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第21話:このままずっと、この世界に

 重ねられたリュミエの手に力が込められ、オレの手を握り込む。心臓が体の内側から鼓膜を叩き、細く息をしながらオレは、視線を泳がせた。


「な、ど、どうしたんだよ急に。揶揄からかうのはよせ」


揶揄からかってなんかいないわ」


 リュミエはオレを逃がそうとせず、その深紅の瞳で真っ直ぐ見つめてくる。静かなのに、どこか熱を秘めた、揺るぎない眼差し。


「興味があるの」


「な、何に」


「あなたという存在に」


 リュミエのもう片方の手が伸びてきて、緊張に汗ばんだオレの髪の生え際を撫で上げる。


 このまま喰われてしまうのかもしれない。


 具体的に何がどうなるという想像まで至る余裕がなかったが、直感的に"喰われる"というワードが頭に浮かぶ。


 リュミエの宝石のようにきらめく赤い眼が、真実を見透かそうとするようにオレの目をガッチリと捉えたまま近づいてくる。


 その時だった。


 ノックもなく扉が開き、エリオスが現れた。彼はベッドの上のオレたちを見るやいなや一瞬にして青い瞳に驚愕を宿し、唖然として固まった。そして数秒ののち、息を吹き返した魚のようにパクパクと唇を開閉すると、呻くように言った。


「睡蓮、貴様、なんという破廉恥な……」


「いや、ご、誤解だ」


「黙れ、れ者! その状況で言い訳をする気か?」


「だって、オレは何も――」


「見苦しいぞ。貴様さては病人であることを逆手に取り、リュミエ殿の親切心を利用して、彼女に無体を……ああっ! 口に出すのもはばかられる。貴様、いいかげんリュミエ殿から離れないか!」


 エリオスのリュミエ贔屓びいきな物言いに、さすがに言い返したくなった。


「オレに離れろって? お前にはこの状況がどう見えてるんだよ! 上に乗ってるのはリュミエの方だぞ!」


「まだ口答えするか! リュミエ殿のような清らかなご令嬢が好き好んで貴様などに迫るわけないだろう! 身の程を知れ!」


「やかましいぞ、静かにしろ」


 その場の温度を急速に冷やす低い声が響いた。見ると、エリオスが開け放ったままの扉の向こうに眉を吊り上げたハルド・グランツ医師が仁王立ちしている。


「ここは色気づいたナイトバーじゃなく、私の神聖な診療所だ。痴話喧嘩なら外でやれ」


 グランツ医師は冷静な、しかし迫力のある声音でオレたちを叱ると、一階へ下りていった。


 エリオスは叱られたことが相当ショックだったのか、子どものようにしゅんと項垂れる。対してリュミエの方は小さく微笑をこぼすと、オレの上から離れていった。


 オレは一気に疲労感に襲われて、呆れ混じりの長いため息をついた。






 夕日が完全に沈み、宵闇が部屋を優しく包むころ、ランプの明かりと二人分の夕食を携えてリュミエが病室に入ってきた。彼女はトレイの上のパンとスープと水をひと組、自分用に窓際の机の上に移動させると、オレに体を起こすよう言い、オレの分の食事をトレイごと手渡した。


 オレは膝の上に乗せたトレイを机代わりに、まず乾いた喉を水で潤す。そしてパンをひと口大に千切り、細かく切られた野菜の浮かぶ乳白色のスープに浸して口に運ぶ。


 なめらかなパンの舌触りと、複数の野菜の風味が幾重にも重なり調和した薫り高いスープの味。


「美味い……」


「それはよかったわ。夕方、ここへ来る途中に会った女性が差し入れてくれたの。消化の良い白パンと、薬菜やくさいのスープよ」


 オレはエリオスの背中越しに見た、ふっくらとした中年女性の姿を思い出した。


 リュミエがオレと同様に、千切ったパンをスープに浸して口に入れる。


「ルクス=ノワール城で出てくるどんな豪華なご馳走よりも、私はこの村の人たちが作ってくれるご飯が好き」


「ああ」


 オレが相槌を打つと、彼女は顔を上げてオレを見つめた。


「あなたにもこの味が、等しく伝わっているといいわ。たとえこの世界があなたにとって、夢の中の世界でも」


 オレは黙って頷いた。等しく、かどうかはわからない。それでもオレにとって今夜の食事は、他に例えようもなく胸を満たすものだった。


 食事が終わるとリュミエは、就寝のあいさつをし、食事のトレイを持って去っていった。


 机の上に残されたランプの油が切れ、ぷつりと明かりが消えてしまうと、オレの意識も闇の中へと揺蕩たゆたうように落ちていった。


 夢の中で眠ったら、どうなるのだろうか。その答えは以前に国王との会食で毒を盛られて眠ったときと同じだった。意識を失い、再び取り戻すだけ。夢の中で夢は見ない。






 目覚めてからの一日を、オレはベッドの中で無為に過ごした。この日はグランツ医師が時々様子を見に来るだけで、病室は静かなものだった。不思議に思って、昼過ぎごろにグランツ医師が顔を出したときに尋ねてみると、なんと彼が面会謝絶を表明したらしかった。


「今日は夜まで一日中、外来患者を受け付ける日だ。高齢者も来る。昨日のように二階であれこれ騒がれてはかなわん」


 もっともな理由であり、オレは返す言葉もなかった。


 ただひとり病室のベッドに横たわり、窓の外に見える青い空が、冴え冴えとして美しかった。その色が思いの外、強く琴線に触れたらしい。もしくは、時間を持て余してしまったせいだろう。


 このままずっと、この世界にいられるとしたら――と、普段のオレなら一笑に付すような夢物語を想った。

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