、宣教師はもう一人の赤衣の左胸を撃ち抜いた。


 たたらを踏み、男は倒れる。


「え……? あ……」


 二人目の赤衣の男が倒れるのにやや遅れて、資材の谷間に響き渡った、薬莢が地面に落ちる甲高い音に……ノアはようやく我に返る。

 宣教師の目にも止まらぬ動きに、彼は圧倒されていた――いや、見惚れていたという方が正しいだろうか。



「お前たちが、ノアとナビア――だな?」



 宣教師は、敵意が無いことをアピールするように拳銃を投げ捨て、少年たちの前に立つ。


 ノアは、そんな宣教師をいぶかしげに、しばし無言で見上げた。


 結果としてこの男に助けられた形になるが、そもそも面識が無い上に、先の身のこなしはとても只者とは思えない――。

 銃を捨てたからと油断することなく、警戒を新たにしながら、彼は逆に尋ね返した。



「アンタ……何者なんだ? 何で俺たちを?」



 その問いに、宣教師は良い答えでも考えているのか、静かに目を閉じる。


 月明かりの中、彼の彫りの深い端正な、無精髭の伸びた細面をよくよく見直したノアは、彼が赤衣の男たちより、少なくとも外見の上ではずいぶん年上らしいことに気が付いた。

 恐らくは40前後、といったところだろう。



「私は――」



 宣教師が再び、その髪と同じ褐色の瞳を開き、答えを口にしようとしたそのとき――。

 彼の足下で、首を刺し貫かれた赤衣の男が、のそり、と動き始めた。


 これまで表情らしい表情を見せなかった宣教師が、それを、驚きも露わに見下ろす。


「……馬鹿な。確かに致命傷のはず――」


 宣教師のその呟きに答えたのは、意外にも彼を警戒しているはずの少年だった。

 信じられないといった顔でノアは、彼にとっては当たり前過ぎるほどに当たり前の事実を口にする。



「何言ってるんだよ!? 人間が死ぬわけないだろっ!?

 ――俺たち兄妹以外の人間が!」



「……何だと?」


 宣教師は、それこそ信じられないとばかりに眉をひそめた。

 しかし現に彼の眼下で、赤衣の男は今にも立ち上がろうとしている。


 ……いや、一人だけではない。

 胸を撃たれた男もまた、傷口を手で押さえながら、身体を起こそうとしていた。


 その事実を確認した宣教師は、立ちすくむ兄妹を一瞥すると、「逃げろ」と短く告げた。


 味方とも敵とも知れない男の指示に、兄妹は一瞬戸惑うも……男のさらなる言葉が背中を押す。


「逃げろ、早く。この男たちは私が足止めする」


 それに対し、先に動いたのは妹ナビアの方だった。

 まだ迷いを見せる兄の手を引いて走り出しながら、宣教師に向かって無邪気にも手を振る。



「ありがとう、おじさん! 気を付けて!」



 こうなっては仕方ないとばかりに、納得のいかない表情でノアも駆け出すが……。

 ある程度距離を開けたところで一度振り返り、もやもやした気分を吐き出すように怒鳴った。



「おいアンタ! 名前はっ!」



 一瞬の沈黙を置いて――宣教師はノアの問いに、良く通る低い声で答えた。



「――カイン。そう呼ばれていた」



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