五月だというのに、雪のちらつく妙な天気だった。
こんな日は無理に外出なんてせずに、家の中でゆるりと過ごすに限る。十一時過ぎまで惰眠を貪った後、朝飯とも昼飯ともつかない雑な食事を済ませると、俺はリビングのソファに寝っ転がって、スマホでネット上の記事を読んでいた。
ブログとかレビューとかウェブ小説とか、全部ひっくるめて、俺はネット上の文章が好きだ。本で読むよりも何だか身近な気がする。
多分、本として出版されるものと比較して、ネットに上げられる文章は推敲や校正があまりなされていないからだろう。
ブログなんて大体一発書きだろうし、レビューとかコメントに至っては、文章として破綻しているようなものも少なくない。
モラルをかなぐり捨てた素っ裸みたいな文章もあるし、あとは書かれている事実の真偽とかもちょっと怪しかったりする。ウェブ小説とかになると、作品によってはそれなりに洗練されていたりもするのだけれど、書籍と比較するとやはり詰めが甘い部分がある。
――でも、そういうところが好きだ。
ネットと比べて、書籍として世に出た文章たちは、推敲と校正を経て、よそ行きのキチンとした格好になっている。
「ありのままの私の姿をさらけ出しますよ!」とか謳うエッセー集だって、パンツだけはしっかりと履いているものだ。
別に悪いとは言わないけど、ちょっと距離は感じてしまう。
それは例えば、「裸の付き合いだぜ!」とか言って風呂に誘って来たやつが、いざ一緒に入ってみると股間にガッツリ前貼り付けてた…みたいな話なのだ。
そんな奴とは少なくとも絶対、友達にはなれないだろう。
そんなわけで、俺はネット上の気取らない文章たちを親友のように思っているのだが、最近のお気に入りのメンバーをいくつか紹介しよう。
例えば、いわゆる食レポを書き散らしたブログ「食べたいのが食べたい」。このブログのすごいところは何といっても、写真の掲載が一枚もないところだろう。
スマホ一つで美麗な写真が簡単に撮れてしまう時代に、店の写真も料理の写真も一枚もなく、すべてテキストで飯の話を書き連ねる。
こう聞くと味気ないように思えるが、実際読んでみるとなるほどスゴく、味気たっぷりである。
何というか、目をつぶって飯を食っているような気分になるのだ。飯の見た目は全然想像できないのだが、ごってりしたテキストの情報から味と食感が脳中で勝手に再現される。店の名前や料理名すら書いてない時もあるのだが、読んだだけで食った気になるから問題はない。
あるいは、個人開設のホームページ「笑えばいいと思うよ(笑)」。
とにかく面白いことをやるという趣旨のもと、架空の商品レビューから謎の川柳百連発、オリジナルのビジネスマナー講座とか、毒にも薬にもならない文章を書き散らす。
タイトルから既に滑っているし、内容もわりと普通に滑っているのだが、三年間毎日更新という点で俺はこのサイトを高く評価している。何が作者を突き動かしているのかは知らないが、とにかく異様なほどの熱量でネタを書き散らし続けており、呆れを通り越して感動すら覚える。
書くネタが徹底してくだらない、というのもすごい。
政治とか時事ネタの風刺とかもやらないのだ。あくまでもしょうもないテキストを書き続けるだけ。動画投稿サイトとかに一生かかっても見切れないほどのお笑い動画がある今、テキスト主体の個人サイトで戦うのには限界があるんじゃないかと思わなくもないが、それは言うだけ野暮だろう。
競歩の選手に「走れば早いですよ」とか言うようなものだ。実際、テキストでしかできないお笑いというものもあるのだから。
あとはまあ、小説投稿サイトとか、本だとかウェブ上の連載などのあらゆるコンテンツのレビューをするサイトとか、まあ色々あるのだが…。
――えっ。
いつものようにウェブサイトを巡回していた手が、そこで止まった。毎日読んでいたブログ「中年旅行記」が表示されないのだ。お気に入りに登録していたはずだったのだが、何度アイコンをタップしても読み込まれない。表示された画面には、三桁の数字と例の文言。
『404。お探しのページが見つかりません』
一応何度か更新してみるが、結果は変わらなかった。『お探しのページが見つかりません』。どうやらいつの間にか、俺の親友が一人、ひっそりと姿を消してしまったらしかった。
――衝撃だ。
そう、ネット上の文章たちには一つ致命的な欠点がある。
それは消えてしまうことだ。たったいま目にしたように、毎日ごきげんで読んでたブログが、ある日アクセスしたら突然消えていたり、読みかけてたウェブ小説が跡形もなく消されていたりする。
何の前触れもなく。
いやもちろん、アーカイブされていれば元通り読める場合もあるわけだけど、個人のブログや小説なんてそう残っちゃいない。
一応俺はアーカイブサービスを試してみたが、やはり例のブログは残っていなかった。永遠のお別れ。
なんで消しちゃったんだろうな、とかぼんやり考えながら、俺はスマホを脇に置いて目を閉じた。
アイツは行っちまったのだ。さよならも言わずに。
いや、もちろん俺が勝手に親友と呼んでいただけで、中年旅行記の筆者である熟練ピーラー氏にとって俺は不特定多数の読者の一人に過ぎない。俺も毎日アクセスしてたけど、よく考えてみたら別にコメントとか全然残してないしな。
こんなことになるならもっと応援コメントとか書いとけばよかった。
――あーあ。
最近こんなことばっかりだ。
突如として消えたサイトは今月で既に六件目。俺が好きなブロガーやライターを標的とした連続殺人事件でも起きてるのかと思ってしまうほどに、サイトや記事が次々と消えている。
「ずいぶんと辛気臭い顔だな」
突然呼びかけられて目を開けると、背の高い女が俺の顔を覗き込んでいた。
水書教授だ。手にはいつものコーヒーマグ。このシェアハウスでは最も古参の住人だった。
「何かあったのか?」
彼女の質問を俺は無視する。そして再び目を閉じた。
消えて行った友への黙祷だ。
「何かあったらしいな。どうだ、慰めに一つ、面白い話をしてやろう」
感傷に浸ろうとする俺をよそに、水書は勝手に話し始める。
「お前、主語・述語ゲームを知っているか?」
「え?ああ…え?」
仕方なく俺はソファから起き上がって教授の方を見た。
水書教授というのはあだ名であって、実際の肩書とは異なる。彼女は高校の国語教師だった。
しかし、相変わらず目の覚めるような美人である。加えてスタイルも良い。
いや、いきなりこんな話をすると「これだから男は…」と顔をしかめる人がいるかもしれないが、見ればわかる。
たぶん誰でも彼女に会えば、そのずば抜けたプロポーションが、鮮烈なファーストインプレッションとして脳裏に刻まれるはずだ。
すらりと伸びた脚の優美な曲線と、丸みを帯びた腰つき、しなやかなウエスト、豊かな胸と優美な首筋、ハッキリとした顔立ち。
そして、それらの美点をすべてぶち壊す、謎の染みだらけの汚れた白衣。
内側に着ているセーターも毛玉まみれだし、履いているズボンも擦り切れて色褪せている。
身なりにもう少し気を遣えばいいのに、と思わなくもないが、関心が無いのだろう。
自由に考えて、好き勝手に生きている。
その怪しすぎる風貌ゆえに、彼女は先生ではなく教授と呼ばれているのだった。
いや、こんな由来は本物の教授たちに失礼かもしれないが。
「主語・述語ゲームを知っているか、と聞いたんだ」
水書教授は平然と繰り返し、コーヒーを一口すすった。
「何の話です?」
「言葉を使ったゲームだよ。小学校でやらなかったか?」
「いや、まあ…。知ってますよ、当然」
質問の意図は見えないが、ひとまず俺は答えた。
「『お父さんは、走る。』、みたいなヤツですよね?主語カードと述語カードを組み合わせるヤツ。懐かしいなあ」
そうか、と水書は一つ頷いた。
「ではもう一つ質問だ。お前はこの国の犯罪件数について考えたことはあるか?」
「え?」
質問はもちろん聞こえていたが、当惑せざるを得ない。犯罪件数?
「概してこの国は治安が良いと言われるが、未だ犯罪も多い。少しは考えないのか」
「いや、別に…。そりゃもちろん犯罪が少ないに越したことはないとは思いますが」
「なんだそれは。不届きな奴だな」
「はあ、すみません」
俺は釈然としないまま水書を見た。
別に戦乱を好む狂戦士には見えないが、さりとて世界平和を祈るような人間にも見えない。
美人で優秀だが、何を考えているかわからないマッドサイエンティスト。彼女の見た目を表現するならこんなところだろう。
「でも、俺みたいな小市民はふつう、社会全体の犯罪件数なんて考えませんよ」
「だったらごく身近なことでいいんだ。例えば私がひどく凶暴な人間だと仮定しよう。毎日大した理由もなくお前に殴りかかる。熱々のコーヒーを意味もなくぶちまけたりする」
すごく嫌な仮定だ。
何より嫌なのは、彼女が俺に乱暴狼藉を働くのが、何となく想像できてしまうところだった。たぶん水書は、殴る時もコーヒーをかけるときもにやにや笑っているのだろう。
「毎日が暴力沙汰だ。日々、ケガの数も増えていく。お前はどう思う」
「どうって、もちろん嫌ですよ」
「そうだろう。では、どうやったら私を止められると思う?」
何の話をしているんだ?水書の目をじっと見てみるが、もちろんそこに答えはなかった。
「警察を呼ぶとか…あとは、逃げるとか?」
「なるほど。お前らしい凡愚な発想だな」
水書は目を閉じてずずう、とコーヒーをすすった。見たところ湯気も立っていないしぬるいはずなのだが、彼女はひどい猫舌なのである。
「私はもっと根本的な解決策を思いついたぞ。しかも既に、実行する手筈も整えてある」
「はあ」
そんなにしたり顔で笑みを浮かべられても困る。それに、この人が笑う時はたいてい碌なことが起こらない。嫌な予感がした。
「それがさっきの主語・述語ゲームの話と、何か関係あるんですか?」
「大ありだ。これを見ろ」
水書はコーヒーマグを脇に置くと、テーブルの下からミカン箱ほどの大きさの機械を引きずり出した。
昔のSF漫画にでも出てきそうな見た目だ。
ごつごつしたレジスターみたいな形で、上には赤いアンテナが生えている。前面にはスイッチと、カードを入れるようなスロットが二つ付いていた。
「何ですか、コレ…。って、聞いた方がいいですか?」
てっきり長々とした話が始まるのかと思いきや、彼女はあっさりと首を横に振った。
「いや、まずは使ってみよう。その方が話は早い」
俺が止める間もなく、水書は何やらカードをセットしてスイッチを入れた。途端に機械はうなりを上げ、アンテナ下部のランプが点滅した。
特に何も起こらない。
「石動、そこにあるクッションを〈QQE〉てみろ」
不気味な笑みを浮かべて、水書は俺の横にあるクッションを示した。別になんて事のないクッションだ。この家の住人たちに酷使されているから、少々くたびれてはいるが。
よくわからない指示のままに、俺はクッションを…。あれ?俺はクッションを…。
――どうするんだ?
何かが抜け落ちたような、脱力感にも似た違和感があった。
思わず水書の方を見ると、彼女は見たことがないくらい嬉しそうな顔をしていた。その笑みは邪悪そのものだ。
「どうした。クッションを〈QQ:〉と私は言ったんだ」
「クッションを…、何ですか?」
「〈QQ:〉。〈QQH〉の命令形だ。わからないか?」
わからなかった。
言葉を脳内で反芻することもできない。〈QQ:〉とはどういうことか。何語か。少なくとも英語ではない。いやそもそも言語なのか。それはあまりにも聞き慣れない音の並びだった。
「日本語で言ってくださいよ。俺、語学はからきしダメなんですから」
俺の当惑をよそに、水書は実に満足そうである。
鼻歌など歌いながらコーヒーをすすり、スリッパをはいた長い脚で俺の膝をつついて見せた。
「もちろんこれは日本語だよ。我々がもっとも慣れ親しんだ言語だろう?」
彼女はそう言うと、片手を振り上げてクッションの方に素早く動かした。手がクッションに当たって、ぽふ と音がする。
「これが〈QQH〉。他動詞、カ行五段活用」
何をしたのかよくわからなかった。
まるで達人の技を目の当たりにしているような気分だが、どう考えても水書がやっているのは普通の動作のように思える。手を素早く動かして、クッションに当てただけだ。
それなのに驚くほど洗練されていて、何度も真似しようとしても、微妙に違う動きにしかならない。なんというか、クッションに与える衝撃の度合いが違うのだ。
「いったい、何が起こっているんです?」
俺は怖くなって、すがるような思いで聞いた。
「私はいま――、お前の中から動詞を消したんだよ」
水書はまた一口、ずずう とコーヒーをすすった。
☆本章は回想のため、途中で動詞ナイザーによって消された一部の動詞を除き、すべての動詞が登場します。