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第4話 動く。

右足と左足が交互に前へと動く。これで俺の身体全体が前に動く。両足が後ろや左右に動くと、全身もまた左右や後ろに動く。動きはカクカクでポンコツロボといい勝負だが、おかげで部屋のもう半分が見える。ベッドの下までは流石に見えないが、さっきまでの行動を思い出すには十分った。そう、俺はさっきまでベッドの上にいたのだが、何かの理由があってドアの方に動いている途中だったのだ。

(何の理由だったっけ?)

そう考えた時、部屋の外で何か奇妙な音が聞こえた。けたたましいサイレンみたいな音だ。

(いったい何が〈起こ〉っているんだ…?)


【起こる】自動詞、ラ行五段活用


外の様子を見なければ。そう考えるより先に、ドアの方向へと右足と左足が交互に動いていた。部屋は大して広くないから、すぐに身体はドアの前まで動いた。だがここからが問題だ。目の前のドアが邪魔なのである。

(ドアが動けばいいのに…)

ドアと壁との間には、二センチほどの隙間がある。だからドアがもう少し動けば、部屋の外が見える。だが当然、ドアが自分で動くことはない。自動ドアならともかく、コイツは由緒正しき手動ドアだ。古典的な木製ドア。種も仕掛けも鍵もない。まして意志なんてあるわけがない。だったら?

――俺が〈動かす〉までのこと。


【動かす】他動詞、サ行五段活用


俺は手をドアノブの方へと動かした。そして今度は手で、ドアノブを下に動かす。ドアノブを下に動かした後は、手前に動かす。すると、ドア全体が手前に動く。ドアと壁の間に隙間が〈生まれ〉、部屋の外が見える。


【生まれる】自動詞、ラ行下一段活用


(誰もいないのか…)

見たところ、外の光景には何の異常もなかった。俺の部屋の隣は共用リビングである。ドアのそばに誰かがいれば話は早かったのだが、残念ながらここから人の姿は見えない。

そこで俺は再び動く。今度は部屋の外へと。

右足、左足、右足、左足…。交互に動かすうちに何となくだが、うまく動くコツがわかった。どうも、リズムよく動くのが大切らしい。それでもやはり、ぎこちなさは〈残る〉。

恐らく、この動きにふさわしい動詞が他にあるのだと思う。表現として〈動く〉では文章的に奇妙だから、この動き自体をぎこちなく感じるのだろう。

右足、左足、右足、左足…。周りを見たいところだったが、別のことを考えるとうまく動けない。今はとにかくまっすぐ前だけを見るしかないのだ。やっとの思いでリビングルームのカウチソファまで身体を動かしたところで、俺の耳は再び奇妙な音を聞いた。

「オホーゥホホホホォゥ!」

真夏の太陽の光を目で見るのではなく耳で聞けば、多分こんな音が聞こえるのだろう。そのくらい強烈に明るい音だった。あるいは暴力的な楽しさ、凶悪な面白みを感じる。そのくらい凄まじい音が、俺の背後から聞こえていた。

(音?いや、声だ!)

声の主が真後ろにいるのを俺は背中で感じた。

「オホーゥ!ォホホホホォゥ!」

それにしても凄まじい声だ。一体何があったのだろう。声質から声の主の正体はわかっていたが、俺は彼の顔を見るためにぐるりと動いた。その場で右足と左足を微妙に動かすことで、コマのように身体を動かすのである。

「オホアーッ!ホホーゥ!ホホホォゥ!」

ついに、俺は声の主の顔を見た。やはり彼だったか。

「ホホーゥ!ホホホアーッ!」

ホセ笑原が、そこに立っていた。彼もまたシェアハウスの住人である。国籍は不明だが、明るく奔放な性格で、俺たちにとってはムードメーカー的存在である。ホセ君は俺の姿を見ながら、奇妙な様子で顔を動かしていた。

(無事でよかった。しかし一体、何があったんだ?)

俺は内心で思う。だが、思うだけだ。言葉はない。何故なら適切な動詞がないから。

「ホホホゥ!」

ホセ君も「よかった」と思っているのだろうか。また彼の口が動くのが見え、同時に声が聞こえた。だがその意味がわからない。何語だ?スペイン語でも日本語でもポルトガル語でもない。声として聞こえる言葉の意味を知るための動詞は〈聞く〉とか〈わかる〉だけで十分はずだから、これは言語ではないのだろう。ただの意味なき発声だ。

「ホホゥ」

ホセ君はまた、顔全体を動かした。さっきよりも小ぶりで、口から聞こえる音も小さい。

「フホホゥ」

俺はじっとホセ君の顔を見る。動きは随分と細かく、それでいて大胆だ。まるで達人の技とか一種の芸術的表現に見えた。単純な声と顔の動きだけなのに、俺は心が大きく動かされるのを感じていた。なんだか楽しい、嬉しいような気分である。これは一体なんだろう?何か意味があるのか?

そこで俺は、昨日の水書との実験を思い出した。動詞を消した後、水書の動きがまるで達人のように見えたじゃないか。つまり先般からのホセ君の動きは、俺の知らない動詞なのだ。だから動きを見てもよくわからない。

(あっ。じゃあ、ホセ君はすべての動詞を〈知っ〉ているのか?)

そんな思いで俺はホセ君の目を見た。


【知る】他動詞、ラ行五段活用


「ホホッ。フホホッ」 

(…どうも、そうではないらしいな)

ホセ君はその場にじいっと立ったまま、さっきと同様に顔を動かしている。見たところ、彼の動きはそれだけだ。たぶん、顔以外は動かせないのだろう。

思うに、ホセ君もまた俺と同じく、ほとんどの動詞が消えた状態にあるようだ。一方で、俺の知らない動詞を知っているようだが、それは別に言語関連の動詞ではないらしい。つまり俺たちは互いに、相手の思いや考えを知る手段がない状態にある。闇の中の孤独なモナドたち。

「ホホッ…。フホホッ…」

弱弱しい声がホセ君の口から聞こえる。疲労のせいなのか、ホセ君の声は先ほどよりも小さい。

彼が知っている動詞が何なのかはわからないが、とにかくこの声と顔の動きが、相互理解における唯一のヒントである。じっと見ると確かに、声と顔の動きの裏には何かしらの意図があるように思えた。だがやっぱり意味はわからない。

(でも少なくとも、君の状況はよくわかった!)

そんな思いで俺はまた、ホセ君の目を見る。今度はさらに、顔をぎこちなく動かしてみる。これで彼が少しでもわかるといいのだが。

「ォホホホホォゥ!」

ホセ君の口から再び凄まじい声が聞こえた。俺の思いがわかったのか?そうなのか?だが本当のことを知る手段はない。すべては闇の中。

(適切な動詞がなければ、俺たちは永遠にお互いの考えがわからないままなのか…)

絶望的な思いだった。もうダメだ。身体も思うように動かないし、相互理解も無理。これでは無明の闇の中で一人考えていた方がマシだったかもしれない。

そう思ったとき、俺はホセ君が目線を右に動かすのを見た。細かな意味はわからないが、何やら必死な様子である。

「ホホ、ホホーゥ!」

(あっちを見ろ、みたいな意味か?)

ともかく、俺は身体をなんとか動かして、ホセ君の視線の先を見る。

そこには新たな人影があった。と同時に、またホセ君の声が聞こえる。言葉こそないが、今度は意味がよくわかる。俺も同じ気持ちだ。

(ああ、良かった!)

水書教授がそこにいた。


☆これまでの動詞は、二十二個。


〇存在

ある、いる

〇発生・消滅

生まれる、起きる、起こす、起こる、消す、消える

〇知覚

感じる、見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わう

〇知的行為

思う、考える、知る、望む、わかる

〇移動

動く、動かす

〇作成

立つ

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