目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第4話:心理学教授に学ぶ

 大学の構内を足早に進む。授業をサボって家でゴロゴロすることはあっても、教授に自ら会いに行くなんて、オレにとっては前代未聞だ。


 禍野まがの冬嗣とうじ教授といえば、学生の間でも有名な存在だ。ただの心理学教授という枠に収まらない、どこか常軌を逸した雰囲気を漂わせている。授業を取っていないオレでさえ耳にしたことがある。彼の講義は鋭い洞察と皮肉で満ちており、時折、学生の心理をえぐるような質問を投げかけるという噂だ。授業中に泣き出す学生がでるのが普通だとか、無断欠席が続いた生徒の家庭事情まで言い当てたとか、都市伝説のような話が絶えない。


 そんな人物に相談を持ち掛けて無事でいられるかは疑問だが、今はそれでもの人を頼らざるを得ない。


 重厚な木製のドアの前で一度深呼吸し、意を決してノックした。


「どうぞ」


 中から落ち着いた声が返ってくる。ドアを開けると、書類に目を通していた禍野教授が顔を上げた。年は確か四十代前半と聞く。長身瘦躯で整った顔立ちをしており、眼鏡をかけたその涼しげな目元が逆に彼の不穏さを際立たせて見える。


「君は……霞宮かすみやくんだね?」


 その言葉にオレは一瞬固まった。オレは彼の授業を取っていない。初対面のはずだ。


「なんでオレの名前を……」


 禍野教授は微かに口元を歪め、不気味な笑みを浮かべた。


「さあ、どうしてだろうね」


 その曖昧な答えに背筋が寒くなる。まだ会って一分も経たないのに、すでに何かを見透かされているような気がしてならなかった。


「それで、突然やってきてどんな用かな」 


「お忙しいのにすみません。少し相談したいことがあって」


 教授は興味深そうにメガネの奥の目を細めた。


「座りたまえ。話を聞こう」


 オレは促されるまま椅子に腰を下ろした。そして、どう切り出すべきか迷った末、夢の話をするわけにもいかず、結局適当に濁した。


「例えば、強い信念を持った人を説得したい場合、どうすればいいんでしょうか?」


 教授は顎に手を当てて少し考え込んだ。


「ふむ、それは難しい問題だね。まず、その信念がどこから来ているのかを知る必要がある。個人的な経験なのか、環境によるものか、あるいは社会的な圧力か。君の言う相手はどんな人物なんだい?」


「使命感に従って行動してる感じです。誰かからの命令で、それを正しいと信じて疑っていないような」


 教授は微笑みを浮かべた。


「それは典型的な権威への服従だね。つまり、上からの命令や権力者の指示に疑問を持たず従うことだ。軍隊や企業では特に顕著で、権威の言葉には、それだけで人を納得させる力がある。権威に従うことで安心感や一貫性を得る人々は、その権威や組織の正当性を否定されると、自分の選択や行動が間違っていたことを認めるのが難しくなる。その結果、強い心理的抵抗感を覚えるんだ。『認知的不協和』という言葉は知っているかい?」


 オレは首を横に振る。教授は続けた。


「人は自分の信念や行動が矛盾していると不快感を覚える。これを利用すれば、相手が自ら疑問を持つきっかけを作ることができるかもしれない。信念を持つ相手への説得は、直接否定するのではなく、本人が自ら疑問を持つような状況を作るのが有効だろう」


「疑問を持つような?」


「そう。例えば、その信念に矛盾する事実を提示したり、本人の信じる価値観と衝突するような視点を提供する。相手が"自分で気づく"ことが重要なんだ」


 オレは夢の中のエリオスを思い出した。彼は王国の命令に従ってリュミエを討とうとしていたが、自分の頭で深く考えている様子はなかった。


「なるほど……ありがとうございます、禍野教授」


 教授は軽く頷いた。


「役に立てたなら嬉しいよ。君がどんな問題に直面しているかはわからないが、自分自身の信念も忘れないことだ。人を説得するには、まず自分が信じていることに確信を持つ必要があるからね」


 オレは頭を下げて研究室を後にした。教授の言葉が頭の中で何度も反響する。


 自分で気づかせる。矛盾を突く。エリオスを動かす鍵はそこにあるのかもしれない。


 帰り道、スマホで「認知的不協和」「権威への服従」「心理的抵抗」などのキーワードを検索しながら、オレは次にどう行動するかを考え続けた。




 その夜、オレは再び夢の中でネム=ファリアを訪れた。今回は夜で、リュミエの城から少し離れた森の中だった。月明かりが木々の間から差し込み、静寂が辺りを包む。


 オレは城へ向かおうと足を進めたが、すぐに背後から声が響いた。


「貴様、また現れたか!」


 エリオスだった。彼は剣を構え、こちらを睨んでいる。


「待て、話がある!」


 オレは慌てて両手を上げ、無抵抗を示した。エリオスは一瞬戸惑った様子で足を止めたが、剣を下ろす気配はない。


「命乞いか? 魔族の手先め」


「違う! オレはただ、お前に考えてほしいことがあるんだ」


 エリオスの眉がひそめられる。


「考える?」


「そうだ。お前は、魔族は人間に仇なす存在だと言ったが、リュミエが具体的にどんな仇をなしたか、知っているのか?」


 エリオスは答えに詰まって口を開閉し、やがて絞り出すように言った。


「王国がそう言っている。だから討つ。それが勇者の使命だ!」


「それが本当に正しいか、疑ったことはあるか? お前が信じている正義は、本当にお前自身のものなのか?」


 エリオスの表情が揺れる。オレはさらに畳みかけた。


「リュミエは戦いを望んでいない。彼女は和平を望んでいるんだ。それでも彼女を討つのが正義だと言えるのか?」


 エリオスの握る剣がわずかに震えた。オレは息を呑んで彼の反応を待つ。


 だが、次の瞬間、エリオスは再び剣を振り上げた。


「黙れ! そうやって口八丁で俺をたぶらかすつもりだな」


 オレは咄嗟に後退りしながら、心の中で焦りを感じていた。まだ、エリオスの心に届く言葉が足りない。


「待て、エリオス」


 振りかざされた剣の動きに注意を払いながら言う。


「お前が本当に自分の進む道を正しいと信じているのなら、オレの話を聞いても動じないはずだ」


 その言葉に、エリオスの動きがピタリと止まった。鋭い目でオレを見つめる。


「……貴様、何を企んでいる?」


「何も企んでなんかいない。オレの話をちゃんと聞いてくれ。戯言ざれごとだと思いながらじゃなく」


 沈黙が流れる中、エリオスはゆっくりと剣を下ろした。


「わかった。聞いてやろう。ただし、不穏な動きを見せたら容赦なく切る」


 オレは大きく頷いた。ついに、エリオスと真正面から話す機会を得たのだ。


「ありがとう、エリオス。お前が話を聞いてくれるなら、きっとここから世界は変わる。お前とリュミエだけじゃない。このネム=ファリアに千年以上続く大いなる確執の……終わりが始まる」


 オレは心の中で拳を握りしめた。これが、リュミエを救うための第一歩になる。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?