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第16話「新時代の予言」

サンクトペテルブルク小児医療研究所の一室で、医師たちは困惑の表情を浮かべていた。二歳になったばかりの幼児が、黒板いっぱいに数式を書き連ねている。その内容は、量子物理学の未解決問題に対する新たな解法を示唆するものだった。


「驚くべきことに、この計算は正しい」


主任研究員のドミトリー・ソコロフは、同僚たちの前で震える声でそう告げた。一年前、廃墟と化した保育所から救出された幼児——記録上は「個体X」と呼ばれる彼の成長は、人類の発達過程における全ての定説を覆していた。


生後八ヶ月での完全な文章理解。

一歳での微積分の習得。

そして今、量子物理学の領域にまで踏み込もうとしている。


幼児は振り返り、研究員たちを見上げた。その瞳には、この世界を遥かに見下ろすような冷たい輝きが宿っていた。


「あなたたちには、理解できませんか?」


幼い声とは不釣り合いな、明晰な言葉。研究員の一人が思わず後ずさる。


「これは単純な方程式です。宇宙の基本法則は、このように美しく単純な形で表現できる。ただ、あなたたちの脳では、その全体を把握することができないだけ」


黒板には新たな数式が書き加えられていく。それは既知の物理法則を超えた、新たな理論体系の萌芽のようにも見えた。


「私たちは、彼の知能指数を測定することを諦めました」

ソコロフは静かに告げる。

「通常の尺度では、もはや計測不能なのです」


研究所の廊下には、幼児が描いたという図面が並んでいた。それは一見すると子供の落書きのように見える。しかし、その中には人類がまだ見ぬ技術の青写真が隠されているのかもしれない。


「昨日、彼はこう言いました」

若い研究員が声を潜める。

「『人類は、長い眠りから目覚めようとしている。私は、その最初の一人に過ぎない』と」


窓の外では、早春の雪が静かに降り続いていた。幼児は再び黒板に向かい、新たな数式を書き始める。その仕草には、人類の未来を確実に見通しているかのような冷徹さがあった。


「私が目指すものは、まだ理解できないでしょう」

幼児は書きながら、独り言のように呟く。

「でも、それは確実にやってくる。人類が真の進化を遂げる時が」


研究所の記録には、彼の脳の異常な発達が詳細に記されていた。通常の人間の何倍もの神経密度。前例のない形での脳領域の相互連結。そして、まるで別種の生命体のような代謝パターン。


春の訪れを告げる風が、研究所の窓を震わせる。人類の歴史は、新たな転換点を迎えようとしていた。そして、その先駆けとなる存在が、今、この部屋で静かに成長を続けている。


「もう休みましょう」

研究員が声をかける。


「休息は必要ありません」

幼児は振り返り、不敵な微笑みを浮かべた。

「私の脳は、常に最高の効率で働いているのですから」


その言葉には、人間を超越した存在としての自負が、はっきりと刻まれていた。


それから半年後のことだった。


世界保健機関の緊急会議が、深夜に及んでいた。スクリーンには世界地図が映し出され、赤い点が次々と灯されていく。それは「変異個体」と呼ばれる子供たちの出現地点を示すものだった。


「現在確認されている事例は、全世界で437件」


発表者の声が、張り詰めた空気の中に響く。


「その全てが、二歳未満の幼児です。共通する特徴として、著しい知能の発達、通常の何倍もの脳神経密度、そして...」


彼は一瞬、言葉を追う。


「驚くべき自己認識の高さが報告されています」


会議室の重苦しい空気が、さらに深まる。


サンクトペテルブルクの「個体X」が最初に予言した通りの現象が、今、確実に現実のものとなっていた。彼の言葉は、人類の進化に関する予測を含め、一つ一つ的中していった。


ケープタウンの天才児は、生後18ヶ月にして新しい数学理論を構築していた。

ムンバイの双子は、一歳半で独自の言語体系を作り出し、人類の意識構造に関する革新的な仮説を発表していた。

サンパウロの幼児は、二歳を迎えたばかりで、既存の物理法則を覆す実験結果の予測に成功していた。


彼らは皆、驚くべき自尊心と冷徹な知性を持ち合わせていた。それは時として傲慢とも取れる態度だったが、彼らの予測や理論は、不思議なことに常に正しかった。


「最も懸念すべきは、彼らの連帯です」


ある研究員が、新たなデータを示す。世界中の「変異個体」たちは、不思議な形で互いを認識し始めていた。彼らは既存の通信手段を介さず、何らかの方法で情報を共有しているように見えた。


「彼らは、私たち人類を何だと考えているのでしょう」

誰かが、小さな声でそう呟く。


その問いへの答えは、サンクトペテルブルクの研究所に残されていた。「個体X」が残した最後のメッセージは、こう記されていた。


『あなたたちは、私たちの揺籃の地。しかし、子供はいつか巣立つもの。その時が近づいています』


研究所の窓辺に立った幼子は、春の夜空を見上げていた。その瞳は、既に人類の遥か先を見通しているようだった。


世界は静かに、しかし確実に変わり始めていた。それは人類の終わりなのか、それとも新たな始まりなのか。その答えを知る者は、まだいない。


ただ、かつて一人の幼子が告げた予言は、今、確かな現実となって世界を覆い始めていた。

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