水書は、キッチンの向かいにあるバーカウンターの前に立っていた。
彼女は何やら一心不乱に手を動かしている。その動きはかなり激しく、ここからでもカリカリと音が聞こえるほどだ。よく見れば、紙ナプキンの上でペンを動かしているのだった。
(…何のために?)
その動きの意味はわからない。だがとにかく俺は、水書のいるキッチンカウンターまで身体を動かした。右足、左足…。さっきと同様、ぎこちなく。
水書の横に立ったとき、俺の鼻は強いアルコールのにおいを嗅いだ。カウンターの上にはウイスキーのボトルとグラスがある。ボトルは既に空っぽだ。俺の記憶だと今朝の時点では、ボトルの中身は満タンだったはずなのに。
(それにしても、芸術的な手の動きだな…)
俺は惚れ惚れとして水書の手元を見ていた。紙ナプキンの上でペンは自由自在に動いている。動いたあとには黒い線が〈残り〉、直線や曲線など、いくつもの美しい模様が生まれる。
【残る】自動詞、ラ行五段活用
(この人にこんな特技があったとは…)
模様にはいくつか類似点があって、なかにはまったく同じ模様も複数あった。シンプルなものもあるし、ひどく複雑なものもある。何よりすごいのは、一つ一つがきわめて抽象的な模様でありながら、それらを見る人の心を動かすという点だ。
俺は今こうして、水書との横に立っていることを誇らしく思った。彼女は素晴らしい芸術家だったのだ。もっと早く知りたかった。
が、そこで俺はふと思い出した。まただ。これは芸術作品なんかじゃない。
(なんだ、文字じゃないか)
そう。ペンの動きの後に生まれるのは文字だ。そして文字には意味がある。あたりまえだ。その意味をわかるには、文字を〈見る〉だけではダメだ。文字を…。そう、〈読む〉必要がある。
【読む】他動詞、マ行五段活用
俺は水書の文字を読んだ。
『おい石動!気付け!石動!こっちを見ろ!おい!クソが!何をぼーっと立ってるんだ!酒のボトルなんてどうでもいいだろ!この文章を読め!早く!』
バカみたいに必死な文章がそこにはあった。いや、この状況で必死なのはもちろんわかるのだが、この文字列を芸術だと思った俺がバカみたいだ。
『やっと読んだか。バカ者が』
水書のペンが動き、新たな文字が生まれた。
(はあ。すみません)
『ついさっきホセの声が聞こえて、起きたらこのザマだ。酒のせいかとも思ったが、すぐにわかった。動詞がないからだ』
(え?やっぱり水書さんの動詞も消えたんですか?)
『どう考えても動詞ナイザーが原因だろう。だが私は動詞を消してない。動詞ナイザーは二階にあるし、私はずっとここにいたんだから。お前、何か知っているか?』
(知らないですよ。俺はてっきり水書さんの仕業かと)
水書はしばらく俺の顔を見ていたが、すぐに激しくペンを動かした。
『読むだけじゃなくて、お前も早く〈T:〉。何を考えているかわからない』
(あ、そうか)
と、俺は思った。心の中で俺がいくら何かを思っていても、見た目には棒立ちのままだから水書には全然わからないのだ。
しかし〈T:〉ってなんだろう。まるで意味がわからない。たぶん俺の知らない動詞なのだろうな。俺がぼーっと立っているのを見て、水書は怪訝そうな顔でペンを動かす。
『お前もしかして、〈TH〉がわからないのか?』
(そうなんですよ。まったく意味が分からない)
『その様子だと、本当にわからないらしいな。学生のくせに情けない。自分の考えもなく、ダラダラと人の本を読んでばかりいるからだ。いつまでも受け身で当事者意識のない愚凡な若者めが』
(はあ。悪かったですね)
『クソ。無能め。クソ。クソ、クソ』
水書はイライラと激しくペンを動かしながら、しばらく何か考えていた。
『わかった。少し効率は悪いが、いい方法がある。お前、〈立つ〉の動詞はわかるな?これから私が〈TH〉文章に対して、「はい」の場合は、そこにある足つぼマットの上に立て。「いいえ」の場合は、キッチンの床にある小汚いマットの上に立て』
(最高にイヤな方法を考えたなぁ)と、俺は思う。
この家の足つぼマットは「キングオブペイン」の名で知られるほどハードなマットなのだ。どれだけ足の皮が分厚い人間でも十秒と立っていられない。それにキッチンのマットの小汚さも相当なもので、さしずめ捕虫機能のないゴキブリホイホイである。裸足の今は絶対に上に立ちたくない。
つまりこの方法、「はい」なら痛み、「いいえ」なら不快感、いずれかの苦しみを味わう必要があるのだ。本当にイヤだったが言葉がない以上、この気持ちを水書にわからせる方法はない。せいぜい虚ろな瞳で水書をじいっと見るくらいのものだ。
『何をぼーっと立ってるんだ。「はい」はまだか?』
…この女、多分わかってるんだろうな。
仕方なく俺は足つぼマットの上に立つ。ああ痛い!途端に足の裏に激痛を感じて、俺は無意識のうちに足を動かす。が、それもまた痛いのだ。
『いいぞ。まずは一つ目だ。動詞を消したのは、お前の仕業か?』
もちろん「いいえ」だ。俺はこれ幸いとマットの上に立った。汚いけど痛いよりマシだ。今度は俺の素足が謎のベタベタやじゃりじゃりに触れる。マシだけど、これもまたひどく不快だった。
『じゃあ、誰だ?何か知っているか?』
これも「いいえ」。
『本当に何も知らないのか?』
本当に知らないから「はい」だろう。再び足つぼマットの上に立つ。ああ痛い痛い!これはもう出血レベルの痛みだ。なんだか水書が拷問吏みたいに見える。現代日本にそんな仕事があるかは知らないが、あればきっと彼女の適職だろう。
『本当に?』
マットに立って、「はい」。だから知らないのだ。いや、本当に痛い!俺の表情を見る水書は明らかに楽しそうだった。生粋のサディストである。俺の苦しみをよそに、水書はしばらく宙を見ながら何か考えていた。
『動詞ナイザーの存在を知っているのは、お前と私だけのはずだ。そして設計上、動詞ナイザーが自分で勝手に動詞を消すはずがない。つまり』
水書はちょっと考えてからペンを動かし、俺の目を見た。
『私とお前以外で、動詞を消したヤツがいる。』
(はあ、なるほど)
水書のコメントを読んではいるが、正直足の痛みのせいでそれどころではなかった。出血とか大丈夫かな。もし傷口があれば汚いマットとのコンボで化膿の危険とかもあるんじゃないだろうか。
『おい、真面目に読め』
(すみません)
理不尽だとは思ったが、俺は大人しく読むことにした。
『理由は知らないが、勝手に動詞を消すなんて恐ろしく身勝手で危険でとんでもない行為だ。これは事件だぞ!犯人は一体誰だ!』
事件。そして犯人。不穏な言葉が紙ナプキンの上に続々と〈現れ〉る。俺は背筋に鳥肌が立つのを感じた。
ふと窓の外を見ると、もう真っ暗だ。時刻は午後七時三十分。長い長い夜が、底のない井戸のような昏い目で、窓の外から俺たちをじっと見ていた。
【現れる】自動詞、ラ行下一段活用
☆これまでの動詞は、二十五個。
〇存在
ある、いる
〇発生・消滅
生まれる、起きる、起こす、起こる、消す、消える、現れる、残る
〇知覚
感じる、見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わう
〇知的行為
思う、考える、知る、望む、わかる
〇移動
動く、動かす
〇作成
立つ
〇言語行為
読む