紫色の月が夜空に浮かび、暗闇の中で静かに光を放っている。黒くねじれた木々が立ち並ぶ森の中、オレは一人佇んでいた。
また同じ異世界。
ここ二週間、オレは毎晩この異世界の夢を見ていた。そして目覚めるたびに、夢日記に記録していた。
夢の中の"記憶"はすぐになくなるが、現実世界で夢日記に"記録"すれば、それは永遠に残る。
オレは"過去の自分が書いた記録"により、
ここは昨晩と同じ異世界、ネム=ファリアだ。
この世界の人々は、まるで現実と変わらない生を生きていた。
彼らは自分たちの世界がオレの夢であるとは考えていない。いや、オレの夢の方が本当は夢ではないのかもしれない。
わからない。ただ、オレにとっては繰り返し見る夢の世界が、彼らにとってはただの日常なのだ。
夢日記の記録によると、オレは基本的に夢の中では傍観者だった。夢の中で起こる出来事に深入りせず、ただ映画館の客のように見ているだけ。
変に巻き込まれそうになったら、"いつもの方法"で目覚める。だからオレは夢の中で怪我をしたり死んだりすることはない。その危険が迫る前に目覚めることができるからだ。
それは今日だって同じだ。
同じ、はずだった。
森の奥からかすかな金属音が響く。
なんか、まずい場面に遭遇しちまったか……?
心の中で呟く。そして面倒になる前に、いつもの目覚めの手順を踏もうとした。
だが、現実世界で読んだ"記録"がオレを引き留めた。
「リュミエ……」
彼女がいるような気がしたのだ。
怠惰なはずのオレの足が、自然と前へ進む。
開けた場所に出ると、そこでは長い漆黒の髪の少女と、白銀の鎧を纏った男が対峙していた。
魔族の姫、リュミエ・ノワル。
勇者、エリオス・ヴァルター。
この異世界、ネム=ファリアの住人たちだ。
「リュミエ・ノワル! 王国の命により、貴様を討つ!」
「……もう何度目かしら、その言葉」
リュミエは冷ややかに言い放つ。彼女の表情には諦めと憤りが入り混じっていた。
オレは何度もこの世界の夢を見ているが、記録によると、勇者がリュミエを討とうとする場面に遭遇したのは初めてだった。
最悪だ……。
オレはこれまでの夢の記録で知っていた。魔族の姫リュミエ・ノワルは、勇者に討伐されてしかるべき悪事など一切働いていない。彼女は争いを好まず平和を望む、心優しきただの姫だ。なのに魔族というだけで悪者扱い。
リュミエは勇者が来るたびに毎度姿を現し、直々に戦う。
それは家臣に戦闘をさせないためだ。そして、強い魔族の力を持つ家臣が、人である勇者を殺してしまわないためだ。
オレはそんなリュミエを夢の中で二週間、ただ傍観し続けていた。
「何度だって言うさ。覚悟しろ、魔族の姫!」
エリオスが剣を構え直し、今にもリュミエに飛び掛かろうとする。
怠惰なはずのオレの脳みそは、一瞬のうちにフル回転した。どうする。昨日までの"記録"の内容と同じように、このまま黙って見ているのが正解かもしれない。でも、本当にそれでいいのか? 夢の世界の出来事だからと何もせず、いつもみたいに面倒事が起きる前に夢から逃げて、目覚めた時、後悔しないでいられるか?
「待てよ、勇者様」
気がつけば、オレは口を開いていた。
エリオスが驚いたようにこちらを見る。
「貴様……何者だ」
「通りすがりの大学生だ」
「ダイガ……? 何を言っている」
エリオスの混乱をよそに、オレは続ける。
「あんた何度もリュミエを討伐しに来てるんだろ? いい加減、この戦いを終わらせる方法を考えないか? そもそも、リュミエが本当に討たれるべき存在なのか、お前はちゃんと確かめたのか?」
「そんなもの、確かめるまでもない! 魔族は人間に仇なす存在。それを討つのが勇者の使命!」
「それ、本当に自分で考えたことか? 王国の誰かに言われただけじゃないのか?」
「な……!」
エリオスが言葉に詰まる。
オレは確信した。この勇者は自分の頭で考えていない。彼は教えられた正義を疑うことなく実行しているだけだ。
リュミエがオレを見て言う。
「あなた、面白いこと言うわね。でも不思議な感じ。本当にネム=ファリアの住人?」
彼女の紅玉のような瞳の深さに一瞬吸い込まれそうになるのを堪えて、
「いや、今のオレが何なのか、オレにもよく分からん。でも、わかることが一つある。このままじゃ、いつまでたっても同じことの繰り返しだ。だから――」
オレは続ける。
「ちょっと待ってろ、いったん現実世界で調べる! 勇者が魔族を討つことが本当に正しいのか、もしくは誤っているのか。その答えがわかれば、この戦いを止められるかもしれない」
「ゲンジツセカイ? ねえあなた、何者?」
「オレは
「……変な人間」
リュミエは静かにオレを見つめ、口角を上げた。諦観の中にほんのわずかだけ期待の混じった目をしていた。
だが、エリオスは剣を構えたまま、まだ納得できない様子だ。
「そんな話に耳を貸すつもりはない。俺は勇者として、与えられた使命を果たす!」
「だろうな。でも、お前の正義が本当に正しいのかは、オレが調べるからちょっと待ってろ」
その瞬間、視界が揺らいだ。
気づくとオレは目を覚ましていた。見慣れた天井。カーテンの隙間から差し込む朝日。
オレは反射的にベッドの枕元に手を伸ばし、メモ帳とペンを引き寄せると、ベッドにうつ伏せの状態で覚えている限りの夢の内容を怒涛の如く綴った。手を動かしすぎて腱鞘炎になるかと思った。
やがてすべての記憶を"記録"として書き留めると、オレはメモ帳を手に起き上がる。
「さて、調査開始だな」