だが、立った鳥肌はすぐに消えた。
事件だの犯人だの、これまたずいぶんと大袈裟な話である。
そんな言葉、推理小説とか二時間サスペンスドラマだとか、そんな作品でなければまず聞くことがない。特に犯人なんて単語は現実世界ではまず見ない。実際の刑事事件では、犯人ではなく容疑者や被告が一般的だ。
きっと水書は最近推理小説でも読んで「自分の身近なところで事件とか起きないかなぁ」とかひそかに考えていたのだろう。子どもみたいな人である。
俺が冷ややかな目で見ている間にも、水書はせっせとペンを動かしていた。
『動詞ナイザーを最後に見たのは今朝のことだ。今日はずっとここにいたからな。六時ごろからは誰かがリビングにいたと思うのだが、記憶がない。ホセがいつからここにいるのかも知らない』
(前後不覚、ってことか)
俺はちらりと空のウイスキーボトルを見た。ボトルの容量は720ミリリットル、アルコール度数は43度。水書はそうとう酒に強い方だが、それでも限度はある。
『私の部屋には鍵もない。朝から今までの間、誰でも自由に動詞ナイザーに触れられたわけだな。つまり容疑者はこの家の人間、全員だ。証拠がない以上はお前もだぞ』
(だから俺じゃないですよ)
また、「いいえ」。犯人だの証拠だの、探偵ごっこにはうんざりである。
『冗談だ。犯人が自分の動詞まで消すはずはないからな。お前もそこまでバカではないだろう。』
舌だろうとペンだろうと、水書の毒舌は〈とどまる〉ところを知らないらしい。
【とどまる】自動詞、ラ行五段活用
『そもそも、いま犯人がわかったところで仕方ない。まずは動詞を思い出すことが先決だ。異論はないな?』
「はい」。再び足つぼマットの上に立つ。痛みはもうそれほど感じない。いや、あまりの痛みのせいで、もはや足の感覚自体がないのだ。
『動詞を思い出すのはそれほど難しくない。動詞が書かれたカードを見ればいいだけだ。カードの意味がわかれば自然と動詞を思い出す。お前も昨日その方法で思い出していたじゃないか』
確かに動詞ナイザーのお披露目の後、俺はもう一度カードを見た記憶があった。そうとわかれば話は早い。さっさと動詞を思い出そうじゃないか。
(で、動詞カードはどこにあるんです?)
俺は期待の目で水書を見た。正確には水書の手元、紙ナプキンの上のペン先を。
『動詞カードは、ここにはない』
のろのろと水書のペンが動く。
『主語カードも動詞カードもすべて、動詞ナイザーと同様、私の部屋にあるんだ』
水書の目の奥には何の光もなかった。まるで真冬の夜の海を思わせる暗さである。ここに鏡があれば、きっと俺自身の目も同じように見えたことだろう。
水書の部屋にしかカードがないとすれば、見るのは相当難しい。現状、俺は動くだけだ。しかも複雑な動きは無理。はるか遠い二階の水書の部屋までの道のりなど考えたくもない。
「ホホーゥ!」
絶望的な空気のなかで、背後からホセ君の声が聞こえた。水書の文字を読むのに夢中だったから、俺は彼がいたことをすっかり忘れていたのだった。
『ところでアイツのあの声は一体何なんだ。少なくとも言語ではないと思うのだが、お前知っているか?』
知らない。ゆえに「いいえ」だ。足裏がまた謎のベタベタに触れる。
「ホホーゥ!ホホホーゥ!」
ホセ君の声がまた聞こえる。理由は知らないが、やたらと元気そうである。
『意味はわからないが、なぜか色々な気持ちを感じる。嬉しさとか、爽快感とか。時折不快感も感じるが、全体としてまったく素晴らしい、魅力的な声だ。ホセにあんな芸があったとは…。不思議な気持ちだ。おい、これが恋なのか?』
(そんなわけないだろ)
俺は即座にマットの上に立つ。「いいえ」。すごい芸に見えるのは、きっと俺も水書も、彼だけが知っている動詞を知らないからだ。つまりこれも全部、あんたの動詞ナイザーのせいだよ。
『そうだと思ったのだがな…』
水書は不服そうな様子でホセ君の方を見ていたが、突然ペンを動かした。
『ホセの目線の先を見ろ!動詞カードがある!』
ホセ君は顔全体を激しく動かしながら、床のある一点を見ている。確かにそこには見たことのあるカードがあった。なぜあんな場所にあるのかは知らないが、恐らくあれは動詞カードだろう。
(何の動詞だ?)
ここからだとカードの文字は読めない。いや、文字が見えても、そもそも消えた動詞は読めないのではないか?
『カードの裏側にはピクトグラムがある。特殊な細工で、読めなくても見れば意味がわかるようになっているんだ。そうでないと、動詞を思い出すのに不便だろう?』
水書が得意げにペンを動かした。ピクトグラムとはトイレの入り口にあるマークみたいな、絵だけで意味がわかる記号である。読んではじめて思い出したが、俺も昨日見たのだった。
『我々はあのカードの裏面を見る必要がある。今はとにかく何の動詞だろうと思い出したいからな』
もちろん異論はない。俺は早速両足を動かす。右、左、右。そしてカードがある手前に立つと、黒いインクの文字を見た。
『〈E4〉』
やはり動詞の文字は読めない。裏面のピクトグラムを見なければダメらしい。そのためにはうまくカードを動かさなければならない。
が、これが相当難しい問題だった。
カードを横とか縦に動かすのは簡単だ。だがそれは平面的な動きでしかないため、いくら動かしても常にカードの表面しか見えない。裏を見るには別の動作が必要だ。
カリカリカリ、と水書がペンを動かす音が聞こえる。文章は見えないが、多分『バカ者、早く裏面を見ろ』とかだろう。俺だってわかっている。でもあまりにも難しい。動詞には限りがあるのに、そのなかですべての動作を考えなければならないのだから。
(いや、本当にそうなのか?)
そのとき俺の脳内に、一つの仮説が生まれた。
ある程度の動作については、考える必要がないのではないか?
俺はさっき水書の文章を読んでいたが、その時は別に、文字がきちんと見えるように眼球を細かく動かすとか、文字の意味がわかるように、脳の言語野を動かすとか、そんなことはぜんぜん考えなかったじゃないか。ただ一言、読むという動詞で十分だった。
今だってそうだ。俺はこの瞬間にも生きているが、生きるのに必要な、心臓やら脳とかの動きを考えたことはない。一つ一つが適切に動くことを考えなくても、生きている、だけで十分だ。それだけで勝手に心臓はドクドク動き、脳はぐるぐる(?)動いてくれる。
おそろしく地味な発見である。しかし重要な事実だ。だから俺は細かな動作を考えず、もっとシンプルに考えた。
すなわち、俺は床にあるカードの裏面を見た。
これは大成功だった。途中の細かな動作については、我ながらよくわからなかったものの、結果として裏面のピクトグラムを見られたのだから。
そこにあったのは白黒のシルエットだった。人の顔だ。そして口の横には、突起のある楕円。その中には文字がある。フキダシだ。
つまりこの動詞は…、
――〈言う〉。
【言う】他動詞、ワ行五段活用
「思い出しましたよ!」
嬉々として俺はそう言った。自分の考えたことが声として聞こえることが新鮮だった。もちろん俺の声は水書にもホセ君にも聞こえたようだ。二人の顔を見ればわかる。
こうして俺は、言語行為の基本動詞を思い出したのである。
☆これまでの動詞は、二十七個。 (意味別)
〇存在
ある、いる
〇発生・消滅
生まれる、起きる、起こす、起こる、消す、消える、現れる、残る、とどまる
〇知覚
感じる、見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わう
〇知的行為
思う、考える、知る、望む、わかる
〇移動
動く、動かす
〇作成
立つ
〇言語行為
読む、言う