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第3話 感じる。

…そうだった。

再び、真っ暗闇の世界だ。

だが、先ほどよりはずっといい。相変わらず光もにおいも音も味も感触もないが、なぜ俺が無明の闇の中にいるのか、なぜ動詞が無いのかについて、少しは考える材料があるのだから。

しかしまあ、どう考えても動詞ナイザーがこの闇の元凶だろう。

あのクソ忌々しいハリボテマシンのせいで、素敵な動詞たちはほとんど〈消え〉た。あれだけ沢山あったのに…。おかげで俺は、今ここに〈いる〉だけ。闇の中で考えるだけの葦。


【消える】自動詞、ヤ行下一段活用

【いる】自動詞、ア行上一段活用


あーあ。

先ほどまでの記憶の世界は、実に豊かだった。動詞はいくらでもあったから、今のようにうだうだと考える必要もなかった。それに何より、動詞以外の品詞だけでいかにして考えるか、そのこと自体に〈悩む〉必要なんて全然なかったじゃないか。

…あ、〈悩む〉。新たな動詞だ。


【悩む】自動詞、マ行五段活用


やはり先ほど思い出した通り、思考に必要な一通りの動詞はあるようだ。水書のでたらめではなく、安全装置は本当にあったらしい。動詞〈消える〉も消えていないし、昨日の話の内容は正しいと思ってよさそうだった。

つまり、知覚関連の動詞たちも、十分のインターバルの後に思い出せるはずだ。時間の感覚がまるでないからわからないが、そろそろだろうか?いや、まだけっこう先なのか?じりじりともどかしい希望だけがある。


そして――、

その時、俺は〈見た〉。まばゆく美しい、この世界の光を。

…いや正確には、俺の部屋の寒々しいLED電灯の明かりを。

俺は〈聞いた〉。さわやかな風の音を。正確には、俺の部屋の古いエアコンの音を。

俺は〈嗅いだ〉。なんとなく湿っぽくてかび臭い空気のにおいを。

俺の足は〈触れた〉。懐かしき我が居室の、埃っぽいフローリングに。

俺は〈味わった〉。…いや、これは嘘だ。俺の口の中には何の味もなかった。

とにかく、俺はいま全身で世界を〈感じて〉いる。


【見る】他動詞、マ行上一段活用

【聞く】他動詞、カ行五段活用

【嗅ぐ】他動詞、ガ行五段活用

【触れる】自動詞、ラ行下一段活用

【味わう】他動詞、ワ行五段活用

【感じる】自他同形、ザ行上一段活用


ありがとう、そして久しぶり。親愛なるわが五感たちよ。

世界はもはや、単なる闇ではない。

別に美しいわけではないが、無明の暗黒よりはずっとましだ。


さて。

ひとまず周りを見て、俺が今どんな状況にあるのかを考えよう。

まず、どう見てもここは俺の部屋だ。ベッド、段ボール、ゴミ箱。あとは本、マンガ、それから雑誌。なんとなく埃っぽくてかび臭いのは、大量の古本のせいだろう。

じゃあ時間は?時計はどこにも見えない。だが、西側の窓がうっすらと赤いから、夕方なのだろう。今日が五月の中旬ならば、日没時間は午後六時半から七時の間だから…。まあ、現在時刻はおおよそ午後七時と考えていいだろう。

これで大まかな時刻と場所はわかった。午後七時に俺は一人で自分の部屋にいる。この情報だけだと、なんてことのない平和な日常の風景である。

ところが現状は明確な非日常だ。だって動詞がないのだから。つまり、より正確な現状はこう。

動詞が消えた午後七時、俺は一人で自分の部屋にいる。混乱の只中である。

(でも、誰が〈消し〉たんだ?)

考えたがよくわからなかった。水書が消したのか?そうは思わない。だって理由がないからだ。平和を〈望む〉のは良いが、そのために動詞を消しても何の意味もないことを、俺と水書は既にわかっていた。

(いやしかし、あの女なら消しかねないな…。)

これは昨日の実験の延長で、「今度はあらゆる動詞を消したぞ」なんて可能性もある。だが彼女はそこまで破滅的な思考の人間だろうか?

(うーん…。)

これだけではよくわからない。それに、動詞が消える直前のことが思い出せない。何かあったのか?一度に大量の動詞が消えたせいで、俺の頭にはひどい混乱が〈起き〉ていた。


【消す】他動詞、サ行五段活用

【望む】他動詞、マ行五段活用

【起きる】自動詞、カ行上一段活用


考えたり思い出したりするためには、もっとヒントが必要だ。

俺は再び自分の周りを見る。が、どういうわけか視界が狭い。これでは部屋の半分しか見えない。正面にはドア。それを俺は高さ約一七〇センチの目線から見ている。

つまり…、俺はドアの方向に向かって〈立って〉いるのだ。


【立つ】自動詞、タ行五段活用


それだけ。

そう。立っているだけなのだ。だから部屋の半分しか見えない。もっと他の景色を見るためには、なにか別の動詞が必要だった。さほど珍しい動詞ではなかったはずだ。日常的な、ごくありふれた動詞。でも思い出せない。

くそ。忌々しい。このままずっと立ったままなのか?このまま一生、自分の部屋のベッドとゴミ箱とドアを見るだけなのか?立ったまま考えるだけの人生。何を見ても聞いても感じても、その場でじいっと考えるだけ。それは嫌だ。かなり嫌だ。だったら…。

――まず、〈動く〉。

脳裏に突然、一つの動詞が現れた。

(動く?)

考えた途端、思いがけず首が〈動い〉た。視界がゆらりと斜めに〈動き〉、今まで見えなかった左側の壁が見える。

(そうだ、動く、だ!)


【動く】自動詞、カ行五段活用


首が右に動くと、部屋の右側がよく見える。左に動くと、今度は左のものが見える。こんなごく当たり前の事実に、俺の感情は大きく動かされた。

だが後ろは見えない。何故なら人間の首の可動域は百八十度だから。後ろを見るには首の動きだけではダメで、左右の足が動く必要がある。

まずは左足から。左足が前に動く、そのあとすぐに右足も前に動く。


(動く!動くぞ!)


かの有名な天才的機動戦士パイロットのデビュー戦みたいだった。極めてぎこちないが、確かに俺の身体は動いている。

その事実が、いまはとても嬉しい。



☆これまでの動詞は、十八個。(登場順)

考える

思う

ある

思い出す

わかる

消える

いる

悩む

見る

聞く

嗅ぐ

触れる

味わう

感じる

望む

起きる

立つ

動く


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