暗い。
なんだ、これは。
どうして真っ暗なんだろう?
上も下も、右も左も、前も後ろも真っ暗だ。何もない。
ただひたすらの闇。
ここはどこだ?
それにしても不思議な感覚だった。目がおかしいのではなく、本当に真っ暗である。停電でもない。
だいいち、暗いだけじゃないのだ。ここには少しも音がない。
怖いくらいの無音。それからにおいもないし、暑くも寒くもない。
もちろん酸いも甘いもないし、痛みも柔らかさもない。
一切の感覚がなかった。
いや、感覚どころか、この空間には何もないのだ。
創世の神話以前のような、一条の光すらない状態。
じゃあ俺は神か?
いや、それはおかしい。そんなはずがない。
俺の名前は石動で、年齢は二十四歳。男性。身長百七十二センチ、既往歴はなし。ついでに仕事もない。無職だ。
要は、俺は神でもなんでもなく、ただの一般人なのである。
それじゃ、この状況は何だよ?
無職の一般成人男性と虚無の真っ暗闇。
それとも、もしかしてこれは精神的な話なのか?
俺の将来の希望が何もないから、ここにも光がないのか?
特にあてもなく計画性のない人生だから、真っ暗なのか?
いや、そんなことはない。絶対に。
ここにないのは、ローソクとか太陽とか電灯だとかの物理的な光源でもなく、あるいは俺の将来の希望とかの抽象的な明るさでもなく、もっと別のもの。
恐らくは言語的なものだ。つまり?
――ここには、動詞がない。
そう、ここには動詞がないのだ。
これまでの俺の思考も、名詞とか助詞とか形容詞だとか、すべて動詞以外のものだった。
「暗い」は、形容詞。「なんだ」は助動詞で、連体形活用。「これは」は、指示語「これ」と副助詞「は」。「右も左も」は…。
いや、これではまるで、ひどく退屈な国語の授業みたいだ。
そうじゃない。問題はこまごまとした文法のことじゃなくて、動詞がないことだ。
どうして動詞がないんだろう?
ひどく奇妙だ。
俺という存在には、というか人間全般には、動詞が必要不可欠なはずだろう?だって俺たち人間は「動物」なのだから。
それなのに動詞のことをちょっと考えようとするだけで…。
あれ?
おいおい、〈考える〉だなんて…。
そりゃ、どう〈考え〉ても動詞だろう。
【考える】他動詞、ア行下一段活用。
よかった、動詞があった。
まあ考えてみれば当たり前の話だ。「思考」は考えるという動詞が前提なのだから。
あれ?
「思考」ということはつまり、〈思い〉そして〈考える〉ことじゃないか。
(すると当然、〈思う〉も動詞だよな)と、俺は思った。
【思う】自動詞、ワ行五段活用。
(われ〈思う〉、ゆえに、われ〈あり〉!)
【ある】自動詞、ラ行五段活用 。
素晴らしい。これで動詞は三つ。〈ある〉は存在の意味。〈思う〉と〈考える〉は知的行為の意味だ。
それではこの調子で〈考え〉よう。何故、ここは真っ暗なのか?
理由は恐らく、知覚の意味の動詞がないからだ。具体的にその動詞が何かを考えても…。
ダメだ、全然わからないな。少しも〈思い出せ〉ない。
…おっと、ここでまた一つ、知的行為の動詞だ。
【思い出す】自動詞、サ行五段活用。
いやあ素晴らしい。
この状況において、〈思い出す〉は相当たのもしい動詞だ。
これさえあれば、過去に何があったのかを〈思い出せ〉る。
なぜ動詞がないのか、その理由が〈わかる〉はずだ。
…ここで動詞がまた一つ。さっきと同じく、知的行為の動詞である。
【わかる】自動詞、ラ行下二段活用。
それでは、さっそく思い出そう。
確かあれは、つい昨日の出来事で…。
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これまでの動詞は、五つ。(登場順)
考える
思う
ある
思い出す
わかる
☆基本ルール☆
この小説では、主人公である石動が思い出した動詞のみが文章に登場する。
開始時点では動詞はゼロだが、徐々に石動は動詞を取り戻していく。
なお、初出の動詞は基本的に〈山括弧〉つきで表記される。
例:〈思い出す〉
また、各章の末尾に「思い出した動詞のリスト」を掲載する。