スガレが連れてこられたのは、皇帝派と呼ばれる前政権を握っていた勢力の隠れ家だった。
先代が崩御し、皇族最後の生き残りである少女アゲハは現皇帝にあたるのだという。
つい先ほどまで、スガレにとっては初めて接した同じ年頃の女の子でしかなかったのだ。
妙に大人びた態度を取りたがるのに、なぜ必要なのかもわからないリボンを欲しがったりもする。
さっぱり理解できないが、それで当然という気もする不思議な存在。
だが、今は本当の意味で彼女が遠く見えた。
アゲハは中年の臣下と打ち合わせをしたあと、近くの扉からでていった。そのあいだ、一度もスガレのほうを見なかった。
「オレは皇帝どころかこの国のこともよく知らないのに、蟻塚からでて、いきなり争いに巻き込まれるなんて……」
死ぬまで、空中牢獄ギノユニワで生きるのだと思っていた。
時の動かない、光の届かないあの巣穴で。
それが突然外の世界に放りだされ、悩むひまもなく、誰かに保護を求めるしかない状況に立たされた。
「
浅褐色の肌をした鷹揚な青年ブンブンが、突っ立っていたスガレの隣にやってきてそういった。
「アゲハは負けそうなの?」
「ボクらが勝てそうなときなんて、これまでに一度もなかったヨ。そんなコトよりも、小僧は否応なしに皇帝派に含まれるのヨ。なぜなら免罪符売りは神官に分類される職で、旧制度にしか存在しないからネ。選ばれた時点で、おまえは家柄的にも間違いなくコッチ側の生まれだヨ」
「旧制度って?」
「オ
現・ムスビノ空中連合公国。
帝国が存在したのは二十年も前だ。その後、第一国区から第五国区と呼ばれる五つの小国に分裂している。
さらに連合国は近年、連合“公”国と名をあらためた。
大公派が年々勢力を伸ばし、現在も皇帝と旧制度を支持しているのは、かつての帝都があった第五国区だけなのだという。
「それで、だんだん食料とか生活用品の配給が届かなくなってたんだ……」
「うん、蟻塚を落としたのは、大公派にとっちゃ見せしめにちょうど良かったからヨ。ボクたち以外のトコロに逃げたら、おまえも師匠みたいに殺されるアル」
「見せしめ……? アキツハさまが死んだのが、見せしめだって……!?」
思わずブンブンの服を乱暴に掴もうとするが、片手で簡単にいなされてしまった。
「怒るな。怒っても事実は変わらない。おまえが持っている選択肢は、大公の支配するこの国でどこかに隠れて静かに暮らすか、ボクたちと共に大公に立ち向かうか。どっちかネ」
「隠れて暮らすか、立ち向かうか……」
なにもわからない状況で無理やり選ぶ選択は、本当に合っているのだろうか。
スガレ自身が──『自分がどうしたいか』が欠けている。忘れられた大切な気持ちが心の奥底に沈んでいるようで、ざわざわするのだ。
「正直、両方ともまだ信用できない」
「OH、正直すぎるネー。ブンブンおにいさんが良い人じゃなかったら、命はないヨー? 紛争中の民衆はタガが外れてて怖いのヨー?」
「でも、アゲハとブンブンはそんなことしないだろ? なんとか派とか、よく知らないから信用できないだけで……。ふたりは、友達になったと思ってるよ」
「トモダチ、か。平和な頭の小僧ネー。ま、いいけどネ」
さっき閉まったばかりの扉がふたたび開き、アゲハが顔を覗かせた。
「ブンブン、はやくして」
「はいはいヨー。小僧は隣の部屋に置いとくネ?」
「……それもそうね。今から面談するのは、わたしたちに助けを求めてきた蟻塚の罪人なの。スガレ、あなたなら本物かどうかわかるでしょ? 隣でこっそり確かめてくれる?」
「蟻塚の罪人……。わかった」
***
空中牢獄ギノユニワに収容されていた罪人の数は、スガレの把握している範囲では今朝の時点で七百十人だった。
アゲハたちの掴んだ情報によると、推定生き残りは約八十人だという。
スガレが入れられた部屋の壁は、てかりのある不思議な材質でできていた。
片面が透けており、隣の様子を覗くことができる。向こう側からは見えないようになっているらしい。
なにげなしに、透明な壁に手を添えてみる。どくどくと波打つ心臓のような音がした。
驚いて一歩離れると、魚の眼がギョロっと一瞬現れて消える。これもアゲハが言っていた『量産型の生体器物』なのだろう。
アゲハが隣室に入ってきて椅子に座った。
ブンブンはいつのまにか細身の
彼は皇帝の
他にも何人かの男たちが、彼女らと共に訪問者の取り調べをしている。
両手首を拘束具で繋がれているふたりは、スガレのよく知る人物だった。
「あれは、449番と762番!? よかった、無事だったんだ……」
もともと有名な画家で、反社会的な展示会を開いて捕まった449番。違法賭場の経営をしていた女口調の762番。
どちらも蟻塚にいた期間は三年ほどだ。
上半身の服を脱がされており、皇帝派の者たちが背中の『
──でも、よかった。あのふたりで。
449番と762番は、荒っぽい連中ばかりだった罪人の中では温厚なほうで、スガレとの関係も悪くなかった。
──もし、アキツハ様を殺した192番だったら……。アイツも、生きてんのかな。
もしここに来たのが192番だったら、スガレは自分がどんなふうに感じたかわからない。
きっかけを作ったのは蟻塚を襲った大公の息子だが、師に直接手を下したのは罪人なのである。
「192番……。結構、イイ奴だったんだけどな……」
免罪符売りと罪人は、どうしたって管理する者とされる者だ。アキツハは若くして蟻塚をまとめるだけの威厳があったが、罪人側は免罪符売りに逆らえば外にでられないという畏怖で普段から抑えつけられていた。
だから異常事態が起こり、あんなにも簡単に反旗を翻されてしまったのだ。
取り調べは問題なく終わったようだ。
罪人のふたりは拘束をはずされ、代わりに外から鍵がかかっている個室に通された。
元の大部屋に戻ると、スガレは紙の束を持った皇帝派の一員に問いかけられた。
「免罪符売り、あの二名を蟻塚で見たことあるか?」
「もちろんだよ。マジメに償いもしてたし、オレは毎日顔を合わせてた」
「皇女様、帝国華族の除名リストにも名が載っていますし、間違いないようです」
「そう。罪も旧制度では本来問われない種類のものだし、数日のあいだ様子を見て、組織に所属してもらうことを条件に保護しましょう」
「承知しました」
アゲハを皇女と呼ぶ者もいれば皇帝と呼ぶ者もおり、正式に引継ぎをできなかった慌ただしさが現れている。
「あと、皇女様。せっかく免罪符売りがいるのですから、黒ノ印を消しますか。見た目もおぞましいですし、ひと目で蟻塚の罪人とわかってしまうので大公派に見咎められず動くのは難しいかと」
「そうね……」
悩んでいるアゲハの思案を遮って、スガレは叫んだ。
「ダメだ!! 償いを終わらせなきゃ、黒ノ印は消せない。それがオレたち免罪符売りの決まりなんだ」
「でも、スガレ。もう免罪符売りは……」
「アキツハ様は大公の軍が攻めてきたときだって、絶対に誓いを破らなかった。だから、オレも破らない」
それ以上、アゲハは説得してこようとしなかった。
怒りも呆れもない表情で「わかった」とだけ答えて、臣下に別の指示をだしただけだ。
誓いを守りたい気持ちも嘘ではない。
しかし、蟻塚が壊された今、アキツハがその指で刻んだ黒ノ印は形見のようなものである。
おぞましいといわれ、思わずムキになってしまった。
それでも──スガレにとっては当たり前の光景だったはずの、背にべったりと黒く刻まれた印。
それは、
黒ノ印と
一切形に残すことなく伝えられ、何年もかけてアキツハから学んだ、大切なことばたち。
毎朝繰り返した、免罪符売りの誓い。
“罪を憎んで人を憎まず、裁きは神の手中にあり”
“わたしたちは断罪者にあらず、顔のない徴収者にすぎない”
“わたしたちは償いを終えた罪人を、
罪人を、赦さなければならない。
もしも師を殺した192番と再会し、彼が償いを望んだとしたら?
蟻塚を落とした大公の息子の場合は?
自分は、赦せるのだろうか。
答えのでない考えごとは、アゲハからの問いかけで終わった。
「スガレ、あなた、朱ノ言詞が使えるのよね。協力してもらえない?」
「協力? オレの力がなにか役に立つの?」
「ええ。蟻塚の独房にその術で鍵をかけてたでしょ。なにしろこの世界でもうあなたにしか使えないんだから、敵から隠れるのにもってこいじゃない? この隠れ家だって、いつ見つかるかわからないの」
免罪符売りの術は、封印と解放の力。
アゲハのいうとおり、スガレにしか解けない封印を施すことができる。
「ごめん、オレは……どっちの道にも行かない」
どっち、というのは。
さきほどブンブンに選べといわれた選択肢だ。隠れて暮らすか、アゲハたちと大公に立ち向かうか。
「いろんなことが起こりすぎて、ずっと頭が混乱してたけど……やらなきゃいけないことがあるんだ。アキツハさまとの約束なんだ。オレは、蟻塚の罪人たちの罪を集めにいく。みんなの償いを受け取ってから黒ノ印を消して、
悩んで、ようやくたどり着いた答え。
しかし、アゲハはあっさりと反対する。
「無理よ。外の世界を知らないあなたが、敵地でひとりになったら殺されるだけ。だから保護したのよ?」
「ごめんね、アゲハ。きみに協力をすること自体が嫌なわけじゃないよ。でもオレは、“最後の免罪符売り”だから」
ブンブンがあいだに入ってきて、少年と少女の肩にそれぞれ手を乗せた。
「オ
彼が提示した選択肢を放棄したのだ。もっと咎められるかと思っていたから予想外だった。
ブンブンの言葉を聞いたアゲハも納得したらしく、もう追及はしてこなかった。
「……わかったわ。スガレ、ちょっと待ってて。お金を貸したげる。ブンブン、いくらか金庫から持ってきて」
「でも、アゲハたちもあまりないって……」
「明日の食事代さえ持ってない人を送りだせない。返せるようになったとき、返してくれればいいから」
「助かるよ。どうもありがとう!」
硬貨の入った布袋を受け取ると、合金ヒラメが隠していた入口がそっと開いた。
「気をつけて。また助けが必要になったらいつでも頼って。隠れ家は移動してるから、ずっとここにいるとは限らないけれど」
「うん、またね!」
少年の姿が見えなくなったあと、青年が少女に話しかける。
「きっぱり見送ったネ。オ嬢の潔いトコ、結構好きヨ?」
「優柔不断じゃ、上に立てないでしょ?」
「ソノトーリ。でも、本当にいいの? 免罪符売りのやり方が絶対でいられるのは、旧制度の蟻塚のなかでだけ。外で勝手に黒ノ印を消したりしたら、逃亡した罪人の従犯と見なされて、小僧自身が罪人になるかもしれないネ」
「なにもしなくても、大公派に捕まればどのみち殺されるわ。だったら、したいようにすればいい」
「冷たーい」
「冷たくない。わたしだって、周りの大人にどれだけ『正しいこと』や『やるべきこと』を押しつけられたとしても……本当は、自分で選びたかったもの。それに、保護を求めていない相手にまで、手を差し伸べている余裕がないのも本音ね」
もう振り返らずに、少女は元の部屋のほうへ戻る。
皇女であり、皇帝となることを望まれているアゲハが廊下を歩けば、大人たちが一斉に頭を下げた。そうしないのは侍衛の青年くらいだ。
当然のような顔をして通りすぎるが、内心では胸が張り裂けそうなのだ。
自分の属している勢力が強いならまだいい。しかし、圧倒的に弱者だ。
いつ皇帝派の代表として捕まり、世間に
女帝として祭り上げられ、望まれることの意味を、アゲハは幼い頃から理解している。
「迷わない。覆さない。覚悟を決める。やるからにはやる。愚痴はちょっとだけにする。つらくなったらリボンで可愛くして気分を上げる。そして──ぜったいに、大公を倒す」
いつものように言い聞かせ、少女はまた前を向いた。