魔族誘拐事件から早一ヶ月が経過した。
事件の首謀者であった等級Bの冒険者、飛剣のバルスが逮捕された騒がしさも既に過去の物。
ゴルザの街はすっかり平穏を取り戻しており、当然中心であった二人──スライム狩りことライト、そしてスライムの魔族であるイデアルもまた元通りの日常を送っていた。
「へい店主! 今日もいい野菜入ってるー?」
「おおイデアルちゃん! 毎日精が出るねぇ!」
「我がしっかりしないとまともな料理が出てこないからな! お、今日も瑞々しいのいっぱいじゃ!」
ある昼下がりにて、軽い挨拶を交わした後、おすすめの野菜を尋ねて買い物を進めていく紫体の魔族。
イデアルは今、すっかり顔馴染みとなった八百屋の店主と気さくに会話しながら、置かれている野菜を慣れた目つきで吟味していた。
その二パターンしかないほど食事に無頓着すぎるライトに憤慨し、ついに自炊を決意したイデアル。
残念ながら育ててくれた青肌の魔族──バトラーの教育に料理はなかったのか。
最初こそ真っ黒に焦がしたり食べられない程度に塩辛さにしてしまったりで苦戦したものの、周りに教えてもらったり夜な夜な自主練を重ねたりと、気付けば人並み程度の料理を作れるようになっていた。
「ただいまー。可愛い我が帰ったぞー……って何事ぉ!?」
そんな調子で同様に店を周って食材を手にし、跳ねる勢いの軽い足取りでボロ小屋へ帰ったイデアル。
今日は何作ろっかな。
せっかく良い野菜が入ったし、
そんな新婚主婦のような心持ちで、新たに設置された扉を開け、中へと入ろうとした瞬間だった。
突如家の中から鳴り響き、イデアルに伝わってきたのは労いではなく甲高い破裂音。
何が起きたと駆け込んだイデアルだったが、音の原因である室内──その中で呆然と固まっている男を目にした途端、大きなため息を吐いてしまう。
「あ、イデアル。お帰り」
「はいただいま……じゃなくて! ライト! さてはお主、
補強された屋根。襲撃に遭う前程度には綺麗さを取り戻したワンルーム。
その隅に置かれた机の前で被っていた、スライムの破片がこびり付いた珍妙な木の仮面を外した赤みがかった茶髪の男。
このボロ小屋の家主たる男──ライトは帰ってきたイデアルに言葉を掛けるも、イデアルはピキリと笑みを張り付かせながら買い物籠を置き、ライトのそばへと近寄っていく。
「なあライト。実験するなら外でやれと、我、前も言わなかったか? ん?」
「……言われました。これで三回目、です。はい」
「そうかぁ、三回かぁ。数は覚えてるのに内容は守ってくれないの、我とっても悲しいなぁ? ん?」
一見窘めているように笑みを浮かべながら、どうしようもないほど怒気を発するイデアル。
怒り心頭といった具合のイデアル。
これはまずいと悟ったライトは、すごすごと椅子から降り、家主の威厳など皆無な姿勢──正座でイデアルのお説教に頭を下げるしかなかった。
「大体お主が言ったんじゃろ? 室内でやると毒やら爆発やらで住めなくなるかもだから気をつけてるって」
「……はい、仰るとおりです。以後気をつけます」
「……はあっ、まあ怪我がなくて何よりじゃ。そら、とっとと片せよ?」
お説教がようやく終わり、安堵の息を零しながら姿勢から解放されたライト。
今の結果をまとめたい気持ちに駆られながらも、これ以上怒らせるのはまずいと、促されるまま散らばった瓶やスライムの残骸の片付けを進めていく。
「で? 今回は何しようとしていたんじゃ?」
「スライムクッション。試作の目処が立ったから軽く調合してみたんだが……何故かこうなった」
買ってきた食材を冷蔵出来る小型の魔動庫にしまいながらイデアルが尋ねると、再び机についたライトは、ペンを動かしながら残念そうに答えた。
「やっぱり弾み粉を入れすぎたかな。いやでも七割程度だと効果すらなかったから、そもそも弾み粉を使うこと自体が間違い……ああわからん!」
「ちなみにじゃが、他には何入れたの?」
「質のいい青スライムに弾み粉、それと固定の魔法薬を一滴に爆発石の粉末を少々──」
「分かった、爆発のせいじゃ。というかなんで入れた?」
挙げられた中で一際頓珍漢な素材に、イデアルは直ぐさま納得しつつ、やれやれと首を横へ振る。
水の中に入れてしばらくすると、大きさに応じた爆発を起こす爆発石。
クッションなんて癒やし道具には結びつかない物騒な代物の混入だが、イデアルはライトが思いついた案を試して失敗するタイプなのをこの一月程度で嫌というほど理解しており、さして驚くことはなかった。
「なあなあ。前から言いたかったんだが、別に作らずとも我がいるんだしそれでよくないか? 言っちゃ悪いが、唯一のスライムの魔族たる我より質感いいスライムなんてこの世にいないと思うぞ?」
「それはそれだよ。自分の力で試し、見つけ出してこその至高。確かにイデアルの体はそれはもう気持ちよかったが、この世にはまだまだ先があるかもしれないからな」
作業を終え、最近はすっかり二人兼用になってしまったベッドの上へと座ったイデアルが少し不満そうに尋ねるが、ライトはばっさりと否定してしまう。
すべては剣の師である爺さんから継いだ、最高の気持ちええとやらを手に入れるため。
夢を託されて以来、独学でスライムの研究を行っていたライトは先日、イデアルクッションという人生一の触り心地に巡り会ってしまった。
柔らかすぎず、硬すぎず。まさに人が求める安らぎを形にしたような感触。
触れれば手にたまらない快感を与え、飛び込めば沈み込むほどの安寧に包んでくれるイデアルクッション。
あの快感を自らの手で再現、そしてそれ以上へと発展させるため。
研究の方向性を薬から物理的な快楽へと変えたライトは、まずはスライムでクッションを作ろうと試みては難航、及び迷走する日々だった。
「自分で振っておいてなんだが、臆面なく褒められるとちょっと照れちゃう。……揉むか?」
「いいのか? なら揉む」
気持ちよかったと。
言葉だけ聞けば少し怪しいが、それでも褒められたので照れくさそうに腕を伸ばすイデアル。
ライトはその手を掴んで軽く揉めば、得も言えぬ快感に作業そっちのけで楽しみながら、次第に眉をひそめてしまう。
「どうすれば、どうすればこれに辿り着ける? やっぱり弾力を保たせるためには生け捕りしかないのか……?」
「怖っ……そういえば、この部屋で生きたのは見たことはないな。案外すぐに思いつきそうなものだが、捕ってはこないのか?」
「魔物を生きたまま持ち込むのは色々と面倒なんだ。何よりスライムは性質上、完全に密閉出来る容器がないと長期の保管は難しくてなぁ」
ライトは揉む手を止めることなく、悩みながらもイデアルの質問に答える。
大前提として、魔物を生きたまま街中へ持ち込むのは重罪とされており、見つかれば逮捕は免れない行為である。
生きた魔物の街へ持ち込むこと。人の生活圏を脅かす許されざる所業であり、見つかればそれはもう厳しく罰されてしまう。
もちろん持ち込む手段はあるが、手続きやら許可やら、面倒な手順を多く踏まなければならないので利用する者は少ない。
生きたスライムは周囲の空気に含まれる水分、魔力などから肉体を構築することが可能な魔物。
そのため値の張る完全な密閉容器でも用いない限り、周囲への安全を保証した管理は難しく、とりわけ申請も通りにくくなっているのだ。
死んだ──正しくは核を失ったスライムの体は弾力を失い、液体として崩れ去ってしまう。
そのため採取は難しく、故にライトは殺す前にスライムを採取するのだが、それでも取れるのは液体でしかなく。
そして冒険者として依頼は確実にこなす責任がないわけではないライトは、意外にもイデアルのような弾力、質感を保ったままの生きたスライムで研究したことはなかった。
「……んー仕方ない。大人しく街へ申請を出して……いや、保管できる容器がないんだよな」
「難儀だなぁ。ま、精々励め。我はお湯沸かして読書タイムじゃ」
サービス時間は終わりだと。
ライトの手を雑に振り払い、立ち上がって鈍い銀色のポッドに水を入れ、コンロで沸かそうとする。
「付かんなぁ。さては魔石切れ……ふむ、残っているな。もしやこいつ、もう逝ったのか?」
カチカチと、着火レバーを回すが火は点かず。
魔石も未だ十分に魔力を含んでいることを確認したイデアルは、諦めずに何度もレバーを回してみるが点くことはない。
先月盗まれたコンロに代わり、急遽調達された安物のコンロ。
見かけからボロい旧式のそれは、古道具屋でそれはもう安く売られていたのでライトが購入した物だ。
そう遠くない未来に壊れるだろうなと、イデアルは買った瞬間にはもう想像してはいた。
それでもまさか一月すら持たないポンコツだとは思わず、ため息を吐くしか出来なかった。
「なあライトー。我、ちゃんとしたコンロ欲しいなー? というかまともなキッチン欲しいなー?」
「キッチンは引っ越さないと無理だなぁ。
「じゃあせめてコンロはな? 頼むよ
上目遣いで、若干媚びの姿勢でコンロをねだるイデアル。
まともな生活基盤が簡素な水道しかないこのボロ小屋において、魔動コンロは最早命を支えると言っても過言ではない。
火がなければ料理の大半が出来ない。料理が出来なければ、例の泥団子もどきが食卓に帰ってくる。故にイデアルは態度とは裏腹に、内心は結構必死だった。
「まあ、コンロは何とかなると思うぞ。去年と同じならそろそろ
「
「隣国ラルシアの大市場を拠点とし、ヴァリオール中を回って商売する一団だよ。道中で手に入れた掘り出し物を目に出来る貴重な機会なんだ」
そういえばと、ライトは思い出したとペンを止めて話していく。
先代コンロと羽ペンはその
「それは何とも面白そうじゃな! 掘り出し物……うんうん、実に心躍る響きよ!」
「そうだな。もしかすれば、容器だって見つかるかもだ」
思う物、思惑は異なれど、二人はいつか来る
「……とりあえず、今日はライター貸してくれ。今からお湯沸かすから」
「……頑張ってくれ」
とはいっても、お湯を沸かすことすら困難な現状に変わりなく。
まともな湯沸かし道具すらないボロ小屋でお湯を沸かすべく、声の調子を沈ませながら手を伸ばしたイデアルに、ライトは安物のライターを手渡した。