歓楽街ゴルザ、町外れに建てられた一軒の家がある。
家というにはあまりに小さく、小屋と呼ぶには少々趣きある、言ってしまえばただのボロ小屋。
蜘蛛の巣が張った天井隅、二日に一回虫が出る程度に空いた穴。
目立つ物と言えば棚へ丁寧に並べられた無数の瓶。そして硬いベッドの上へ乱雑に置かれた本、粗雑な紙の束くらいだろか。
「んん、じいや……ごはん……」
そんなベッドに寝かされていた、紫色の少女が呻きながらも目を覚ます。
寝惚け眼を擦り、ゆっくりと体を起こし、辺りを見回しながら現状に首を傾げてしまう。
確か自分は、道端で眠っていた所を誰かに起こされたと。
そしてその誰かと会話し、その最中に力尽きてしまったはずだと。
「しかし随分と小汚い……ひっ!?」
「ん、ようやく起きたか。存外深く眠っていたな、そのまま死ぬのかと思ったよ」
周囲を観察していたスライムの魔族は、薄暗い室内ながら、目に入ってしまった棚に戦いてしまう。
無数に置かれた瓶。その中にあるのは、様々な色の半液体。
一見ただの薬や食材に見えなくもないが、それでもスライムである魔族の少女は本能的に察してしまう。
──あれらは魔族と魔物で異なれど、
「ん、ようやく起きたか。存外深く眠っていたな、そのまま死ぬのかと思ったよ」
「んひぃ!」
寝惚け眼の彼女に声を掛けるのは、古ぼけた机で蝋燭の火を灯りに何かを記載していた男。
ライト。スライムの魔族とはいえ、少女の姿をした者をこんなボロ小屋に運んだ張本人である。
淡々とした、特別力の入っていない日常の合間にある声色。
だが突然の声掛け、そして目にしていた光景による想起により、魔族の少女は直ぐさま人からまん丸のスライムへと姿を変えてしまっていた。
『た、食べる気か!? 自慢じゃないが、我は美味しくないと思うぞ!?』
「?? まあ起きたのなら飯にしよう。生憎豪勢ではないが、美味くはないが文句をつけるなよ」
まるで繭、或いは壁のように姿を変え、必死に己のまずさを説く紫のスライム。
そんなスライムにライトは小さく首を傾げつつも、態度自体はあまりに気にすることなく、すぐに椅子から立ち上がって食事の用意を進めていく。
鈍い鉄色のポッドが置かれた小型の魔動コンロを起動し、湯を沸かし。
その後、色様々な半液体の飾られた棚とは別の小さい棚から、皿と丸薬のような取り出して戻る。
やがてポッドが音を上げると、沸いたお湯を欠けたカップを注ぎ、魔族の前へと差し出した。
「出来たぞ。机がないのは我慢してくれ」
『……こ、これは?』
「
魔族の少女に出されたのは、泥団子みたいな、凡そ人の食べ物とは思えない何か。
元いた椅子に座り直したライトは、その何かを躊躇いなく口へと放り、顔色変えずに咀嚼していく。
提供主が先に食べたことで、魔族の少女はどうにかそれを食べ物と認識出来はした。
特別臭いがあるわけでもないのい、本能が食べるのを拒否してくる泥団子もどき。
こんなボロ小屋に住みながら、それでも助けてくれた恩人の提供してくれた食べ物。それを突っぱねることは出来ないと、意を決した魔族の少女は、スライムから人の形に戻ってから口へと放り込む。
「……まずっ、何じゃこのあらゆる物混ぜた味で泥みたいな食感は。本当に食べ物なの?」
「我慢してくれ。生憎だが、客をもてなす用意など一つとしてないんだ。」
「……じゃろうなぁ」
「ああそれと、涙を流すならこれに入れてくれ。貴重なサンプルになる」
「じゃろう……きもっ!? 何言ってるんじゃお主!?」
じゃりじゃりと、まさしく泥のような感触に顔を歪め、涙すら流そうとした魔族の少女。
そんな少女にライトは慰めではなく、細長いガラスの試験管を差し出したので、少女はどん引きしながらお湯と一緒に団子を一気に喉へと流し込んだ。
「……ごちそうさま。食わせてもらって悪いんじゃが、二度と食べたくないな」
「だろうな。さて
「ちょい待ち。その魔族呼び、不穏で不快なんでやめて欲しい。我にはイデアルという立派な名前があるんじゃぞ?」
「……イデアルか。俺はライトだ、よろしく」
今更ながらに自己紹介をし合う二人。
魔族の少女──イデアルは、気さくに差し出された手に若干顔を強ばらせ、数回躊躇ってからやっとの思いで握手を交す。
イデアルからライトへの印象は既に、この一瞬の会話と泥団子もどきのせいで、恩人であるにもかかわらず印象は最悪になっていた。
「さて、それじゃあイデアル。頼みがあるんだが、お前の体をくれないか?」
「……へ、直球すぎるじゃろ!? さてはお主、ド級の変態か!?」
「違う。対価の請求だ」
あまりに直球すぎる申し出に、イデアルは一瞬遅れてしまった身を仰け反らせる。
少女の見かけにそぐわぬくらい声を荒げ、自身を抱きしめるが、ライトはそんな彼女の様子をさして反応することなく立ち上がり、側に置かれていた短剣と瓶を手に取りイデアルへと近寄った。
「す、するなとは言わんがせめて優しく……って、なんで短剣!? 待て待て、よさぬかライトよ! まさかのスプラッタがご趣味なアブノーマル!?」
「?? 対価をくれと言ったはずだ。お前の体、つまりスライムの一部を提供して欲しいと」
初めての夜を覚悟する生娘の態度から一変、殺害予告でもされたみたいに動揺し出すイデアル。
そんな彼女に、ライトは何だとばかりに首を傾げ、困惑を露わにしてしまう。
数秒訪れる沈黙。その後ようやくイデアルは気付く、己が今大いなる勘違いをしていたということに。
「あ、ああーそういう……い、いやー、ここベッドだしもっとアダルティな意味かなーと……」
「……ああ、そういう。言い回しが悪かったな。性的興味は微塵もないから、そこは安心してくれ」
「即答!? そこまで断言されると、それはそれで女としてショックなんじゃが!?」
露骨に顔を逸らし、口笛まで吹き始めるイデアル。
そんな様子を前にしたライトは、初めは困惑していたものの、すぐに納得したのか頭を下げる。
勘違いで良かったのか、それはそれで落ち込まなくてはならないのか。
どちらとも言えないとばかりな微妙な顔をしたイデアルだったが、仕方ないとばかりにライトが手に持っていた瓶を腕を伸ばして奪い、そのまま半分満ちるほどの体を垂れ落とした。
「……うん、本当に綺麗だ。鮮やかな紫もさることながら、これほどまでに純度の高いスライムは初めて……どうした?」
「い、一応我の一部なのでな? 人で言えば剥けた皮とか爪とかを褒められているようで……一言で言えばとても恥ずかしいです、はい」
「……なるほど、そういうものか。配慮に欠けていたな、ごめんなさい」
瓶を受け取り、栓を閉めてからうっとりと鑑賞し出すライト。
初めて買ってもらったおもちゃで遊ぶような、そんな歓喜に満ちた顔を前にイデアルは頬をほのかに赤く染めながら説明すると、少し申し訳なさそうに目を逸らして机へと置いた。
「ああ、後はもう好きにしていいぞ。一宿一飯の対価としてはこれで十分、夜が明けたら出ていくといい」
「ああどうも。しかし好きにしろと言われてもなー? 一スライムとしてこの部屋は居心地最悪というか、食われる前の調理場みたいというか……って、もう聞いてないなお主!?」
採取が終わればもう用はないと。
ライトはそう言わんばかりに机に向かい直し、瓶を眺めながら黙々とペンを走らせ始める。
かり、かり、かりかりと。
置き去りにされたイデアルは、どうしたものかとベッドの上をゴロゴロしようとするが狭くてそれすら叶わず。
仕方がないと軽く跳ねてベッドから降り、薄っぺらいシーツで体を隠しながら、作業に勤しんでいるライトの下へと近寄って覗き込んだ。
「なんじゃ読めん。読めんがこれは……スライムについてか?」
少し汚くも、丁寧に纏められた無数の記録用紙。
イデアルにはそれが読めなかったが、添えられた図解や今までの言動から内容を、そして目の前の男の熱を察してしまう。
このライトという男は興味本位などではなく、本気でスライムについて調べている者なのだと。
「……なあお主、どうしてスライムを集めているんじゃ?」
「ん、探しているんだ。かつて剣の師が夢と語った、最高の気持ちええというやつを」
「最高の……気持ちええ……? 何それ……?」
見事なものだと、紙を一枚手に取りながら尋ねてみたイデアル。
そこでようやく近寄っていたことに気付いたのか、ライトはそれでも手を止めることなくおもむろにそう話し始めた。
「師は言った。この世のどこかにいるとされる最高のスライムを探せ。そしてそいつを自らで育て上げれば、この世のどんな快感や幸福をも勝る最高の気持ちええを手中に収められる。どうか自らの夢を引き継いでくれ、と」
「なるほど……師の夢を継いで、か。……誰かの望みのために生きるというのは虚しくならないか?」
「最初はそうだったかもしれない。けれど既に俺の興味と趣味だ。初めてから知ったのだが、スライム探求は奥が深いからな」
ことりとペンを置き、そちらへは向かずとも少し微笑むライト。
淡々とだが熱が込められた語り。声変わりした男の声ながら幼気な少年のように話すライトの横顔に、イデアルはちょっとだけドキリと胸を弾ませてしまう。
厳密にはライトの剣の師──つまり爺さんはそこまで強く言っていないのだが、まあ多少の曖昧さは幼少期の思い出故に仕方ない。どうせ似たようなものだろう。
「ほ、ほーん? しかし最高のスライム……もしかして、我か?」
「さあな。……あっ、ちなみに今のは聞かなかったことにしてくれ。
イデアルの冗談めいた軽口に笑みを浮かべたライトは突然固まってしまい、思い出したように訂正しようとする。
幼馴染に言っちゃいけないのだから、きっと誰にも言っちゃいけないのだろうと。
別にそう言われたわけでもないけれど、爺さんと交した約束についてライトはそう解釈していた。
「しかし困ったなぁ。我は素寒貧の一文無し故、捨てられたら路上生活。野垂れ死ぬのがオチなんだがなぁ」
「そうかお疲れ。明日から頑張れよ」
「薄情! もう少しないの!? 我、こんなにもか弱い美少女なのに!?」
「魔族は人以上に外見で歳を判断してはいけない。常識だろ?」
チラチラと、イデアルはどこかに助けてくれる者はいないかと、机に向かう男へと視線を向ける。
しかしライトは一瞥もせず、何ら動揺すらせずに、淡泊に常識を以て反論していく。
どれほど伸びても百を超えるかどうか。
そんな短い人の寿命を優に凌駕し、加齢による変化の薄い魔族を見かけ通りの年齢と判断するのは間違いであり、同時に失礼にも繋がるのは最低常識である。
故郷の村には一人とていなかったけれど、ゴルザの街にて交流する機会のあったライトはそれを強く理解している。子供と侮らずに対応するのは、それ故の判断だった。
「あーあ。我、このまま放逐されて死んじゃうんじゃろうなー。薄情なスライム変人に弄ばれた挙げ句、飽きたらポイなんじゃろうなー。」
「……酷い言いがかり、そもそも不用心だろ。仮にもここ、一人暮らしの男の家だぞ?」
「これでも我、見る目はある……あったはずじゃ。少なくとも、無理矢理やるなら寝ている間に十等分くらいには切り分けてる。そうじゃろう?」
少し沈みながらも、確信を持ってはっきりと口に出したイデアル。
そんな言葉にライトはようやく今まで動かしていたペンを止め、顔をイデアルの方へと向けた。
ライトの目に映るイデアルの見かけは、やはり自分よりも幼い少女でしかない。
けれど今の言葉に宿っていた重み。黄金の瞳から感じられる、他とは異なる存在の大きさ。
垣間見えた覇気にも近いそれには、歳云々では測れない何かを感じずにはいられなかった。
「……ほんと、いくつなんだか。研究に協力してくれるなら、その間は滞在してもいいぞ?」
「我、贅沢に三食昼寝付きがいいなー? あ、あと綺麗な一人用ベッドや個室も──」
「やっぱりこの話はなかったことに」
「あー待て待て、待つのじゃ! 冗談冗談! 我、この部屋すっごい気に入ったなー! 素敵すぎて永住したいくらいだなー!」
「それはそれで困る。すまないが、やっぱこの話はなかったことに」
「じゃあどうしろってんじゃ! ……はあっ、はあっ」
息を絶え絶えするほどに、それはそれは目まぐるしくリアクションを取ったイデアル。
そんな感情表現豊かな少女にライトは優しさのこもった目を向けて、彼女へと手を伸ばした。
「それじゃあよろしく、イデアル。互いに利になる同棲にしよう」
「……まったく。我の手を取った責任取れよ、ライト?」
やれやれと、首を振りながらも。
にやりと笑みを浮かべたイデアルは、ライトの手と交してぶんぶんと振りまくる。
ひんやりと冷たい手。これがスライムとの握手なのかと、ライトは初めての体験に少しだけ感動していた。
「……ちなみにじゃが、食事はずっとあの泥団子もどきじゃないよね……?」
「流石に普通のを用意するよ。……本当だぞ?」