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1-2. 知らない記憶



「それで」


 ドラゴンの妖精ドラコに『アデル』と呼ばれていた男性は、私の寝ているベッドの真横まで来て立ち止まった。真紅の瞳で、私をまっすぐに見下ろしている。


「君はなぜ、あんな所に倒れていた? それも、こんな大怪我を負って」

「え? なぜって……えっと……確かトラックに轢かれ――じゃなくて、あれ? なんでだっけ?」

「……とら……? なんだそれは」

「あれ? 私、どうして? あれ?」


 どうやら、記憶が混濁しているらしい。

 大怪我、という言葉に、咄嗟に出てきたのは、私が知らないはずの単語だった。

 脳裏に浮かぶのは、馬もいないのに自走する巨大な鉄の塊。危険を知らせる、頭に響くほど大きなクラクション――。


 だが、そんな乗り物は、この世界に生を受けて十八年、一度も見たことも聞いたこともない……はずだ。


「頭でも打って混乱しているのか? 君はこの近くの川原に倒れていたんだが――」

「そう! 川!」


 川原と言われて、私は突如、気を失う前の自分に何があったかを思い出した。


「そうです、私、川に落ちたんです! 大雨で増水したファブロ川に落ちて」

「――まさか、あの急流を、生身の体で下ってきたとでも? それが真実なら、生きているのが奇跡では?」

「…………その、よく、覚えていなくて」


 私は、そう言って目を逸らし、口をつぐんだ。

 実際、自分でもよくわからないまま次々と浮かんでくる謎の映像と記憶がごっちゃになって、混乱している。


 ――首が痛くなるほど高い建物が立ち並ぶ街。鉄の塊が、道だけではなく、翼を生やして空をも遊泳している。

 アデルさんと同じ黒い髪、しかし彼とは目の色も肌の色も顔の造りも異なる人間が、たくさん。皆、かっちりした服を着て、やたらと急ぎ足で歩いていく――。


「記憶が……なんだか、おかしいの。頭が……」

「……そうか。なら、無理に思い出さなくてもいい」


 アデルさんは、眉をわずかに寄せて、探るように私を見ている。


「とにかく、傷が良くなるまで、このベッドを使っていて構わない。ただし――」


 そこでアデルさんは言葉を切った。そうして、低い声で、脅すように続ける。


「――勝手にこの家から出ることも、外へ連絡を取ろうとすることも許さん。わかったな」


 凄みのある低い声に少し恐怖を感じた私は、ベッドの上で、ただコクコクと頷くことしかできない。

 私が頷いたのを見て、アデルさんは小さく息を吐く。そして、少しだけ柔らかくなった声色で続けた。


「約束を守っている限りは、傷の手当ても、食事や身の回りの世話もしてやる。何かあったらドラコを呼べ。あいつは耳が良いから、名を呼べば来るだろう」


 言いたいことを全て言い切ったのか、アデルさんはそのまま身を翻し、扉の方へ大股で歩いていく。

 扉の前で一度足を止めると、彼は半分だけ、私の方へと顔を向けた。


「ところで……名を聞いていなかったな」

「私は、レティシアです」

「そうか」


 彼は再び私から目を背け、扉を開く。


「ま、待って」


 私は、部屋から出て行こうとする彼を、慌てて引き止めた。彼は、律儀に足を止める。


「あの、あなたは……?」

「……アデルバートだ」


 私に背を向けたまま、彼はつまらなそうに自らの名を告げる。冷たい空気を纏ったまま、今度こそアデルさんは部屋から出て行った。



 静寂が訪れた一人の空間で、私はほうと息を吐く。

 暖炉の熱と光が周囲を照らしてはいるが、部屋の隅には、暗闇がわだかまっている。今は、夜なのだろう。


「……怖そうに見えて、案外、いい人なのかな」


 彼は、倒れていた見知らぬ人間を自宅に運び、治療を施してくれただけではなく、治るまでベッドを貸してくれるという。

 それに、私を無視することなく、話を聞いてくれようとする姿勢も見せてくれた。


「……でも、何のために、私を助けてくれたんだろ。裏があるに違いないわ」


 気になるのは、家から出るな、外と連絡を取るな、という条件だ。きっと、何か理由があるのだろう。

 しかし、その条件さえ守れば、傷が治るまでの生活も保証してくれるという。

 なぜ、見知らぬ人間に、こんなに良くしてくれるのだろうか。


「……もしかして、傷が治ったら身売りされる、とか?」


 それなら、傷を治療したり、身の回りの世話をしてくれることにも、外部と接触を禁ずることにも納得がいく。

 となれば、すぐに何か酷いことをされるということはないだろう。


「うーん……」


 アデルさんの目的が何にせよ。

 少なくとも、今、彼は私を治療しようとする意思を見せてくれている。

 なら、身売りでなくとも、私に不利益が起こるとすれば、傷が完治する頃のはずだ。


 それに、純粋に、傷ついた私を放っておけなくて助けてくれたということだって、もちろん考えられる。

 私の住んでいたファブロ村の人たちだって、倒れている人がいたら、同じようにしたはずだ。

 困っている村人があれば助け合いながら暮らしていて、皆、お節介なぐらい優しかった――あの日、私の秘密を知られるまでは。


 私は村で経験した、嫌なことの数々を思い出して、深くため息を吐く。


「……もし身売りされたって、別にいいか。どうせ帰る所もないんだし」


 私は低く小さく呟いて、再び瞼を閉じる。

 色々と考えを巡らせているうちに、だんだん眠くなってきた。

 私は眠気に抗うことなく、静かに微睡みへ落ちていった。


 ――扉の外で、小さなドラゴンが、水と果物を載せたトレーを持ったまま、聞き耳を立てていたとも知らず。


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