…そうだった。
再び、真っ暗闇の世界だ。
だが、先ほどよりはずっといい。相変わらず光もにおいも音も味も感触もないが、なぜ俺が無明の闇の中にいるのか、なぜ動詞が無いのかについて、少しは考える材料があるのだから。
しかしまあ、どう考えても動詞ナイザーがこの闇の元凶だろう。
あのクソ忌々しいハリボテマシンのせいで、素敵な動詞たちはほとんど〈消え〉た。あれだけ沢山あったのに…。おかげで俺は、今ここに〈いる〉だけ。闇の中で考えるだけの葦。
【消える】自動詞、ヤ行下一段活用
【いる】自動詞、ア行上一段活用
あーあ。
先ほどまでの記憶の世界は、実に豊かだった。動詞はいくらでもあったから、今のようにうだうだと考える必要もなかった。それに何より、動詞以外の品詞だけでいかにして考えるか、そのこと自体に〈悩む〉必要なんて全然なかったじゃないか。
…あ、〈悩む〉。新たな動詞だ。
【悩む】自動詞、マ行五段活用
やはり先ほど思い出した通り、思考に必要な一通りの動詞はあるようだ。水書のでたらめではなく、安全装置は本当にあったらしい。動詞〈消える〉も消えていないし、昨日の話の内容は正しいと思ってよさそうだった。
つまり、知覚関連の動詞たちも、十分のインターバルの後に思い出せるはずだ。時間の感覚がまるでないからわからないが、そろそろだろうか?いや、まだけっこう先なのか?じりじりともどかしい希望だけがある。
そして――、
その時、俺は〈見た〉。まばゆく美しい、この世界の光を。
…いや正確には、俺の部屋の寒々しいLED電灯の明かりを。
俺は〈聞いた〉。さわやかな風の音を。正確には、俺の部屋の古いエアコンの音を。
俺は〈嗅いだ〉。なんとなく湿っぽくてかび臭い空気のにおいを。
俺の足は〈触れた〉。懐かしき我が居室の、埃っぽいフローリングに。
俺は〈味わった〉。…いや、これは嘘だ。俺の口の中には何の味もなかった。
とにかく、俺はいま全身で世界を〈感じて〉いる。
【見る】他動詞、マ行上一段活用
【聞く】他動詞、カ行五段活用
【嗅ぐ】他動詞、ガ行五段活用
【触れる】自動詞、ラ行下一段活用
【味わう】他動詞、ワ行五段活用
【感じる】自他同形、ザ行上一段活用
ありがとう、そして久しぶり。親愛なるわが五感たちよ。
世界はもはや、単なる闇ではない。
別に美しいわけではないが、無明の暗黒よりはずっとましだ。
さて。
ひとまず周りを見て、俺が今どんな状況にあるのかを考えよう。
まず、どう見てもここは俺の部屋だ。ベッド、段ボール、ゴミ箱。あとは本、マンガ、それから雑誌。なんとなく埃っぽくてかび臭いのは、大量の古本のせいだろう。
じゃあ時間は?時計はどこにも見えない。だが、西側の窓がうっすらと赤いから、夕方なのだろう。今日が五月の中旬ならば、日没時間は午後六時半から七時の間だから…。まあ、現在時刻はおおよそ午後七時と考えていいだろう。
これで大まかな時刻と場所はわかった。午後七時に俺は一人で自分の部屋にいる。この情報だけだと、なんてことのない平和な日常の風景である。
ところが現状は明確な非日常だ。だって動詞がないのだから。つまり、より正確な現状はこう。
動詞が消えた午後七時、俺は一人で自分の部屋にいる。混乱の只中である。
(でも、誰が〈消し〉たんだ?)
考えたがよくわからなかった。水書が消したのか?そうは思わない。だって理由がないからだ。平和を〈望む〉のは良いが、そのために動詞を消しても何の意味もないことを、俺と水書は既にわかっていた。
(いやしかし、あの女なら消しかねないな…。)
これは昨日の実験の延長で、「今度はあらゆる動詞を消したぞ」なんて可能性もある。だが彼女はそこまで破滅的な思考の人間だろうか?
(うーん…。)
これだけではよくわからない。それに、動詞が消える直前のことが思い出せない。何かあったのか?一度に大量の動詞が消えたせいで、俺の頭にはひどい混乱が〈起き〉ていた。
【消す】他動詞、サ行五段活用
【望む】他動詞、マ行五段活用
【起きる】自動詞、カ行上一段活用
考えたり思い出したりするためには、もっとヒントが必要だ。
俺は再び自分の周りを見る。が、どういうわけか視界が狭い。これでは部屋の半分しか見えない。正面にはドア。それを俺は高さ約一七〇センチの目線から見ている。
つまり…、俺はドアの方向に向かって〈立って〉いるのだ。
【立つ】自動詞、タ行五段活用
それだけ。
そう。立っているだけなのだ。だから部屋の半分しか見えない。もっと他の景色を見るためには、なにか別の動詞が必要だった。さほど珍しい動詞ではなかったはずだ。日常的な、ごくありふれた動詞。でも思い出せない。
くそ。忌々しい。このままずっと立ったままなのか?このまま一生、自分の部屋のベッドとゴミ箱とドアを見るだけなのか?立ったまま考えるだけの人生。何を見ても聞いても感じても、その場でじいっと考えるだけ。それは嫌だ。かなり嫌だ。だったら…。
――まず、〈動く〉。
脳裏に突然、一つの動詞が現れた。
(動く?)
考えた途端、思いがけず首が〈動い〉た。視界がゆらりと斜めに〈動き〉、今まで見えなかった左側の壁が見える。
(そうだ、動く、だ!)
【動く】自動詞、カ行五段活用
首が右に動くと、部屋の右側がよく見える。左に動くと、今度は左のものが見える。こんなごく当たり前の事実に、俺の感情は大きく動かされた。
だが後ろは見えない。何故なら人間の首の可動域は百八十度だから。後ろを見るには首の動きだけではダメで、左右の足が動く必要がある。
まずは左足から。左足が前に動く、そのあとすぐに右足も前に動く。
(動く!動くぞ!)
かの有名な天才的機動戦士パイロットのデビュー戦みたいだった。極めてぎこちないが、確かに俺の身体は動いている。
その事実が、いまはとても嬉しい。
☆これまでの動詞は、十八個。(登場順)
考える
思う
ある
思い出す
わかる
消える
いる
悩む
見る
聞く
嗅ぐ
触れる
味わう
感じる
望む
起きる
立つ
動く