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第7話:勇者の決断

 朝日が差し込む部屋の中で、オレは夢日記のこれまでの記録を読み返しながら考え込んでいた。エリオスの心は確かに揺らいでいる。しかし、揺らいでいるということは、こちらに倒れるかもしれないし、もとの側へ倒れるかもしれないということだ。


 つまり、エリオスにリュミエを討たない決断をさせるための、最後の一手がほしい。


 王国の命令という強固なかせ。『魔族を討つ英雄』、正義の象徴として民衆から崇められる立場。それらをひっくり返すに値する大義名分。


 勇者エリオスが次に掲げるべき正義。国王と手を取り合い、民衆を導く先の到達点。


「ああ、考えがまとまらん」


 オレは頭を乱暴にがしがしと掻く。


 その時不意に、アラームが鳴った。弾かれたようにスマホを手に取り、画面を見る。


 7:40。その時刻が何を示しているかというと、


「やっべ! 今日、土曜か」


 アルバイト先である喫茶店へ出勤する時刻だ。オレは猛烈なスピードで洗顔と歯磨きを済ませ、アルバイト用の白いシャツと黒いスラックスに着替えてアパートを飛び出した。




 オレは大学のそばの安アパートで一人暮らしをしている。親からの仕送りは最小限で、生活費のほとんどはこのアルバイトで賄っている。怠惰な性格ではあるが、金がなければ生きていけないため、働くことに迷いはなかった。むしろ、頑張って働いているのだから大学ではのんびりしたっていいだろう、と学生の本分を忘れて都合よく開き直っていた。


 喫茶 静音しずねに到着すると、すでにマスターがカウンターの奥でコーヒーを淹れていた。


「おはようございます」


「おう、睡蓮。ギリギリだな、相変わらず」


 マスターは笑いながらも、特に怒る様子はない。平和な世界だ。こうして現実世界の日常が何事もなく続いていることが、どこか不思議な感じがする。


 オレの勤務開始は八時だが、店の開店は七時半なので、すでに一人の常連客が入っていた。その人に軽く挨拶をしてバックヤードに入り、急いでエプロンを身に着ける。


 身支度を整えて表へ戻ってくるのとほぼ同時、店の戸がカランコロンと小気味良い鈴音を立てた。入ってきたのは常連客の一人、葛城かつらぎ源二郎げんじろうさんだ。御年なんと九十九歳。運動も兼ねて、近所から毎朝モーニングを食べにやって来る。来年の百歳の誕生日には喫茶 静音でも盛大にお祝いしよう、とマスターと話している。


「おはようございます、葛城さん。いつものでいいですか?」


「ああ、頼むよ。お前さん、後ろ髪が撥ねとるぞ」


「やべ、寝癖直ってないかも」


 オレは後頭部を撫でつけ、苦笑しながら厨房に入り、オレとバトンタッチで調理側へ回ったマスターにモーニングセットのオーダーを通した。分厚いトーストとゆで卵とホットカフェオレを乗せたモーニングの盆はすぐに完成し、オレはそれを窓際のソファ席へ速やかに運んでいく。


 葛城さんは背筋がピンと伸びた姿勢の良さが印象的な老人だ。白髪はきちんと整えられ、深い皺の刻まれた顔には、歳月の重みとともにどこか穏やかな余裕が漂っている。眼鏡の奥の瞳は澄んでおり、近づいてきたオレをふと見上げた視線には、戦乱の世を生き抜いてきた人間の強さと優しさが滲んでいた。


「ありがとう、そこに置いてくれ」


 眼鏡だけでなく虫眼鏡まで使って新聞を読んでいた葛城さんは、テーブルの向かいの席あたりを目で指した。オレは言われたとおり、新聞の邪魔にならない場所へ盆を置く。


「何の記事ですか」


 気になって覗き込んでみると、葛城さんは珍しく渋い顔で首を横に振った。オレの行動を見咎めたわけじゃない。オレの質問への回答だ。


「中東の内戦さ。シリアやイエメンでの戦闘が激化しているってな。民間人が巻き込まれて、命を落としている……戦争ってやつは何故なくならんのか」


 葛城さんは新聞を畳み、ホットカフェオレをひと口含むと、窓の向こうの遠くを見つめた。オレはその表情から、彼が今何を回顧しているのか察した。


「葛城さんは、昔の太平洋戦争を経験されてるんですよね」


 眼鏡の奥の瞳がちらりとオレに向けられて、また中空へと戻っていく。


 そうだな、と呟いて彼は続けた。


「太平洋戦争中、俺も南の島で戦ったんだ。フィリピンのレイテ島でな。あの時、日本軍はアメリカ軍に包囲され、完全に退路を断たれた。連日の激しい砲撃と空襲で、弾薬も食料も尽き果て、仲間たちは次々と倒れていった。生き残った者たちも、飢えと病で衰弱しきっていた」


 葛城さんの声は淡々としていたが、その奥に潜む凄惨な記憶が伝わってくる。


「最終的に俺たちは、自決するか捕虜になるかの選択を迫られた。当時の日本軍では捕虜になることは恥とされていた。上官は自決を命じたが、俺は生きることを選んだ。酷い扱いを受けると聞かされていた捕虜生活は、確かに厳しく、過酷だった。だが、命があったからこそ、こうして今の余生がある。生きるという選択は、時に勇気がいるものだ」


 オレは言葉を慎重に選び、素直な疑問を投げかけた。


「戦時下の軍隊で、しかも戦場で上官の指示に背いて生きる選択ができたのは、どうしてですか」


 葛城さんはしばらく沈黙した後、静かに語り始めた。


「本土に婚約者が待っていたからだ。当時の俺は二十歳。若かったが、それでも守りたい人のために生きて帰らなければならないと強く思った。上官の命令に従って自決することは名誉とされていた。しかし俺が本当に守りたかったものは、その名誉ではなく、帰りを待つ彼女。そして彼女と生きていく未来だった。死んでしまえば、それで全てが終わる。無駄死にしてはならないと心から思った。俺は生きて帰り、彼女と結婚し、戦後の日本を再建していく未来を選んだ」


 葛城さんの目は遠い過去を決然と見つめていた。その声には確固たる信念がこもっていた。


 彼の話を聞き、オレの中には一筋の光が差し込んでいた。


 エリオスにリュミエを討たせないための鍵――それは、エリオス自身が抱えている葛藤を解きほぐすことだ。


 エリオスが真に掲げる目的は、リュミエ討伐ではなく、人間を守ること。リュミエ討伐自体は目的ではなく、ただの手段のひとつだ。しかも、その手段により王国と魔族の争いが激化し、結果として人間たちが傷つき、命を落とす危険まである。そのことをエリオスは先日の会話で理解したはずだ。


 なのに彼が、魔族との和平の道へ進み切れないのは、絶対的とされる王国の命と、英雄としてのプレッシャーが邪魔をするせいだ。


 葛城さんが戦場で、自決と捕虜になることとの間で葛藤し、ついに捕虜になることを選んだのは、その先に彼女と生きて日本を再建していく未来が見えたからだ。


 同じようにエリオスにも、魔族との和平の道を選んだ先の幸福な未来が見えたなら、今の葛藤を乗り越え、決断できるかもしれない。


「ありがとうございます、葛城さん。とても、大切な話をオレなんかに……」


 葛城さんの目がゆっくりとオレに向けられた。その柔和に細められた瞼の間から見える瞳はもう、遠い過去から穏やかな現代へと帰ってきていた。


「いいや。年寄りの昔話なんか聞いてくれてありがとう」


 オレは深く頭を下げ、再び仕事に戻った。丸一日働いてへとへとになりながらも、心の中には希望が芽生えていた。


 帰宅すると、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。そして、夢日記を枕の下に入れ、再びネム=ファリアへの転移を願った。


 夜の静寂の中、意識が遠のいていく。


 再び目を開けたとき、オレはネム=ファリアのリュミエの城の中庭に立っていた。月明かりが石畳を照らし、不思議な静けさが辺りを包んでいる。


 城の奥から足音が近づいてくる。リュミエとエリオスだった。二人の顔にはこれまでの緊張感はなく、むしろ穏やかな連帯が感じられた。


「睡蓮、来たのね」


「ああ」


「あなたは気配を消さないから、すぐわかる」


「気配の消し方なんか知らない。オレは勇者でも軍人でもないからな」


「いつも突然現れて、突然いなくなる。ダイガクセイって不思議」


「説明できていなくて悪い。またゆっくり話す。それより、前に俺と会った日からどれくらい経った?」


「三日だ」


 答えたのはエリオスだった。オレは彼の方に視線を向ける。


「エリオス、三日経って決意は固まったか?」


 黙ったまま目線を下げる彼の表情が、彼の答えを如実に語る。


 オレは彼が口を開きあぐねているとみて、明確な答えを待たずに続けた。


「人間と魔族とが手を取り合って生きる未来。想像したことがあるか? オレはある。オレの生きる現実世界に魔族はいないけど、妄想でならある。人間と魔族、どちらもけているところと弱いところがあるだろ。例えば科学知識なら人間のが上だろうし、力や魔法についてなら魔族の方が底知れない。この二つがさ、タッグを組んだ世界なんてもう最強だ。怖いものなしだろ」


「睡蓮、頼みがある」


 オレの語尾に被せるくらいの勢いで唐突にエリオスが発声した。


「頼み?」


「俺と一緒にアルカ=フェリダ王国へ来てくれ」


 エリオスは歩み寄ってきてオレの両肩を掴んだ。身長差のせいでやや上にある彼の青い瞳が真っ直ぐ懇願するように俺を見下ろす。


「いや、まあ、別にいいけど……」


 圧に押されて深く考えずに了承してしまった。


 この判断が正しかったのかどうか、その答えは後世の歴史家に委ねるのみだ。

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