「だが、例外もある」
水書は床に落ちていたペンを手に持つと、壁のホワイトボードまで歩いて行った。
「動詞が消えてから今までの間、動詞カードを見ずとも思い出せた動詞があるんだ。ちょっとこれを見ろ」
言いながら、薄汚いホワイトボードの上でペンをキュルキュと動かす。
『思い出す=〈思う〉+〈出す〉』
「まずは複合動詞。〈思い出す〉は他動詞〈思う〉と〈出す〉、二つの動詞の複合だ。つまり〈思い出す〉の動詞を知っていれば、カードがなくても〈出す〉を思い出せる」
まるで授業だな、と思ったが、そう言えばこの人は国語教師なのだった。
「逆に、既に知っている動詞二つで、複合動詞を思い出すことも可能だ。例えば〈思い知る〉。あるいは〈言い残す〉。他にもまだまだあるな」
キュルキュキュ、とペンが動いて文字を残していく。『〈思い立つ〉、〈思い残す〉、〈見落とす〉、〈見出す〉、〈読み上げる〉〈落ちつく〉…』
そう言えば俺もついさっき、落ちつくを思い出したのだった。なるほどこういう原理か。
「キリがないな。とにかく既存の動詞だけでもこれだけの複合動詞がある。かなりの数だろう」
水書は得意げな顔で俺たちの方を見たが、いまいち反応は鈍い。俺以外の全員は不思議そうな顔でホワイトボードを見ている。どうやら、文字が〈読め〉ないらしい。
「残念だが文字の意味がわからないな。ああそうか、動詞がないからか…」
静水止はやれやれと両手を上げた。
「デスカラ、コレが文字とは、到底思エまセーン」
ホセ君も先ほどと同じ反応である。
「一応、聞きますけど…。これは、水書さんの字が汚いから、ではないんですよね?」
「はぁーん。全然わかんないと思ったら、そういうことね」
「馬鹿な、そんなわけがないだろう!」
和賀宮の質問とサクの無礼な便乗に、水書の顔は真っ赤であった。一応読める側として意見を言うと、すごく綺麗な文字ではないにせよ、全体的に程よく雑で丸みがあって、ザ・若い女の先生みたいな文字だと思う。俺は好きだ。
「もうわかった。読めないなら私が声に出す。次は使役形の動詞だ」
再び、ペンがキュルキュと音を立てる。
『〈見る〉→〈見せる〉』
「見ると見せる、という動詞がある。この二つは別の動詞だが、〈見る〉の使役形〈見させる〉は〈見せる〉とほぼ同じ意味を持つ。この意味のつながりによっても動詞を思い出せるらしい」
俺は最初に自分の部屋を出た時のことを思い出した。あの時は自分では〈動か〉ないドアを、俺が〈動かす〉ことで外に出られたのだった。
「他にも〈出る〉と〈出す〉とか、〈開く〉と〈開ける〉とかがいい例だな」
『〈見る〉・〈見せる〉、〈出る〉・〈出す〉、〈開く〉・〈開ける〉、〈上がる〉・〈上げる〉、〈落ちる〉・〈落とす〉、〈入る〉・〈入れる〉』
ホワイトボードの動詞を水書が〈読み上げる〉たびに、俺たちは次々と動詞を思い出していった。既に見つけた十枚の動詞カードと、安全装置内に入っているカード、それから複合動詞と使役形の動詞たち。ええっとこれで…。だいたい四十個近くの動詞を思い出せただろうか。四十というと結構な数である。もちろんまだまだ少ないのだが、最初の暗闇状態と今の状態とでは雲泥の差がある。
「まだあるぞ。しかもこれが最大の発見だ」
言いながら、ホワイトボード上でペンをせかせかと動かす。
今度は『同音異義』、と読める。その下には『〈いる〉=〈要る〉』とあった。
「同音異義。すなわち、同じ発声の動詞だ。〈いる〉は存在の意味の動詞だが、同じ発声の別の動詞で〈要る〉というものがある。おい宮食、〈要る〉の意味はわかるな?」
「は?アタシ?」
突然の指名に、サクはぽかんと口を開けた。
「〈いる〉の意味って言われても…。あ、〈いる〉ってこと?それなら、コレでしょ」
サクは片手を前に出して、上下とか前後に動かした。ついでに「ちりちりちり~」と謎の声を出す。
「それは〈炒る〉だろう。私が言っているのは〈要る〉だ」
「えぇー?あ、こっちのこと?」
今度は左手を前に出して、右手を後ろに引いて見せた。
「きりきりきり…、ひゅぱ!」同時に右手をパッと開く。
「それは〈射る〉だ。そうじゃないと言っているだろう」
そして水書は一方的に〈怒り〉出した。なんて理不尽で恐ろしい授業だろう。
【怒る】自動詞、ラ行五段活用
「あのう、先生?」俺は控えめに手を上げて言った。
「宮食さんは、字が読めないからわからないんだと思います」
「なんだ、まだ私の板書に文句があるのか」
水書はまた怒り出したが、すぐに〈読む〉の動詞がないことを思い出したらしい。
「あ、そうか。そうならそうと早く言え。私が言いたかったのは〈要る〉、すなわち必要という意味の動詞だ。〈いる〉の同音異義は他にも、鉄の鋳造とかの〈鋳る〉なんてのもあるな」
『いる、要る、炒る、射る、鋳る』
〈いる〉だけでも動詞は五つもある。これは確かに大発見だった。
「他の動詞だと、〈つく〉なんてのもそうだな。〈突く〉、〈着く〉、〈衝く〉…」
音だけだとわからないので、水書はペンと一緒に身体をせかせかと動かした。
すなわち、指を立てて壁の一点を〈突く〉。机にあったライターで床に落ちていた蠟燭に火を〈点ける〉。そして、拳を上げて天を〈衝く〉。
「今のところわかっているのはこれだけだが、他にも何か抜け穴があるかもしれない」
急に動いたせいで、水書の息は上がっていた。運動不足のアラサーである。
「イタズラ犯がカードを出さないのは残念だが…。我々も自力でなんとか思い出せるように考えてみよう」
だがこれで、おぼろげながら希望が見えてきた。すべての動詞を思い出せなくても、とりあえず
「オッケイでス!」
ホセ君が元気よく立ち上がった拍子に、隣の棚からごとん と何かが落ちた。
「ナンデショー?この、ハコ」
それは薄汚れた木製の箱だった。片手で持つにはやや大きいくらいのサイズ感で、上蓋には金色の文字が四つ。カタカナではっきりと、『パンドラ』と読める。
「おい!開けるな!」
そのあまりにも不穏な文字を見て、水書と俺は思わず大声を上げる。が、遅かった。ぱこ と音を立てて蓋が開く。ホセ君は中身を見るなりすさまじい奇声を上げた。
「ワオ!サイコ!これ、動詞カードデス!」
動詞カードと聞いて、その場にいた全員がホセの周りに集まった。もちろん俺も例外ではない。だがそこにあったのは、到底思い出したいとは言えないような動詞たちであった。
――怯える、苦しむ、痛む、死ぬ。
――疑う、盗む、脅す、欺く、襲う、殺す。
それはまさしくパンドラの箱だった。動詞を思い出した途端に、俺はこれまで頭の中でもやもやとしていた感覚や考えが、明確な姿を持って立ち上がるのを感じていた。
俺たちは動詞が消えるという未知の感覚に心底〈怯え〉ていた。それに、さっき足に違和感があるとか言ったけど、今ならわかる。ずっと立ったままのせいで、ひどく足が〈痛む〉のだ。というか無理な動きのせいで、身体じゅうが痛んでいる。痛んで苦しんで怯えている。
「嫌な動詞ばっかりだけど…」
「パンドラ、か。悪趣味だな」
水書が苦々しい顔で言う。
だったら、誰が?
考えられる可能性は一つ。動詞を消した犯人が、この箱を残していったのだ。
箱の一番下には、メッセージカードが一枚入っていた。表と裏に金色の文字がある。
『こんや みんな きえる』
『あさには だれも のこらない』
簡潔だが不気味な文言だ。文字を読めない皆のためにメッセージを読み上げながら、俺は全身にぞわり と鳥肌が立つのを感じていた。
「みんな、きえる?」
それがどんな意味を持つのか、明確にはわからない。だが、それは何らかの犯行予告のように思えた。動詞を消して、俺たちをも消す、ということか?
「でも、安全装置があるんですよね?」
怯えた目で和賀宮は水書を見る。
「ああ。安全装置ある限り、我々が消されることはない。よくわからんが…。この箱といいメッセージカードといい、イタズラ犯はよっぽど我々を脅したいらしいな」
「脅かして反応を見て、それが目的ってこと?」
サクは不快そうに俺たちの顔を見た。いったい誰?と言いたげな目で。
「本当に脅したいだけですかね」
俺は思わず口を開いていた。ふと嫌な考えが頭をよぎったのだ。
「俺たちは今、動詞を消されています。一方でこのメッセージを残した人は、すべての動詞を知っている。つまり俺たちは圧倒的に弱い立場にあるわけです。仮にこの状態で襲われればひとたまりもない。つまり『みんな きえる』とは、動詞ナイザーとは関係なく、俺たちを殺す、という意味かもしれませんよ」
言いながら、馬鹿げた話だとは思っていた。そもそも動機がわからない。別に自分が聖人であるとは思わないが、少なくともこんなふうにして誰かに殺されるいわれはない。だが一方で、こういう可能性もあるわけで…。
「死ぬんですか…私たち…」
「いやいや、そんなわけなくない?単なるイタズラでしょ?」
「オレもこのメッセージはイタズラだと思う。それに、オレたちを一方的に襲うつもりなら、わざわざこんな動詞カードは残さないだろう。動詞を思い出した以上、今やオレたち全員が、誰かを襲える状態なんだぞ。反撃の可能性が生じてしまうだろう」
泣きだした和賀宮に、サクと静水止が言って聞かせる。が、静水止の指摘は不穏だった。
つまり現状、誰もがお互いを疑い、襲える状態にあるのだ。
「ハコ…開けないホガ、良かった?でスか?」
「いや、微妙なラインナップだけど動詞カードもあったわけだ」
「無いよりはマシ、と思いたいけど…」
「じゃ、ケッカオラーイですネ!皆サーン、楽しくイキマショ!」
ホセ君はホホホホホゥ、と明るい声を上げたが、誰も何も言わなかった。
『こんや みんな きえる』。つまり、今夜のうちに何かが起こるのか?そんなはずがないと思いつつも、俺はつい皆を疑いの目で見てしまう。だがそれは俺だけではなかった。ホセ君も、水書も、サクも、静水止も、和賀宮も、誰もがお互いを疑いの目で見ていた。
『あさには だれも のこらない』。
頭の中で、さっき自分が読み上げた声がずっと聞こえていた。
☆これまでの動詞は、五十二個。 (意味別)
※複合動詞は除く
〇存在
ある、いる
〇発生・消滅
生まれる、起きる、起こす、起こる、消す、消える、現れる、残る、とどまる
〇獲得・所有
持つ
〇知覚
感じる、見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わう、見つける、見せる
〇知的行為
思う、考える、知る、望む、わかる、よぎる
〇移動
動く、動かす、歩く
〇位置変化〇
入る、上がる、落ちる、集まる
〇状態変化〇
開ける、引く
〇接触〇
付く、付ける
〇作成
立つ
〇言語行為
読む、言う
〇感情表現
怒る
〇その他(パンドラ)
怯える、苦しむ、痛む、死ぬ、
疑う、盗む、脅す、欺く、襲う、殺す