廊下には誰もいなかった。洗面所にもいない。二つあるトイレも無人である。玄関を見ると、靴箱にはちゃんと六人分の靴があった。となると、やはり三人は二階にいるらしい。
「なンでショ?コレ」
ホセ君の視線の先には紐がある。先っぽには一枚のカードが付いている。それは紛れもなく動詞カードであった。箱に付いた紐を持つ手のシルエットの横に、箱と反対方向の矢印がある。どういう意味だ?
「オほぉ―ウ!〈引く〉ですネ!」
【引く】自動詞、カ行五段活用
元気よくホセ君は紐を引く。
それは本当に一瞬の出来事だった。突如、何か大きな影が目の前をよぎったかと思いきや、ホセ君の頭の上でバァァアン!と派手な音を立てる。
「アアあア!めっちゃ痛いデス!」
ホセ君が引いた紐の先に付いていたのは金だらいだった。古典的バラエティ番組でしか見たことのないヤツだ。ぐわんぐわんと音を立てて動いているその中には、また動詞カードが一枚。
「引いたから、〈落ち〉た、と。明白な道理だな」
水書がぼそりと言った。
【落ちる】自動詞、タ行上一段活用
「これも動詞を消した人の仕業ってことですか」
「だろうな。まったく恐ろしい罠だ」
「ナンチューコトデスか…」
確かにこれが金だらいではなく鉄球とかだったら、普通に頭から大出血…なんて可能性もあったわけだ。それを考えるとこの状況は恐ろしい…のか?いや、だったら何故金だらいなんだ。それとも「これは警告だ」みたいなことなのか?
全然わからなかった。でもこれだけは言える。この家は既に、何者かの作為の中にある。
さて、階段の下に立つと、俺はまたちょっと考えた。ええっと、階段を…上る、か。動詞が一度消えたせいで、新しい動作の度にいちいち考えなければならない。面倒なことこの上ない。
その時また、二階から何か聞こえた。
「何の音だ…?」
それは実に奇妙な音だった。いや、声なのかもしれない。
シュポポポ、シュポポポ…。
何の音なのか見当もつかない。俺はふと、八尺様とかいう化け物の話を思い出した。でかい女の化け物で、ぽぽぽぽとか言いながら田舎を歩いているらしい。確かネット掲示板発のオカルト話だったと思うが、出典がなんだろうと怖い話は怖かった。
「コレも、罠、デしょカ?」
気付くと腕には鳥肌が立っていた。恐怖を感じているのは俺だけではない。能天気なホセ君ですら、血の気の引いた顔で階段の上を見ている。
「おいホセ、お前が先に行け」
水書はそう言ってホセ君を前に立たせた。
「ノンノン。キョージュが前、僕一番ウシロ。シンガリは、一番アブナいデスから」
「バカな。それは撤退戦における話だろう。お前のような奴は尖兵であるべきだ」
「ノンノンノ」
不毛な会話である。このままでは永遠に二階に行けないだろう。
「さっさと行きますよ」
仕方なく俺は先頭に立って階段を上った。もう音は聞こえない。一体何の音だったのかはわからないが、せめて妖怪とかの類ではありませんように。
「ユーレイ…ふむ。ゴストかも、しれないデスね」
ホセ君が小声で言う。余計な一言だ。だが考えてはいけない。俺は無心で一段ずつ上っていく。いつもと同じはずの階段が、ひどく長く感じられる。
二階の廊下にも、誰もいなかった。四つある部屋のドアはいずれも開いていない。それぞれの部屋の入り口の前で、こげ茶色のドアが無愛想な守衛みたいに立っている。ひどく静かで、俺たち三人分の足音以外には何も聞こえなかった。
まずは一番手前にある、静水止の部屋の前に俺たちは立った。内側から音は聞こえない。
「静水止、開けるぞ?」
俺はそう言ってからドアを押す。が、ダメだった。開けられない。ガタガタと音が聞こえるだけで、ドア自体はほとんど動かない。
「鍵か…」
この家の個室のドアには鍵がある。トイレの個室にあるような簡易的なもので、内側から出ないと動かせないタイプだ。ということは、彼は在室中らしい。
「静水止、いるのか?」
返事はない。いるのだろうが、恐らく動詞が消えたせいで何も言えないのだろう。彼には悪いが、今は思い出させる術がない。
「何か聞こえるな…」
先に隣の部屋のドアの前に立っていた水書が小声で言う。隣、つまり階段側から二番目の部屋は、宮食サクの居室である。確かにドアの向こう側からはかすかに何か物音が聞こえていた。
チャクチャクとか、ジョクジョクとか、ちょっと水っぽいような音だ。それからバリバリとかショフショフとか、ひどく荒々しい音。
――何の音だ?
音を聞いて俺の脳内に生じたイメージは、四つ足の巨獣だった。大きな口に、いくつもの鋭い牙。
「サク、いるのか?」
返事はない。一方で奇妙な物音は、ますます大きく聞こえる。
「ミャジキサーン。ダイジョブですネ?ホセデース」
「おい、宮食。開けるぞ」
水書はそう言いながらドアを開けた。今度はあっさりとドアが動く。
俺たちはそこに、異様な光景を見た。
薄暗い部屋の真ん中にサクがいる。樹齢千年以上の大木のようにどっしりと床の上に立っている。背後のベランダからの光で顔はよく見えない。その周りにある棚やテーブルの上には、ちょっと異常な量のお菓子やパンやらおにぎりがあった。
異様なのは、サクの腕の動きである。二本の腕は動きがよく見えないほどの速さで、周りの棚やテーブルの上へと動いていく。赤いジャージの袖はまるで、巨大異星生物の長い触手のようである。そしておにぎりやらお菓子やらを手に持つと、これまた素早く自身の口元に持っていく。逆光で顔全体が影に入っているから、おにぎりやパンは闇の中に消えていくように見える。事実、口元に持っていかれたものは瞬時に消えて、再び現れることはない。消える瞬間には、バリバリとかゴキュリとかギョバギョバとか、およそ二十五歳の女性の口元からはイメージできないような凶悪な音が聞こえていた。
――コイツ、本当にサクなのか?
俺は昔に見た映画を思い出していた。実はサクはもう皮だけで、体中におぞましいエイリアンがいる、とかないよな?俺は何のエージェントでもないし、エイリアンへの対処法なんて何一つ知らなかった。
恐怖で動けない間に、水書は部屋に入って電灯をつけた。パチン。天井からの光で、サクの顔の影がスッと消える。
「宮食?」
水書の声で、サクはようやく俺たちに気付いたらしい。腕を動かしたまま、能面のような表情でこちらを見た。「なにか用?」とでも言いたげな顔だ。だが開けた口は言葉のためではなく、お菓子やパンのためのものだ。俺たちが何と言うべきか考えているうちにも、おにぎり三個、チョコレートスナック十二個、スティックパン4本が口の中に消えていった。
「ミャジキサーン。ホレ、さっさと思い出しテ」
ホセ君が〈言う〉のカードをサクに見せる。彼女はじいっとピクトグラムを見ていたが、やがて口を開いた。今度は言葉が口から聞こえる。
「…何?急に」
ひどく不愛想である。いや、普段からサクは無愛想なのだが、この状況なんだから言うべきことはもっとあるだろう。
「大丈夫か?」
「大丈夫でしょ。見ればわかるじゃん」
そう言われてしまうと、こちらとしてはもう何も言えない。いつもの赤いジャージに、健康的な小麦色の肌。感情に乏しい目のせいで何を考えているのかまったくわからないが、これもいつものことだ。つまり、大丈夫。まあ無事だったなら何よりだ。正直言ってさっき見た時は、人の心まで消えたのかと思った。
「ずっとここにいたのか?」
「いた」
「動詞が消えたってことには気付いたか?」
「全然。別に興味ない」
サクはカードのピクトグラムを見ながら腕を動かしていた。触手のようにシュルシュル腕を動かしては、口元に食べ物を持っていく。今度はカップケーキ七個を連続で。
「ソレ、何だ?」
怪訝そうに水書が聞く。
「何って…〈Q^@W〉るんでしょ」
そう言いながらも、キャラメル二つが口の中に消えた。
「〈Q^@W〉…?ダメだな。わからん」
水書は小さくため息をつく。やはり俺たちの知らない動詞である。なるほど、知らない動詞だからサクの様子が恐ろしい怪物みたいに見えたのだろう。
「何言ってんの?頭おかしいんじゃない」
今度は大粒のぶどうが三粒、シュポポポンッ、とサクの口の中に消えた。
「あ!この音だったのか!」
さっき階段の下で聞こえていたのはこの音である。恐怖を感じた俺がバカみたいだ。
「何が?」
サクはまたぶどうを二粒口に入れる。シュポポンッ。
「ホホホホーゥ!ミャジキサーン!それ、めちゃファニーですネ!」
「え。何、その声…?」
「だから、動詞が消えたって言っただろ。今のはホセ君だけが知っている動詞だ」
「〈0O4〉デース、よ」
「〈0O4〉…?」
シュポポポンッ。ホホホホーゥ。シュポポンッ。ホホーゥ!
静かなシェアハウスの二階で、奇妙な音声の応酬だけが聞こえていた。
三つ目の部屋、すなわち和賀宮ヤスカの部屋も、鍵のせいで開かなかった。何度か押してみたものの、ドアはビクとも動かない。
「ヤスカさん、ドデスカ?元気―ィ?」
「和賀宮、無事か?」
これまた返事はない。音も聞こえない。
「どうせ何も言えないんでしょ。ヤスカ、可哀想」
サクは少しも可哀想でない口調でそう言うと、一足先に水書の部屋の方に歩いて行った。ホセ君も水書も、その後に続く。
「和賀宮。不安だろうけど、大丈夫だからな」
何も言わずに行くのも悪いから、俺はそれだけ言うとみんなの方に歩いて行った。
水書の部屋は真っ暗だった。分厚い遮光カーテンのせいだ。水書が電気をつけると、汚部屋の様子が目に入る。おびただしい数の蔵書、塾とかにあるような巨大なホワイトボード、かびくさい白衣、汚いピンクのセーター。そしてどでかい鳩時計。半月前に俺が見たときよりもひどい有り様だった。
「うわ。きったな」
「ごっついディザスタ。災害級デース」
サクとホセ君の容赦ない苦言が聞こえるなかで、水書と俺は最奥部のデスクを目指した。そこに動詞ナイザーがあったからだ。傍らには動詞カードの箱もある。
水書の方が早かった。俺は足裏に感じる奇妙なねばつきのせいで、うまく足を動かせなかったのだ。デスクの前に立つと彼女はまず、動詞ナイザーのスロットを見た。
「やはり、カードが入っている…」
水書はスロットに入っていたカードを俺に見せた。主語カードだ。水書、石動、和賀宮、静水止、宮食、そして笑原。シェアハウスの住人全員分である。
「こっちは…。えっ。何もない」
俺は思わず声を上げた。動詞カードの箱にはなにも入っていなかったのだ。そして箱のすぐ横には、大量の紙くずが入ったビニール袋があった。まさかとは思うが、これが…動詞カードだった、ってことはないだろうな。シュレッダーに入れたあとみたいに細かい断片だからよくわからないが、昨日見た数百枚のカードと同じくらいの量があるように見える。
「こっちには一枚だけ残っているが…。これでは期待外れもいいところだ」
水書はスロット内に残った一枚の動詞カードを俺に見せた。ピクトグラムは、何人もの人間のシルエット。〈集まる〉だ。
【集まる】自動詞、ラ行五段活用
俺、ホセ君、サクが動詞を思い出している間に、水書は動詞ナイザーに和賀宮と静水止のカードを入れていた。動詞カードさえあれば、遠隔でも思い出させられるらしい。
「よし、これでいい。既に二人は思い出したはずだ」
最低限〈歩く〉と〈開ける〉さえあれば、部屋の鍵を内側から開けてドアを開けられる。俺たちは和賀宮の部屋の前に立って、声を上げた。
「和賀宮、もう大丈夫だぞ!お前はもう歩ける!鍵も開けられる!」
「ヤスカー。ほら、お菓子もあるよー」
サクはスティックパンの袋を持ったまま言うが、そういう問題じゃないと思う。
「フム。まだ歩けなーいデスか?」
「おかしいな。そんなはずはないんだが」
和賀宮は一向に姿を現さなかった。皆がああだこうだ言うせいで室内の音も聞こえないが、何となく人の気配は感じる…ように、思う。まあ正直言ってよくわからないのだが。
その間に、二つ隣の部屋のドアが開いて、静水止が姿を現した。
「おい、何が起こったんだ?」
身長百八十センチはあろうかという長身の青年は、怪訝そうな顔で俺たちを見ていた。白いシャツに濃紺のジーンズ。短い髪には寝癖のあとがある。
「気が付いたら真っ暗で、まったく動けなかった。しかも何も思い出せない。今さっきようやく、歩くことを思い出したところだ」
そう言ってふらふらと歩いているが、危なっかしい。
「水書さんの発明品のせいだ。動詞がぜんぶ消えて…」
「動詞が消える?何を言っているんだ」
俺の説明に、彼は降参というように両手を上げた。まあ無理もない。普通に考えて意味わかんないよな、この状況。
その時、ようやく和賀宮の部屋のドアが内側から開いた。細い隙間から、和賀宮の不安そうな顔が見えている。
「さ、サク?」
か細い声だった。いつもの元気な声からは、ちょっと考えられないくらいに。よほど怖かったのだろう。小動物のように目をきょときょと動かして、周りの様子を必死に見ている。
「あ。ヤスカじゃん」
サクがそう言って顔を見せた途端、和賀宮の目に安堵の色が生じた。一週間ぶりに飼い主を見た子犬のようである。
「こ、怖かった…」
「あー、ほいほい。怖かったね」
サクは実にいい加減な手つきで和賀宮の両肩にぽんぽん と触れた。
「ヨカッたデスね。ハクシュ!ホホホホホゥ!」
「ホセ、うるさい」
水書はぴしゃりと言うと、皆の様子をじいっと見ていた。そう、愁眉を開くのはまだ早い。動詞は未だほとんどが消えたままで思い出せないし、誰が動詞を消したのかもわからない。
その時、水書の部屋から鳩時計の時報が聞こえた。ぺっぷー。
午後八時。事件はまだ、幕を開けたばかりだったのだ。
☆これまでの動詞は、四十一個。 (意味別)
〇存在
ある、いる
〇発生・消滅
生まれる、起きる、起こす、起こる、消す、消える、現れる、残る、とどまる
〇獲得・所有
持つ
〇知覚
感じる、見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わう、見つける、見せる
〇知的行為
思う、考える、知る、望む、わかる、よぎる
〇移動
動く、動かす、歩く
〇位置変化〇
入る、上がる、落ちる、集まる
〇状態変化〇
開ける、引く
〇接触〇
付く、付ける
〇作成
立つ
〇言語行為
読む、言う