騒動終えた北門に、突如空から舞い降りた青肌の魔族。
バトラーと名乗った執事服の彼の登場に、イデアルは顔を恐怖で歪ませてしまっていた。
「あららっ、すっかり怯えちまって。かつては教育係までしていたってのに悲しいねぇ」
怯えた瞳。震える体。言葉はなくとも、乱れた息遣いが彼女の内心を赤裸々に物語る。
ライトがそんな小さな少女を庇うように剣を構える中、バトラーは苦笑いながら、やれやれとばかりに首を振る。
「……逃げろ、逃げてライト。お主だけでも、逃げなければ……」
「そういうわけにはいかない。帰るなら、みんなで──」
「お、内緒話か? 寂しいねぇ、俺も混ぜてくれよ」
逃げろと、背中を掴んで必死に声を出すイデアル。
そんなことは出来ないと、拒もうとしたライトの肩をバトラーは背後から抱き、まるで親友のような気安さで会話に混じろうとしてくる。
「くっ──」
「まあ待てよ。生き急ぐのはガキ共もの特権だがな、少しくらい話そうじゃねえか」
すぐに剣を振るも、その瞬間には肩を抱く青肌の魔族の姿はなく。
バトラーは元の場所へと戻っており、やれやれとばかりに倒れ伏すバルスに腰を下ろした。
ライトは目を離していなかった。それどころか、一切油断したつもりもなかった。
今、自分は一回死んでいた。目の前の魔族がその気ならば、急所のどこだって壊されていた。思考はその事実に遅れて辿り着き、息が乱れ、冷や汗が滴り落ちてしまっていた。
それでも取り乱さないのは、偏に後ろに守るべき人がいるから。
たった数秒で実力差を理解させられたライトに今なお剣を握らせるのは、己が命への執着ではなく、倒れるわけにはいかないとなけなしの矜持でしかなかった。
「どっこいしょ。あーやっぱり空中より地上の椅子の方が楽でいいな、座り心地も快適だ」
「……そいつの死を、黙って見逃すわけにはいかないんだが」
「殺す? ……ああ、そういうね。こんなゴミ、俺にはどうでもいいが、お前達は生かして裁きたいんだろ? 仕方ねえな」
精一杯の虚勢ながら、それでもバトラーへと言葉を絞り出すライト。
バトラーは軽い様子で納得したように頷くと、自身の手から青紫の炎を発し、倒れて呻くバルスの腕の断面へと押し当てる。
けたたましく響く、野太い絶叫。
断面を熱されたバルスの体はびくびくと跳ねるように藻掻こうとするも、座っているバトラーによってそれすら許されず、再び意識を失った。
「これで良し……ったく、うるせえな。命の恩を仇で返すなっての」
「……どういうつもりだ。俺達を殺すんじゃないのか?」
「そいつはお前の選択次第だな。一人死ぬか、全員死ぬかだ」
一応の止血を施すのを見て、バトラーの意図を測りきれずにいるライト。
そんな困惑に対し、バトラーは気安い調子で話しながら、恐怖に呑まれたイデアルを指差した。
「俺はそこのイデアルお嬢さまを殺さなきゃならねえ。理由は……まあ分かるだろ?」
「知らないな。イデアルが死ぬべき理由なんて、俺は一つとして浮かばない」
「言うじゃねえか。知ってか知らずか……まあいい答えだ。嫌いじゃないぜ、そういう青い答えはよ」
ライトは大きく深呼吸してから、震えなく断言する。
剣を握る手に力が入る。逃げたい、倒れたいと弱っていた地面を踏む足の裏に力が戻る。
背後で怯える少女がいる。生き残れば、失ってしまうものがある。
過去など知らない。どんな事情を抱えていようと、ライトが知っているのは出会ってから共に過ごした十数日の彼女だけ。けれどライトにとって、逃げない理由はそれで十分だった。
「俺の目的はイデアルお嬢さまだけ。何も聞かず、何も語らず、この場は何も見なかったで終わりに出来るなら、お前とこいつと奥の二人……合わせて四人は街まで帰れる。どうだ、良心的だろ?」
「断る。お前を倒して全員で帰る。それが俺の答えだ」
「我が儘だなぁ。ま、俺はどっちでも良かったが、お前が決めたなら仕方ねえ。少しだけ遊んでやるから、それで精々思い知りな」
仕方ないと、バトラーは諦めたようにため息を吐いてから、のそりと立ち上がる。
足下のバルスを蹴り飛ばしたバトラーは、尻尾を素早く揺らして足下に円を描き、ライトへ手招きする。
構えることなく自然体。隙だらけだというのに、ライトは踏み込むのを臆してしまう。
目の前の男がしているのは油断ではなく余裕。別に気構えずとも、自分達が動いたのを見た後に動こうが対応出来るという、圧倒的な実力の差でしかないと。
──それでも先に動いたのは、そうするしか道のないライトであった。
「くっ」
「あららっ、中々良い剣筋だ。真っ直ぐ首筋へ、殺しを
初手必殺。不可視の斬撃を飛ばしながら距離を詰め、弾いた瞬間に懐へと潜り込む。
首元目掛け、寸分違えず振るわれた一刀。
並の防御であれば防ぐことすら至難なそれは、青肌の魔族が立てた二本の指によって簡単に弾かれてしまう。
「いいねいいね。人間にしちゃあ結構やってくれる、たまの運動には最適だ」
絶え間なく放たれる連撃。静と動の緩急さえ伴った、予測困難な剣の嵐。
だがバトラーは二本の指でいなし、体を反らし、ふらつくように余裕を崩さず回避し続ける。
攻め続ける傍ら、ライトの胸には焦燥が募ってしまう。
まるで通じないこともそうだが、それ以上に心を蝕むのは目の前の相手が一歩も動いていない事実。
先ほど尻尾で描いた円から出ることなく、こちらの全力に笑みを浮かべる余裕すらある。
攻めているのは自分なのに、追い詰められているのも自分。
覆せない実力の差を見せつけられているかのような、そんな現状に強く歯噛みしながらも、一歩引いて
「鞘なしの抜剣術。……ああ、思い出した。随分経ったが、こんな時代にもまだ残ってんだな──」
剣を下げ、まるでまだ鞘に入っているかのように構えるライト。
たった一瞬、されど戦闘にて致命的な溜め。
だがその姿勢を見たバトラーが追撃することなく、何かを思い出している最中、ライトは勢いよく地を蹴り剣を振り抜いた。
「──なっ」
「第一剣、
それはライトの使う剣の中で、最速にして最も威力ある豪剣。
第一剣、
実戦にて出せる機会は僅か、されど出せば絶対であった勝利の剣。
だがライトの必殺剣は、青肌の魔族は三本の指でによって完全に受け止められてしまう。
「はいおしまいおしまい。……ま、相手が悪かったな。次からは喧嘩を売る相手を選びな」
そのまま蹴り飛ばされ、為す術なく太い木へと叩き付けられるライト。
内に残った息と共に血を吐き出し、全身から力を失いながらずり落ち、地面へと倒れてしまう。
「ラ、ライト……」
「さて、待たせたなお嬢さま。……なんだ、もう折れちまったのか?」
倒れるライトを目にしたイデアルは、顔から生気を失わせ、その場にへたり込んでしまう。
ライトとバトラーの実力差を、例えどんなに奇跡が起きようが、勝ち目なんてないのを誰よりも知っていたのはイデアルだった。
この場における最後の希望。あまりにか細く、けれど守ろうとしてくれた優しい男。
本来ならば自分が前に出るべきだったのを縋ってしまい、その結果無意味に散らせてしまったことで、最早抗う気力などあるはずもなかった。
「……したところで、無意味でしょう」
「……はあっ、相変わらず物分かりが良いな。そういうところ、本当につまらねえ女だよ」
「……頼むバトラー。我は大人しく受け入れるから、だからどうかライトを、この場の者は見逃してほしい……」
「いいぜ。立ち上がらない限り、これ以上の追撃は止めてやる。俺も関係ない、それも強いやつの命を奪うのは気が引けるからな」
どうにもならないと項垂れ、顔を上げることすらなく諦観を口にするイデアル。
そんな折れた少女を前にしたバトラーは、ライトとの戦闘時に見せていた笑みを消し、どうでも良さそうに吐き捨てながら自らの手のひらを翳した。
「最後に一つ。マーリン爺さんはくたばってたよ。寿命か魔力枯渇か、
「そうなのか。そうか……」
「……じゃあな王女様。せめて恨みながら死んでくれ。俺と血筋と運命、貴女を縛っていた全てを」
哀れみの言葉を最後に、バトラーの手に溜まる青紫の炎が激しく揺らめく。
その炎は間もなく放たれる。そうなれば、体は愚か核すらあっという間に燃やし尽くされる。それだけの温度と火力があるのを、イデアルは知っていたしこの瞬間にも感じ取っていた。
心にあるのはどうにもならない無力感と、最後にほんの少しだけ得た安堵だけ。
バトラーは約束を守ってくれる。だから自分が死んでも、ライトは助かってくれるだろう。
助けてくれてありがとう。我はここまでだけど、どうかお主は生きて欲しい。
倒れるライトのこれからを祈り、綺麗に助けてもらえなかったことを謝りながら、炎が放たれるのを待っていた。
「……えっ」
「あららっ、元気そうじゃねえか。いいね、ますます気に入った」
だが炎が出るよりも前に、からんと響いた金属音がイデアルの耳に届く。
目を開ければ、炎を出そうとしていたバトラーの腕に僅かな傷、足下に短剣が転がっている。
その短剣は先ほどまでなかった物。
自分とバトラーの物でない以上、誰かが投げでもしない限りこの場にあるはずのない物。
まさかと、イデアルに希望と絶望の両方が一気に過ぎる。過ぎってしまう。
もしも想像が正しいのなら、立てたのなら無事。けれど立ってしまったのなら、これから待つのは逃れようのない死なのだから。
称賛とばかりに口笛を吹きながら、自分ではない方向に目を向けるバトラー。
イデアルが首を向ければ、そこには彼女の想像とおりの男──敗れたはずのライトがいた。
「ラ、ライト……」
「……めるな。あ、きら、めるなよ……!!」
剣を支えに、口元に赤を垂らし、立っているのもやっとといった様子のライト。
それでもライトは絶え絶えな息で、声にならない細い声で必死に叫ぶ。
生きて欲しいという願い。諦めるなという叱咤。
例え言葉ですらない音にしかならずとも。半端にこの場で掠れ、消えていくだけだとしても。
それでもライトの想いは、イデアルの心を確かに伝わる。
十数日の楽しかった日々が。踏み込まずに優しく接してくれて、命の危機にあってなお手を差し伸べてくれるこの瞬間が。イデアルの枯れた魂に、再び生きたいと意志を灯らせた。
「ま、起きちまったもんはしゃーねえな。残念だがここで……あん?」
仕方がないと、バトラーは残念そうな顔で手のひらをライトへ向ける。
最早動かぬ少女よりも、死に体ながらも未だ目に闘志を宿した人間の戦士を侮ることなく。
そうして目を離した一瞬だった。イデアルが懐から笛を取り出し、思いっきり吹いてみせたのは。
「……なんだよ。しっかり叫べるじゃねえか」
鳴り響く、高く澄んだ笛の音。
それを聴いたバトラーが、イデアルの金の笛を目にして目を見開いた──その瞬間だった。
バトラーの寸前に迫ったライトの剣。
振るわれた剣を連続を回避し、そのまま先ほどの円の中に飛び退いた彼は、頬に付いた切り傷を手で撫でる。
再びイデアルを背に、守るように立って剣を構えるライト。
だが立ち上がったイデアルは、まるでライトの庇護を断るとばかりに隣へと並んでみせた。
「俺だけじゃ勝てない。いけるか、イデアル」
「やるとも。我はもう諦めたくない。お主と帰って、明日を生きたい……!!」
イデアルは全身に魔力を滾らせ、紫色の魔力を漂わせながら覚悟を言葉にする。
構える二人にもう震えはない。真っ直ぐ、恐れることなく目の前の強敵を見つめ、どう倒すかだけを考えていた。
「あららっ、二人仲良く吹き返したか。いいね、それでこそ若者って感じだな!」
そんな二人に、愉しげな笑みを浮かべながら炎を噴出するバトラー。
青紫の業火。受ければ肉片すら残らない、地獄よりも過酷な炎。
そんな炎を前にイデアルは一歩前に立つと、体を大きく広げて迫る炎を全て呑み込んでしまう。
「お返しじゃ。如何にお主とて、自分の炎なら効くじゃろう?」
バトラーの炎にイデアルの魔力を掛け合わせた紫炎の魔力。
イデアルの、スライムの魔族が持つ特性は吸収による性質の獲得によるものだ。
炎を吸収を吸収すれば炎を。
水を吸収すれば水を。
他者の魔法、魔力を吸収すればそれと同等の性質を。
細かな条件があり、永久とはいかず、この瞬間のみ持てる仮初めでしかない。
それでもイデアルはバトラーの放つ紫炎を我が物にし、使用者以上の耐性を会得していた。
阻もうとする如何なるものを呑み込み溶かさんと迸る、イデアルの魔力放出がバトラーへ迫る。
腕に魔力を集め、振るって炎を薙ぎ払うバトラー。
直後、イデアルの炎の合間をくぐり、目前へと迫っていたライトの剣を紙一重で回避する。
「いいねいいね! つまらねえ終わりだと想っていたが、こんなサプライズがあるとはっ!! あの笛か!? それとも
バトラーは歓喜を浮かべながら、ライトの連撃を避け続ける。
刮目すべきは段々と上がる速度。つい先ほどまで二本の指に防がれていたはずの剣速は、いつしか片腕を使わせるに至り、浅くも傷を付け始めるほど。
戦闘の最中の覚醒であろうと、あまりに非現実的な成長速度。
バトラーは戦闘の最中、片手間の思考を回し、二人の帯びる魔力によってすぐさま答えへと辿り着く。
「これも躱すか!! いいぜ、ならちゃんとしたモンくれてやるよっ!!」
だがこの場の愉悦に理屈など、どうでもよく。
バトラーは喜々として衝撃を放ち、ライトが怯んだ瞬間、自らを円を出ながら空へと舞う。
「我が名はバトラー! 始まりにて魔王たるロードレスに仕え、果てを見届ける契約を交した
名乗りと宣告を詠唱に。
青肌の魔族は天高く。人の及ばぬ領域へ翼を広げ、大きな魔法陣を空へと描かれる。
精巧且つ複雑な魔法陣。人を越える魔族によって編まれた、人が彼方にて忘却した魔法災害。
炎は球に。周囲に熱を奔らせ、雨の跡は気体へ変わり、空へ巨大な天球が現れ出でる。
古代魔法、
十二の悪魔のみが住むとされた
「イデアルッ!!」
「跳ぶんじゃっ!! 我が必ず届かせるっ!!」
炎の天球が落ち始めたのと同時に、ライトは助走をつけて跳び上がる。
イデアルは自らを伸ばし、ライトの全身を包み込む。
先ほどバトラーの炎を吸収し、少しの間熱耐性を会得していたイデアルの体は保護膜に。
そして魔力を噴出し、自らをライトの踏む足場に変えながら、炎熱地獄と化した空を突き進む。
「うおぉッ!!」
最後の前進をイデアルに委ね、ライトは構えた剣を全霊を以て振り抜いた。
第一剣、
「あららっ、やるじゃねえの。こんな所で終わりとは、老いと油断ってのは怖いもんだ」
斬られた後、僅かに口角を緩ませながらバトラーは地に墜ちる。
イデアルの調整で優しく着地したライトは、鉛の塊でも背負っているような重い体を引き摺りながら、蹲るバトラーの下まで近づき切っ先を向ける。
「どうした? 早くとどめを刺せよ。獲物を前に舌なめずりは三下の特権だぜ?」
バトラーの、痛みを堪えながらの挑発にライトは剣を上げ、振り下ろす。
けれど刃がバトラーを斬り捨てることはなく、彼のそばを通るだけで、息の根を絶つことはなかった。
「よく言うよ。途中から殺気なんてなくて、勝つ気なんてなかったくせに」
「……あららっ、見抜いてんなら汲んでくれよな冒険者。綺麗に退場してやろうと気遣いが、これじゃまったくもって締まらねえじゃねえか」
渋い顔で指摘しながら、戦いは終わりだと、緩慢に剣を収めるライト。
傷に苦しむ様子から一転、バトラーは飄々としながら「よっこいせ」と言って立ち上がる。腕と翼を落とした者の態度にしてはあまりに軽く、けれど戦闘の意志はもうなかった。
「気付いてたんなら平和的に解決して欲しかったな。まったく、酷いやつだぜ」
「腕と翼は俺達の狙ったけじめだ。本当の致命傷だったら、あんたは避けられただろう?」
「かもな。しかしそんな目するってことは……さてはお嬢さまも気付いてやがったな」
「……分かるに決まってるでしょ。バトラーが本気でやってたら、こんな程度じゃ済まないよ」
イデアルの力ない指摘に、バトラーはやれやれと首を振りながら肩をすくめてしまう。
「ま、手加減したつもりはないぜ。最後はちょっと楽しみすぎたが……ま、過ぎたことはいいさ。何百年ぶりってくらいには楽しかったからな」
バトラーは自らの腕の、そして翼の断面を焼きながらも、痛みの声や表情を見せることなくそう話した。
「苦難の果てに逃げ延びて、
「……うん。我も」
「そうかい。それならマーリン爺さんも浮かばれるってもんだ」
バトラーはどこか遠く──雨が上がり、雲の晴れた空を仰ぎながら納得したように頷く。
数秒後、切り替えたバトラーは残った手で空をなぞると、空間は歪み大きな穴が開いてしまう。
それは転移門。バトラーはあまりに簡単に出したが、転移魔法と呼ばれる古代の魔法。
星詠みと同じく、人、魔族の両方において忘れ去られて久しい魔法。人の住まう本大陸においては、実在の証明にさえ長い歴史を費やされた、大した学のないライトでさえ一目で出鱈目と驚嘆するほどの魔法であった。
「んじゃまあ帰るわ。油断して落とした腕と翼と引き替えに、確実に始末したって伝えておくから安心してくれ」
「……治さないのか?」
「斬っておいて訊くのかよ。……まあお嬢さまの門出だ、記念にこのままにしておくわ。それによ、けじめってのはそういうもんだろ?」
バトラーはひらひらと、着られた腕と翼を動かしながらにやりと笑いながら転移門へ向かっていく。
だがバトラーは、何かを思い出したように足を止め、振り返ってライトの目を真っ直ぐと見つめる。
「そうだ人間の剣士。名前は?」
「ライトだ。願わくば、二度と再戦がないことを願うよ」
「正直だな。ならライト、お嬢さまを頼むぜ?」
げんなりと、心の底からそう零すライト。
バトラーはそんなライトを軽く笑ってから、頼み事を口にして姿勢を正す。
「ではさらばです。今後は何にも縛られる事なき人生を。かつての教育係として、ロードレスを失った王女様のこれからを心より願っております」
「……うん、バトラーも元気で」
始まりと同じく一礼し、バトラーは今度こそ門の中へと消えていく。
門は閉じ、元通りの空中へと戻った周囲。
激しい戦闘があったとは思えない静けさの中、ライトは糸の切れた人形のように地面へと倒れ込んでしまう。
「ラ、ライト!? ライト……!?」
「すう、すうっ……」
「……何じゃ驚かせないでくれ。まったく、お騒がせな騎士様め」
顔が地面へ激突する寸前、間一髪とばかりに抱き留めるイデアル。
重さに負けじと支えながら呼びかけると、返事の代わりに返ってきたのは安らかな寝息で、胸を撫で下ろすと同時に呆れのため息を吐いてしまう。
「……ありがとう。お主のおかげで、我はまだ生きていられるよ」
イデアルは鳥の囀りにも負けるほど小さな、誰にも聞こえぬように呟きながら頬を撫でる。
どんな形であれ、死闘を乗り越えた勝者を讃えるように。
命を賭してまで助けてくれた、変わり者の騎士様を慈しむように。
二人だけの時間は、しばらく経って他の冒険者が駆け寄ってくるまで続いた。
魔大陸。
ひび割れた赤い大地。太陽を隠す厚い灰雲。所々に轟く稲妻音の中で、転移門は開かれる。
門の中から出てきた青肌の魔族──バトラーは、降り立ってから音を鳴らして首を解していった。
「やれやれ。あんなガキ二人に傷をつけられるとは。お前の娘は強く育ったな、ラルナ」
斬られた腕を見つめながら、彼が思い出すのはある女について。
自身の命が尽きると理解していながら五人目の子を産み、死に際で自分に代わり見守って欲しいと契約を結ばせた強かな女の顔。
悪魔は記憶を欠けさせない。彼女の声も姿も、死に様さえが今なお記憶から離れはしない。
故に仕舞う。役割を終えた記憶と契約を、頭の中にある引き出しへ。
彼女の最後の娘の成長と、魔王の娘としての死を以て区切りをし、優しく丁重に収めるために。
「しかし勇者の剣技にスライムの魔族が交わるとは。それにあの笛……ははっ、相変わらずお節介だな。とっくの昔に名と神格を失ったってのに、慈悲深き女神様よ?」
憎くも懐かしむように悪態をつき、にやりと笑みを浮かべながら空へと昇る。
バトラーの飛行に翼は必要ない。十全の頃より多少速度は劣るが、実のところそれだけだった。
「さあてどう報告すっかな。何時になっても面倒だぜ、ガキのお守りってのはよ」
軽くため息を吐いてから、笑みを抑え、苦い役目を果たした執事の顔をしながら帰路に就く。
始まりから終わりまで。
全ての魔王に仕え、一族の終わりを見届けるべくこの世に縛られた悪魔は、魔大陸の空を飛び去った。