「つまり、この機械を使えば、特定の動詞を消すことができる、と」
「そうだ。かなり悩んだが、私はこのマシンを動詞ナイザーと名付けた。すごくいい名前だろう」
二秒で思いついたクソみたいなネーミングである。
「わかるか?動詞がない状態にするから、ナイザーなんだ」
水書は得意げだった。
たぶん、英語の接尾辞の~izeとかの話をしたいのだろうが、もちろん形容詞「ない」は日本語なわけで、文法的に明らかな誤用。
要はしょうもないオヤジギャグということだ。
「お前はいま、〈QQH〉という動詞を失っている。だから私の〈QQ:〉、という指示を理解できないし、実行することもできない」
この抜け落ちたような違和感はそういうことか。
だがそんな説明で納得する俺ではなかった。
動詞を消す、など簡単に言うが、理屈がぜんぜんわからない。
「どんな仕組みなんです?まさかこのアンテナで脳に干渉するんですか?何か特殊な電波を出して、言語中枢に作用するとか…」
「いや、もっと単純な理屈だ。主語・述語ゲームと同じだよ」
水書は〈主語〉とラベルの貼られた四角い封筒からカードを取り出す。
〈水書〉、〈宮食〉、〈和賀宮〉、〈笑原〉…。
このシェアハウスの住人たちの名前だ。残る一人、俺のカード〈石動〉は、まだマシンにセットされたまま。
「まずはこのカードで、対象を指定する。それから、こっちの…」
今度は、〈動詞〉ラベルの貼られた箱を取り出した。
〈主語〉と比べると圧倒的な量で、パンパンにカードが詰まっている。水書は一枚だけ取り出そうとして、見事に失敗した。箱から飛び出した大量のカードが床に散らばる。
「ああ、あああ…」
慌てて二人で拾い集めるが、どうにも数が多い。拾いながら見てみると、〈挟む〉、〈刺す〉、〈上がる〉とか、基本的な動詞が書かれていた。〈盗む〉、〈殺す〉なんて物騒な札もある。
「まあ、残りは後で拾おう。とにかくこれが動詞のカードだ。消したい動詞を選んで、マシンにセットする」
面倒になったのか、水書は拾うのを中断して話し始めた。
どうせ残りは俺に拾わせる気だろう。彼女は自分で掃除するのを俺は見たことがない。
「そうだな…これにしよう。〈すする〉だ」
そう言って、飲みかけのコーヒーマグを差し出す。
「消す前に一口、コーヒーをすすってみろ。違いがよくわかるだろうから」
マグカップには半分ほど焦げ茶色の液体が入っている。
フチには何か所もの彼女が口を付けたあと。内側には茶渋がびっしりとつき、かなり長い間彼女がカップを洗っていないことが伺えた。
端的に言えば、けっこう汚かったのだ。
「いや…、ええと」
「何をしている。早くすすれ」
仕方なく俺は目をつぶり、かろうじて口を付けていないとみられる場所から一口コーヒーをすすって飲んだ。ぬるい。そして恐ろしく濃くて苦い。彼女の好みはゴリゴリの深煎り、苦みの強いイタリアンローストである。対して俺は大の甘党。コーヒーをブラックで飲むなんて論外で、たっぷりと砂糖とミルクを入れるタイプなのだった。
「よし。その感覚を忘れるなよ。では実験だ。スイッチオン」
再びマシンが駆動して、ランプが光る。俺は意識を集中して変化を感じ取ろうとしたが無駄だった。それなのに、確かに変化は起きている。水書の指示を理解できないのだ。
「もう一度、コーヒーを〈RR;〉」
何を言われているのか、まるで意味が分からない。さっきまで確かにわかっていたはずなのに。俺は呆然として手元の薄汚いコーヒーマグを見つめていた。
「これでよくわかったろう。たった今、動詞ナイザーは、お前から動詞〈K]〉を消したんだ。主語・述語ゲームでは存在しないカードを使って文章は作れない。単純な理屈だろう?」
いやいやいや。まったく説明になっていない。
その言い方ではまるで――、
「まるで、この世界そのものが、主語・述語ゲームみたいじゃないですか」
たっぷり五秒くらいの間があった。
水書は意外そうな顔をして俺を見ている。
「何だ、気が付いていなかったのか?」
彼女は平然とそう言うと、口をぽかんと開けたままの俺の手からコーヒーカップを取り上げた。
「まあ、主語・述語ゲームほど、シンプルなものではないが…。少なくとも私もお前も、このシェアハウスに住む全員は、言語によって構築された世界の住人だ。というより、存在そのものが文章、と言ってもいいだろう」
話しながら、マグカップのふちを指でなぞる。
「だからこそ、動詞を失うことは即ち、行動を制限されることにつながる。お前はさっき言語中枢がどうこうと言っていたが、仮に特定の動詞を言語的に忘れてしまったとしても、その動詞が意味する行為それ自体はできるはずだ。つまり、私の言葉による指示が理解できずとも、動きを見れば理解できるし、同じ動作ができるはずだろう。試してみるか?」
彼女は俺に見えるように、ずずう、と音を立ててコーヒーを…。
…ダメだ。よくわからない。
やはり動詞は消えているらしい。
彼女は素晴らしく洗練された仕草でマグカップに口を付けたあと、無言で俺にカップを差し出した。俺はさっきの動きを思い出して、なんとか自分も同じことをやってみようとする。水書の動きを思い出すんだ。
ええと、さっき水書はずずう と音を立てていた。
単に〈飲む〉のでは、あんな音は出ない。ごくり という音になってしまう。つまりあの動きを再現するには、「ずずう と音を立てて飲む」でいいのか?
いや、違うな。音だけの問題ではないのだ。
なんというか、吸いながらちょっとずつ飲むみたいな動作なのである。つまり…。
――俺はずずう と音を立てて、コーヒーを吸いながらちょっとずつ飲んだ。
「これでどうです?」
「なるほどな。迂回して記述した、というわけか」
水書は感心したように目を見開いた。
「確かに別の動詞を使えば、同じ意味の動作を再現することは可能だ。ではこれならどうだ?」
水書は〈飲む〉と〈吸う〉のカードをセットして、動詞ナイザーのスイッチを入れた。
「さあ、コーヒーを〈K/〉」
水書はまた同じ動きを繰り返した。しかし今度はもう、別の動詞を使って動作を記述することすらできなくなっていた。
水書の動きはただただ芸術的で、俺なんかには到底真似できないほど優美な仕草としか見えなかった。
「素晴らしいだろう。これが動詞ナイザーだ」
水書はニヤニヤしながら、再びカップに唇を付けた。
認めよう。俺は確かにコーヒーを…。〈何とか〉できなくなっていた。言葉だけではなく、その行動もろとも失っていたのだ。
その後、さらに他の動詞についても動詞ナイザーによる実験が行われた。〈折る〉、〈走る〉、〈脱ぐ〉、〈座る〉…。などなど。
それぞれの動詞が消えた時、俺がどんな反応を取ったのかについては、もう語る必要もないだろう。
いずれにせよ、確かにそれらの動詞は消滅し、俺は徐々に行動を制限されていった。
「さて、話を戻そう。平和の実現についてだが…」
水書はソファの上に立っている俺を見上げながら言った。先ほど失った動詞のせいで、俺はソファの適切な使い方を完全に忘れてしまっていたからだ。
「暴力とか窃盗とか、犯罪につながる動詞自体を消し去る…ってことですね」
「その通りだ。流石にここまでやればお前にもわかるか」
〈殴る〉とか〈蹴る〉ことができなければ暴行はできない。〈盗む〉、〈殺す〉もまた然り。なるほど、理屈はよくわかる。だが、その前提について俺はまだ納得していなかった。
「…本当に、俺たちは文章から成る存在なんですか?」
正直、まるで信じられない。というよりも意味が分からない。俺の正体が文章とはどういうことだ。俺は自分の手をまじまじと見つめたが、そこには何の文字も書かれていなかった。それとも、CTスキャンで撮ったら、内臓じゃなくて文字がぎっちり詰まっているのだろうか。大昔に流行った脳内メーカーを俺は思い出した。いや、そんなわけがないだろ。ひどく馬鹿馬鹿しい話だった。
「なんだ、まだ信じていないのか?」
あたりまえだ。特定の行動をとれない原因が、対応する動詞が無いために文章で俺の行動を記述できなくなったから…だなんて、ホイホイと信じられるわけがない。
「もしかして、俺たちは小説とか脚本上の登場人物ってことですか?」
「うーん。いや、それも完全に否定はできないが…。別にそういうわけでもないんだ。あくまでも私たちは文章であって、その中に人格が生じているというか…」
水書はちょっと考えていたが、面倒になったのか適当に締めくくった。
「ま、生きていればそのうちにわかる日も来るだろう。お前はまだ若い」
なんだかいい加減に誤魔化されてしまった。もう少し突っ込んで聞きたかったが、聞くのが怖い気もして、俺は追及しなかった。
それよりも今は、動詞ナイザーの話である。
「ところで、水書さんはいつどうやってこんな妙なマシンを作り上げたんです?」
マシンの原理はともかくとして、水書がこんな凄まじいマシンを開発できるとは到底思えなかった。彼女はあくまでも国語の教師で、休みの日だって部屋に籠って本を読んだり、怪しげな私小説を書いたりしているだけだ。
「実は、製作者は私じゃないんだよ。私はおおまかな設計図と必要な機能を定義して、そのマシンが出てくる小説を書いただけだ」
水書は俺のスマホを奪い取ると、とある小説投稿サイトを開いた。著者名は〈水書イナ〉。『動詞が消えた夜』というタイトルの小説で、いくつかの章が断片的にアップロードされている。序章の書き出しはこうだ。
『私は極めて美しく優秀でかつ心正しい人間であるから、世の中が乱れて愚かな人々が醜く相争う様子に心を痛めていた。どの程度私が美しく優秀かと言えば、それはつまり…(中略)…そこで私は一つのこの上なく素晴らしい解決策を編み出した。人類史上もっとも偉大かつ秀麗な発明品によって、凡愚な人間が犯しうるあらゆる罪や過ちの根源を断つのだ。すなわち、「動詞ナイザー」によって危険な動詞を排除するのである』
おそろしく冗長で傲慢な文章だった。古代の王の偉業を称える石碑みたいだ。
「水書さんが書いたんですか?コレ」
「そうだ。まだ書きかけだが、素晴らしい小説だろう」
これは小説なのかな、と俺は疑問を感じずにはいられない。この後もダラダラと動詞ナイザーの説明、そして水書の偉大さを滔々と説く文章が続く。到底読む気になれず目次ページに戻ると、『最終章(仮)』と書かれた章が目に入った。
『こうして、聡明で美しく比類なき女性である水書によって、世の中に溢れていた罪や苦しみは消え失せ、凡愚な人々はその輝かしい偉業を崇め奉った。女王水書にひれ伏し、女王水書を讃える歌を唱和し、女王水書を記念する石碑を建立し、…』
もう読んでいられなかった。もはや女王になってるじゃないか。
「ストーリーは決めていないが、最終的には全人類が私にひれ伏して私を崇め奉る、という結末にしようと思ってな。精力的に執筆を続けていたところだ」
そこに突然、彼女宛の小包で完成済みのマシンが届いたらしい。
「正直驚いたよ。だが、ペンネームを本名にして、プロフィール欄に住所を書いておいて良かったよ。そうでなければ荷物もファンレターも届かなかっただろうからな」
この女には一切のネットリテラシーがないらしい。
「誰が送ってきたんですか?」
水書はメッセージカードを俺に見せた。
『拝啓 水書さま。先生の小説、興味深く拝読いたしました。当方で先生の設計通り「動詞ナイザー」を製作いたしましたので、お送りします。偉業の実現のためにお役立てください。』
「熱心な私のファンが、勝手に作ってくれたんだろう。ありがたい話だな」
なんだ、ソレは。要は『ドラえもん』を描いていたら本当に猫型ロボットが送られてきた、みたいな話じゃないか。
「同封の説明書をざっと読んでみたが、本当に私が設計した通りのマシンのようだ。だから細かな機能については、いくらでも私に聞いてくれ」
「しかし、この説明書の図と、実際のマシンは全然見た目が違うみたいですが」
説明書にあるのはもっとシンプルな図だった。全貌としては小型のオルゴールのような丸い箱であり、その中に惑星の軌道のような謎の回路が張り巡らされているようだ。現代的で洗練されたデザイン。
「ああ、それは私が、外見部分をかなり改造したからだ」
それは完全に不要なひと手間だったと思ったが、俺は黙って聞いていた。
「午前中にホームセンターに行って、だいたいのパーツを揃えた。ランプとかの電気周りは他の家電から拝借している。アンテナはおもちゃ屋でカッコいいのがあったから、それをつけてみた」
めちゃくちゃな話だ。
「確かにまあ、外見部分は張りぼてだが、機能は本物だぞ。先ほど実演した通り、このマシンは確かに我々の世界の根源原理に作用し、動詞を消してくれる。誰だか知らないが、製作者は相当な技術の持ち主らしいな」
根源原理だとかのやたら大層な話のなかに、水書のくだらない美的センスが入り混じって、もうわけがわからない。頭が痛くなってきた。
気がヘンになりそうなそうな話だったが、一つだけはっきりしていることがあった。
「原理とかはもう、よくわかんないですけど…。動詞ナイザーによる犯罪の撲滅は無理だと思いますよ」
「なぜだ?」
俺は椅子から飛び降りて、動詞が書かれたカードを何枚か拾い上げた。
「例えば、〈殺す〉です。確かに〈殺す〉が無くなれば、首を絞めて〈殺す〉とか、胸を刺して〈殺す〉なんてことは出来なくなる」
俺は手に持っていた〈殺す〉のカードを床に落とし、他に持っていたカードを示す。
「でも、〈刺す〉という動詞が残っている。これがあれば、胸にナイフを〈刺す〉ことは出来ますよね。刺された人は死ぬでしょう。言葉は違うが、結果は〈殺す〉と変わりない」
「そうか。では、〈刺す〉も消したらいいんじゃないか?」
水書は腕を組み、反論する。だがその顔はニヤニヤ笑っていた。
「無駄なことですよ。破壊や切断を意味する動詞は他にいくらでもあります。〈切る〉〈裂く〉、〈潰す〉、〈砕く〉…。挙げていけばキリがない。百歩譲って、仮にそのすべてを消し去ることができたとしましょう。するとどうなりますか?人々は髪を〈切る〉こともできない。チーズも〈裂け〉ないし、茹でたジャガイモも〈潰せ〉ない」
「アイスピックで氷を〈砕く〉こともできないな。ストレートでしか飲めなくなる」
水書は肩をすくめた。コーヒーのほかに、ウイスキーもまた彼女の燃料の一つなのだ。
「あらゆる動詞を消して、戦争や犯罪ごとすべての行為を消してしまう、って話なら別ですけど、本末転倒じゃないですかね」
――いや、待てよ?
自分でそう締めくくった途端、俺は恐ろしいことに気が付いた。もしかしてこのマシン、あらゆる破壊兵器より恐ろしい代物なんじゃないの?
「あのう。もし仮に…仮にですよ?〈生きる〉とか、〈ある〉、〈いる〉とか、存在を意味する動詞を消してしまったら、一体どうなるんです?」
「どうなると思う?」
水書の目の奥底に、冷たい光が宿る。俺は心の底からぞっとした。目の前に〈いる〉水書は消える。この部屋に〈ある〉ソファも消える。あらゆる存在は何一つ〈とどまる〉ことができないし、ここにはもう、何一つ〈残ら〉ない。
――無だ。
怖くなって真顔で黙りこくっていると、水書は優しくおれの肩に触れた。
「安心しろ。そんな悲劇が起きないように、動詞消しマシンには安全装置を仕込んである」
そう言って示された裏側には、カバーの付けられたカードスロットがくっつけられている。
「お前が指摘した、存在を意味する基本動詞、〈ある〉〈いる〉〈とどまる〉〈残す〉〈残る〉だとかは、絶対に消えないようになっている。万が一消されても、瞬時に復元される仕様だ」
絶対に、とか言われると逆に不安になるが、一応対策はされているらしい。ちょっと安心した。
「それと、〈考える〉、〈思う〉、〈知る〉、〈わかる〉、〈望む〉とか、思考に必要な基本動詞も同じく保護してある。お前が〈思う〉ことをやめれば、その瞬間にこの世界は止まってしまうからな。だから心配せずに好きなだけ頭を使え。そして大いに〈悩め〉」
これでも私はけっこう気が回る方なんだよ、とでも言いたげな顔で笑みを浮かべ、水書はコーヒーのお代わりを淹れにキッチンへと歩いて行った。
「あとは…。そうだな、〈見る〉とか〈聞く〉とか、知覚関連にも保険をかけた。消えてから十分経つと自動で復元される仕組みだ」
なんだ、その謎のインターバルは。
「一時的に知覚を遮断するのも悪くない経験だと思ってな。既に何度か試したが、極めて興味深かった。世界への見方が変わる。おい、これは真面目な話だぞ」
「はあ」
「しかしまあ、お前が言った通り、動詞ナイザーを使った偉業の達成は難しいかもしれないな。ファンには申し訳ないが、あの小説はぜんぶ消すことにしよう。まったく残念な話だが、ゼロから書き直しだ」
好きにしてくれ、と思った。でも今度新しく小説を書くときは、もう少しまともな発明品を書いてほしい。
「消す、といえば、動詞ナイザーが消せない動詞がもう一つある。〈消す〉だ。動詞を消すためには当然、〈消す〉の動詞が不可欠だからな。〈消す〉を〈消す〉ことはできない。論理的に矛盾してしまうというわけだ」
ふはははは、と水書は笑っている。
俺には一体何が面白いのか、さっぱりわからなかった。
■■■■
☆本章は回想のため、途中で動詞ナイザーによって消された一部の動詞を除き、すべての動詞が登場する。
なお、動詞ナイザーにセットされた安全装置が復元する動詞は次の通り。
〇存在
ある、いる、とどまる、残す、残る
〇発生・消滅
あらわす、あらわれる、生まれる、起きる、起こす、起こる、消す、なくす
〇知覚
感じる、見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わう
〇知的行為
思う、考える、知る、解く、解ける、望む、よぎる、わかる、悩む