レティ視点に戻ります。
――*――
心地良い微睡の中、遠くで扉をノックする音が響く。
けれど、傷つき疲れ切った身体は泥のように重く、まだ半分夢を結んでいた。
「眠っているみたいだな」
「そうみたいですね」
「一体、何があったやら」
低く落ち着いた声と、人とは異なる高い声。
ふたつの囁き声には、害意も敵意もなく、ただ探るような響きと、心配する気配が宿っている。
「妖精の薬を塗ったので、傷口はほとんど塞がったみたいですね。でも、まだしばらく痛みは続くと思うです」
「ああ。こんなに傷ついて……痛かっただろう」
先程よりも近くなった声。
それと同時に、ひやりとした感触が額を覆う。
「少し熱があるな。怪我の影響か?」
耳元で声が聞こえて、私の意識は一段階浮上する。
頬に張り付いた髪を、指先で優しく剥がしてくれるのを感じて、私は完全に目が覚めた。
「ゆっくり眠ってくれ」
低く優しい声がそう告げて、一人と一匹の気配は遠ざかっていく。
再び静かになった部屋で、私はそっと瞼を開けた。
何か異変があったらすぐに対応できるようにするためだろう、扉が細く開いていて、柔らかな灯りが漏れ出している。
痛みと熱でぼうっとする頭で、いまだ夢見心地だ。それでも、わかったことが一つある。
――アデルさんも、ドラコさんも、私を不審に思いつつも、本当に心配してくれている。
誰かに看病してもらうなんて、いつ以来だろう。人のぬくもりを、私は長らく忘れていた。
そんな二人を、助けてくれた好意を、少しでも疑ってしまうなんて。私の心に、罪悪感の棘がちくりと刺さる。
私は、音を立てないように、静かに息を吸って、ゆっくりと吐いた。
顔を横に向けて、揺れる暖炉の火を眺める。
ぱちぱちと弾けるオレンジ色の光は、本来なら夏が間近のこの季節には必要のないものだ。けれど、水に落ちて私の身体が冷えていたから、点けてくれたのだろう。
だからこそ、アデルさんの気遣いがこの上なくあたたかくて、じわじわと
そうして、それぞれの夜は、緩やかに、穏やかに更けていった――。
*
ギュィィィイ……ギュワァァァ……
翌朝。
いつの間にか眠っていた私を目覚めさせたのは、平和な朝のイメージからは程遠い、奇怪な音だった。
私は急いで身を起こそうとしたが――、
「――っ!」
激しい痛みに襲われ、身を起こすことは出来なかった。
「起きたか。だが、無理に身体を起こすと傷が開くぞ」
「――っ!?」
これまたいつの間にか、部屋に入っていたアデルさんの声に驚いて、私は思わず身体を捻ってしまった。激痛が走り、顔が歪む。
「ほら、言わんこっちゃない。薬を塗るから、大人しくしていろ」
そう言ってアデルさんは、私の背中に手を差し込み、支え起こしてくれた。
……までは良かったのだが。
そのまま彼は、流れるように私の衣服を脱がせようとする。
私は、慌ててアデルさんの手首をがしっと掴んだ。
「ま、ま、待って」
「ん? どうした?」
アデルさんは胸元のボタンに手をかけたまま、驚いたような顔をして止まっている。
そういえばこの服は、私が最初に着ていたものとは違っているが……。
いつの間に、誰が、私を着替えさせたのだろう。そう考えた途端、顔から火が出そうになった。
アデルさんは、眉を寄せ、首を傾げると、ボタンから手を離した。長い黒髪が、肩の横にさらりと流れる。
私は彼の手首から手を離し、自らを守るように両手を胸元に当てた。
「あ、あの、お薬なら自分で塗ります……」
「そうは言っても、君はまだろくに動けないだろう。すぐに終わるから、じっとして――」
「だっ、だめ! やめて、見ないで!」
「なっ……」
その言葉に、アデルさんは困惑したように、思い切り固まった。
その時。
ギョワァァァア!!
再び外から、奇妙な音……というか何かの鳴き声のようなものが聞こえてきた。
先程より近い気がする。
「あ、あの……アデル……バート、さん。これ、一体何の音ですか?」
「ん? ああ、これはエピオルニスという鳥の鳴き声だ。近いな」
アデルさんは、手に持っていた薬をサイドテーブルに置くと、窓に近寄り、カーテンを開けた。白い日差しが差し込んでくる。
私の目が眩んでいる隙に、彼はどうやら窓も開けたらしい。
「ギョワ!」
「おはよう、エピ」
私は目を疑った。
――窓から巨大な鳥が顔を出している。
周囲の木などの感じからすると、この部屋は二階にあると思うのだが、怪鳥はちょこんと窓枠に顔を置いて、大人しくアデルさんに撫でられていた。
「ギュイ?」
「ああ、彼女か? レティシアという名らしい。怪我をしていて動けないんだ」
「ギュウ!」
「こ、こんにちは」
私はエピと呼ばれた怪鳥に、とりあえず挨拶を返した。ドラコと同じように、妖精なのだろうか?
アデルさんは、どうやらこの奇怪な鳴き声を理解して、会話しているようだ。
「ギュワオゥ。ギュ、ギュイイ?」
「え? ああ、確かにそうだが。何故わかった?」
「ギュ、ギュワ」
「ああ、塗り薬が置いてあったからか。だが、何が問題だと?」
「ギュワァァァ!!」
「……っ、は?」
「ギュ! ギュイイ!!」
謎の会話は、エピの怒るような鳴き声によって、終了した。アデルさんは、何故だか顔を真っ赤に染めて固まっている。
「ギュ」
「……そ、そうか。よく考えたら、そうだよな。俺が悪かったよな」
「ギュウ。ギュ、ギュイイ」
エピは、アデルさんが謝ったのを見て、と何やら言葉をかけた。そうして、スン、と顔を背け、その場を去って行った。
そこでようやく、エピの全体像が見えた。首が長く胴体がぼわんとしていて、後ろ姿はダチョウとよく似ている。
だが、どう見てもその大きさは異常だし、人と会話するなんて聞いたことがない。
エピにアデルさんと会話する知能があるのか、それとも、アデルさんには何か特殊な力でもあるのか。
何だか、一気に不思議の国に迷い込んでしまったみたいで、現実感がない。
私がエピの後ろ姿を見送っていると、アデルさんがゆっくりこちらへ振り返る。
ギギギ、と擬音が聞こえてきそうなぎこちない動きだ。耳まで真っ赤である。
「そ、その……さっきは、すまなかった」
「え?」
「エピに指摘されたよ。普通の人間の感覚だと、他の人間、それも異性に肌を見せるのは恥ずかしいこと……なんだよな」
アデルさんの言う『普通の人間の感覚』という言葉に、私は内心首を傾げつつも、首を縦に振る。
「ま、まあ、そうですね……」
「すまない。すっかり忘れていたんだ」
「……わ、忘れてた……?」
「ああ」
普通に考えたら意味のわからない言い訳だ。けれど、顔を真っ赤にして困惑の表情を浮かべたまま、頭を思いっきり下げるアデルさんを見ていたら、なんだか本当に失念していたように思えてならない。
「本当にすまない。俺の考えが至らなかった。姉以外の人間と話したのは子供の頃以来だったし、ごく一部を除いて、妖精たちには『恥ずかしい』とか、そういう感覚がないから……」
「え……そうなんですか? というか、子供の頃以来? 妖精……?」
「ああ。ここには、俺以外の人間は住んでいない」
アデルさんは、そう告げて、下げていた頭を上げる。
――川に落ちて流れ着いたのは、世捨て人とドラゴンの妖精、そして謎の巨鳥の住む、不思議の国でした。
なんだか、頭がクラクラする。現実を脳が受け入れられないのか、急にめまいがした。
「おい、大丈夫か!?」
ベッドの上で、ふらり、とバランスを崩す私を見て、アデルさんは慌ててこちらへ駆け寄った。
彼は、私が倒れる前に背中を支えてくれて、抱きかかえられるような体勢になる。
目の前いっぱいに広がる、心配そうに眉尻を下げている、端正な顔。
芸術品のようなそれが、触れそうなほどに近くにあって、私は思わず息を止めてしまった。
「傷が痛むのか? それとも、熱が上がってきたか? 顔も赤いし……。とにかく、一度寝かせるから、ゆっくり息を吸って……」
私はコクコクと頷き、ゆっくり深呼吸を繰り返したのだった。