『のう小僧。お前はスライムっちゅう生き物を知ってるかァ?』
歳は覚えていないが、確か十を迎えた頃だっただろうか。
子供の頃、剣を教えてくれていた近所の爺さんがそんなことを言ってきたのを覚えている。
俺と幼馴染に剣を教えてくれていた爺さん。
髪は少なく、残りわずかな毛も白く、肩とかも杖を離さないほど猫背な爺さん。
村に合わないほど達者な剣の腕ながら、性格故に変わり者として若干距離を置かれていた爺さんは、ちょうど幼馴染のいない日の素振りの最中にそんなことを尋ねてきた。
スライム。
それは最弱であり、同時に最強ともされる魔物。
一番弱いミニスライムであれば子供が棒一つで倒せる最弱なのに対し、歴史上では国一つさえ一夜にして呑み込んでしまった個体もいるほどの魔物だ。
多くの子どもはこう言ってのける。スライムなんて俺でも倒せると。
けれど多くの大人はこう言って聞かせる。スライムを舐めてはいけないと。
『最弱ゥ? 最強ゥ? 呵呵っ! そんな水準で測ってるうちはまだまだ青いだけ小僧よォ』
知っていることを素直に答えたのだが、爺さんは何が面白いのかにやけ顔で笑い飛ばしてしまう。
自分から聞いておいてと。
いつも通りながら掴みきれず、けれどもやっぱりむかつきはする爺さんの態度に、話を切り上げて素振りに戻ろうとしたのだが、爺さんはいつの間にか座っていた大岩から目の前まで移動してこちらを覗き込んできた。
『スライムはなァ、最高に気持ちええ魔物じゃよォ』
気持ちいい。
突然迫ってきた顔に驚きながらも、爺さんが強い熱を宿した目をこちらへ向け、自慢げに語ったその一言に、俺はつい首を傾げてしまう。
『スライムはええぞォ? 柔く、瑞々しく、張りがある、まさに至高の魔物よ。揉んでよし、飛び込んでよし、抜き差しすればまさに絶頂。まさに
杖を持たぬ手を空に伸ばし、まるで何かを揉むように手を動かす爺さん。
正直言っていることの意味がわからず、理解は置き去りにされてしまってはいたのだが。
爺さんはそんな俺を気にすることなく、拳を握りしめながら、聞いたこともないような話を力説していくので、否が応でも耳に入ってしまっていた。
『わっしも若い頃は随分と助けられたわ。体も心も命さえも……結局生涯独り身だったわっしにとって、あいつは掛け値なしの最高だったもんさァ』
もの寂しそうながら笑みを浮かべ、思い出に耽るような語り草。
いつもは過去なんて一切語らない、剣の腕と適当さ以外は謎しかない爺さんの顔は、今なお不思議と覚えているほどだ。
『のう小僧。お前にはわっしの夢をくれてやろう。剣の才は嬢ちゃんよりもずっと下じゃが、だからこそわっしの辿り着かなかった果てを託してやろォ』
爺さんは真っ直ぐに俺を見つめ、真面目な目と声色でそう言ってきた。
『この世のどこかにおるはずの最高のスライム。そいつを手に入れ、自らの相棒と育て上げェ。そうすりゃお主はいつかこの世界で一番の、お主の想像なんて超えちまう最高の気持ちええを体感出来るはずじゃよォ』
この世界で一番で、想像を遥かに超えちまう気持ちええ。
そんな甘美な響きを聞いた俺は、ごくりと唾を飲んでしまう。
美味しいご飯や湯浴み、一日の終わりの床について眠りに落ちるその刹那の間。
そんな自分が想像出来る、体験したことのある気持ちいいを遥かに超えるのだと、爺さんは断言したのだから。
爺さんの願いに、幼い俺はこくりと頷いてしまう。
決してその場しのぎで首を振ったわけではない。
爺さんの言葉に唆された。本当はそうかもしれないが、それでも間違いなく自分の意思で頷いた。
──爺さんの言うこの世で一番気持ちええを味わってみたい、と。
『そうかそうかァ。ならわっしも安心じゃなァ』
爺さんは俺の返事を聞いて、満足そうに俺の頭に手を置き、わしゃわしゃと撫で回してきた。
父の大きな手とは違う、硬くも痩せ細った冷たい手。その手の動きは爺さんが飽きるまで延々と続いた。
『ちなみによォ。今の話、あん嬢ちゃんには内緒にせェ? これは
誰もいないのに、何故かひそひそと小声で話しながら小指を差し出してくる爺さん。
俺は何故言ってはならないのか不思議に思いながらも、頷いてから指切りげんまんを交わした。
それが思い出せる、爺さんの最期の言葉。
爺さんが亡くなったのは、この数日後のだったはずだ。
焼かれる前の爺さんの死に顔は、それはそれは安らかそうな、心地よい夢を見ているようだった。