幼い頃、世界は広く、深刻で、とても重要なものに見えた。
それは未来が、あらゆる可能性に満ちていたからだろう。
十二歳の少年スガレは、薄暗い部屋でベッドから体を起こした。
夜が明けていないわけではない。この部屋は日中でも同じ暗さだ。
足元に置かれた水時計の鉢を覗きこむと、底の穴から少しずつ受け皿に零れ落ちて、起きるべき時刻の目盛りちょうどまで減っていた。
麻の着物を頭からかぶり、布靴を履いて部屋の外にでた。
小さなテーブルと台所が備えつけられたダイニングがあり、少年の部屋と真向かいにあたる位置にもう一つ木製の扉がはめられている。
短く切られた真っ白の髪は見た目に似合わず硬くて、毎朝これをしなければすぐあちこちに跳ねてしまう。
だらしなくしていると、師に叱られる。
もう一度水をくみ、次は陶器製の水差しに移す。カップと並べて質素なトレーに乗せ、スガレは向かいの扉を、音が響かないようにノックした。
すぐに返事があって、失礼しますと断りの言葉を述べてから室内に入る。
淡い金の髪を腰まで伸ばした師は、机に向かってランタンの明かりを頼りに書き物をしていた。
振り返ってスガレの姿を認めると、誰もを落ち着かせる低くて穏やかな声でいった。
「おはようございます、スガレ。もう朝ですか」
「アキツハさま! またこんな時間まで起きていたんですか? ちゃんと寝なきゃ、体に障ります」
慌ててベッドの薄布を取り、その肩にかけた。
師はまだ二十歳になったばかりの青年だが、スガレが見ても心配になるほど、肌は白くて体も細い。
額の真ん中で左右に分けた前髪は後ろと同じで腰まで伸ばしていて、血の気のない頬にかかると絹のようにしなやかで弱々しかった。
網目状のスジが入った二対の透きとおった
今日も、眼鏡をつけている。
スガレは師の片目を塞ぐ透明なレンズを見て、胸に棘がちくっと刺さったような気持ちになった。
少年がここに連れてこられたとき、師はそのレンズを持ってすらいなかった。
日に日に、眼鏡を着用している時間が長くなっていく。肉体と共に、視力が弱まっている証拠だった。
咳込み始めたアキツハの背中をさすった。カップに水を満たして渡すと、ゆっくりと喉が動いて飲み下されていくのがわかる。
喉の軟骨が上下する命の躍動を見て、スガレは少し安心して息を吐いた。
呼吸が整ったあと、アキツハはスガレに向かって何度も繰り返した言葉を伝えた。
「スガレ、私はもう長くありません。生まれたとき医者に宣告された寿命は、何年か前に過ぎました。私の残り時間では、この空中牢獄にいる罪人すべての償いを受け取ることはできない」
「アキツハさま……」
「だから貴方が、一人前の免罪符売りとなって、彼らを罰から解放してください」
スガレは師の手を握って、安心させるように力強く頷いた。
パンとスープのみの朝食を摂り、身支度を終えて、アキツハの後ろについて外にでる。
スガレは目に入る日光の眩しさに思わず眉をしかめた。
牢獄の外壁に面する通路には、窓代わりの小さな穴が横一直線に並んでいる。
外に暮らす者から見ればわずかな光に違いないが、それでもこの閉鎖された牢獄に暮らす者にとっては太陽そのものだった。
***
空に浮かぶ牢獄、ギノユニワ。
通称『蟻塚』と呼ばれているが、その名のとおり内部は迷路のように入り組んでおり、蟻の巣穴に似たいくつもの部屋と細い通路が連なっている。
スガレはここに連れて来られた日に、一度だけ蟻塚を外から見たことがあった。
浮遊する巨大な
泥団子は数人の大人がめいっぱい腕を広げても周りきらない太さの鎖で、本国の地上と繋がれていた。
アキツハとスガレが牢獄内を歩けば、四方から声をかけられる。
「よぉ、
「192番、アンタだって今は
「ちょっと坊や、その次はアタシの部屋寄って頂戴よ。良いことしたのよ」
「珍しいなオカ……762番。祈りの後で行くよ」
「アンタ、今オカマって言いかけたでしょ!?」
「スガレや、キシズクの木に果実がついたんだ。アキツハ様に差しあげておくれ」
「ありがとー、32のじいちゃん」
「先日描き終えた裸婦の絵、十万マルガで売れたんです……。芸術価値の分、償いに上乗せしてくれませんか……?」
「相変わらずすげーな、449番先生。裏ルートはダメだぞ、罪が増えるからさ。上乗せもできないけどね」
蟻塚で暮らす住人は千人近くいるが、免罪符売りのふたりを除けば、全員が罪を犯して収容された罪人だった。
元は皆、本国の民と同じで背中に
刑期という法がなく、時間での償いが不可能なこの国の罪人が空中牢獄の外に出るには、『労働と人助け』で己の罪を清算するしかないのだ。
免罪符売り、と名乗ってはいるが実際には税の取立人のようなものだ。アキツハとスガレたちは、罰を消す対価に罪人からなにかをもらうわけではなかった。
星空に似た輝きを放つ鉱石が埋め込まれた祈りの部屋で、ふたりは向かい合って膝をつき、毎朝の決まりである誓いの言葉を口にした。
「罪を憎んで人を憎まず、裁きは神の手中にあり」
「罪を憎んで人を憎まず、裁きは神の手中にあり」
アキツハの祈りを、スガレが繰り返す。
「わたしたちは断罪者にあらず、顔のない徴収者にすぎない」
「わたしたちは断罪者にあらず、顔のない徴収者にすぎない」
「わたしたちは償いを終えた罪人を
「わたしたちは、償いを終えた罪人を
「スガレ、集中してください」
「申し訳ありません」
千回以上も繰り返してきた祈りの言葉が、最初は嫌でしかたがなかった。
どうして自分が、なんの関係もない罪人を赦し、彼らの償いに責任を負わないといけない?
そう問うても、神は答えない。
生まれつき
父のような官僚になりたいとか、兄のような軍人になりたいとか、幼心に描いた夢は早々に
「はい、よくできました。今日もよろしくお願いしますね」
アキツハが、スガレの跳ねた硬い髪を撫でて直す。
師には美しい
見習いとしてやってきたスガレに、アキツハは優しくしてくれた。両親や兄たちと違って、
この師がいたからこそ、スガレは閉ざされた小さな世界でも明るく暮らしていられたのだ。たとえ未来の可能性を一切失っていたとしても。
朝の祈りを終えると、免罪符売りは原則として、番号の早い罪人のところから訪問していく。
「アキツハさま、第七曜日なのに本国からの配給はやっぱり来ませんね。ほんとに昔はきっちり来てたんですか?」
「そうですね。最近は遅れや抜けが多いですが、貴方がここにやって来た頃……五年ほど前までは、週に一度届いていました。内戦が始まって余裕のない本国からすれば、旧制度の牢獄にまで構っていられないのでしょう」
「うるさく口だされても面倒だから、オレはべつにかまやしないっすけどね。どうせ、ほとんど自給自足なんだし」
「スガレ、言葉遣いに気をつけてください。それに、私たちの食料は本来配給から賄うものですよ。皆さんが分けてくれているのは、対価ではなく好意です」
「はーい、わかってます」
アキツハは償い希望者の番号を書き写したリストを、細い指でめくる。
「今日は26からですね。鍛冶エリアにいるはずです。7番が先月償いを終えて本国に戻りましたので、今は26の彼が蟻塚でもっとも若い番号となります」
「うっ、26番……。あのオッサン無口だしでかいし、おっかないんだよなぁ……」
この牢獄で言われる番号とは、罪人ごとに振り分けられた識別番号のことだ。
以前は同じ番号が使いまわされていたが、今は罰が終わって本国に帰ったり、投獄中に命を落としたりして、空きがでることがあってもそのままだ。
本国からの配給がまばらになるとともに、この牢獄に新しい罪人がやって来ることがなくなったからだった。
そのため若い番号ほど罪が重すぎて償いきれないか、償いを怠っているかの長期投獄者であることが多い。
鍛冶エリアは窓に面した部屋にあるとはいえ、いつも熱気がこもっている。
レン炉の前にひとり、フイゴを踏んでいるのがふたり、加工台にふたり。いずれも若い男たちだ。
そのなかでもっとも風格のある、五十代くらいの男がいる。
このエリアを取り仕切る髭をたくわえた大男、鉄床でハンマーを下ろしているのが26番だった。
26番はスガレたちが来たのに気づくと、作業を他の者に預け、部屋の奥へ木箱を取りに行った。
まだ柄のついていない大量の刃物をどさっと床に置くと、アキツハに向かって不愛想にいった。
「完成品だ。工具と農具は他のエリアにまわしてくれ。武器は本国に。それから、これはあんたたちに」
差しだされた鉄ナイフはこの牢獄の原始的な設備にも関わらず、本国の技術にも劣っていない一級品だ。完璧な直線が鋭利に輝いていた。
「いつもながら、素晴らしい仕事です」
「鉄とホウ砂の在庫がもうわずかしかない。補給を頼む」
「少し待ってください。配給が先月から途絶えていますので、これらの武器と引き換えに本国と交渉してみます」
26番はアキツハに背を向けると、どさっと音を立ててその場に座った。
蒸し暑い室内での鍛造中だったため、上半身ははじめからなにも身に着けていない。本来
罪人の証である『
「場所を変えなくても?」
「かまわん。時間が惜しい」
罪人のなかには他の人間の前で黒ノ印を見せたがらない者も多い。印の濃さや大きさは、背負った罪の深さによって違うからだ。
26番が人目をはばからないのは毎回のことだが、形式として尋ねたのだ。
「では、いきます」
アキツハは懐にたずさえていた紙束の表紙をめくった。紙には木版で押された華やかな国章が印刷されている。
上下に罫線の引かれた空白を人差し指の爪でなぞると、赤く光る文字が刻まれていく。
免罪符に描かれる文字は、スガレも師から教わった『
この言語の持つ意味を知るのは、アキツハとスガレのみ。免罪符売りだけに継承され、形として残すことは許されていない。一度書き起こしてしまったら、すぐに葬らなければならない。
紐で綴じられていた一枚目の紙をちぎり離すと、アキツハは26番の黒ノ印の前に掲げ、祈りを捧げた。
──これは、償いの証書。
透明な緑色の炎。
色褪せた薄茶色の紙に描かれた免罪符は、鮮やかな炎に包まれて一瞬で空気に溶けた。
「手間をかけた」
26番は儀式が終わるとその場でアキツハに頭を垂れ、立ちあがってさっさと持ち場へと戻って行った。
スガレが彼の償いに立ち会うのはもう数十回目にもなるが、黒ノ印はほとんど変化していない。
罪が軽い者であれば、一度の償いで目に見えて文様が薄くなることもある。26番は模範囚だが、背負っている罪が重すぎるのだ。
部屋の気温が高すぎるせいで病弱な師の顔色はすぐれず、額に汗を浮かべているが、いつもと同じように柔らかく微笑んでスガレのほうを振り返った。
「では、次の罪人のところへ行きましょう」
「はい!」