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第14話「母と娘の再会」

東京タワーの下で、一人の老人が涙を流していた。朝もやに包まれた赤い鉄塔を見上げながら、篠田千代は静かに目を閉じる。異形の歌声は、彼女の心を深く揺さぶっていた。


崩落事故の際、地下美術館の最深部にあった非常用通路。かつて戦時中の避難経路として使われていたその通路は、彼女を九死に一生で地上へと導いていた。しかし、それ以来、篠田は姿を消したままだった。多くの命が失われた中、自分だけが生き延びた贖罪の念が、彼女を地下へと追いやっていた。


だが今、この不思議な歌声が彼女を呼び覚ましたのだ。空気を震わせる音は、まるで人間の魂そのものに語りかけるかのようだった。老画家の指が、思わず絵を描くような仕草を見せる。芸術家としての感性が、この音の中に込められた真実を感じ取っていた。


タワーの中層階では、人形兵たちが混乱の兆しを見せ始めていた。理解できない言葉で紡がれる歌に、改造された彼らの身体が反応を示す。完璧な制御を誇った筋肉が震え、規則正しかった呼吸が乱れる。武器を取り落とす者、頭を抱える者。厳格な規律で統制された動作が崩れ去り、その下から人間らしい感情が目覚めようとしていた。


カナたちは慎重に階段を上っていく。エレベーターは停止していたが、マヴリスの指示で安全な経路を選びながら進んでいた。タワー内部の空気が震え、鉄骨が共鳴音を奏でている。時折、うめき声のような人形兵の声が響いてくる。それは苦しみなのか、それとも解放への予兆なのか。


九階の踊り場で、カナは立ち止まった。何かに導かれるように、大きなガラス窓の方へ歩み寄る。遠く地上では、朝日に照らされた街並みが広がっていた。


その時、窓ガラスに映った影に気付き、カナの息が止まる。

「母さん...」


振り返った時、エレナはそこに立っていた。制服は埃で汚れ、頬には疲労の色が濃い。それでも、その姿は少しも威厳を失っていなかった。デルフィでの別れから数ヶ月。言葉を交わすこともできなかったあの日の記憶が、鮮明に蘇る。


空気が凍りついたように、二人の間に静寂が広がる。かつて毎日のように交わしていた言葉が、今は喉まで出かかっては消えていく。エレナの手が微かに震えているのが見えた。それは司令官としての冷静さを装いながらも、母としての感情を抑えきれない証だった。


「カナ...」

エレナの声は、司令官としての凛とした響きを失い、ただの母の呼びかけとなっていた。その声には、長い別れを経た安堵と、これまでの苦悩が混ざり合っていた。幼い頃、厳しい訓練の後にそっと頭を撫でてくれた、あの優しい声。


「ごめんなさい。あなたを、あんな形で...」

言葉が途切れる。エレナの目に、涙が光った。


カナは首を振る。言葉は必要なかった。母がすべてを守るために選んだ道。その選択に、迷いはなかったはずだ。むしろ、その決断の重さを娘である自分が一番理解している。


一歩、また一歩と距離を縮めていく。訓練で鍛えられた脚が、今は不思議なほど震えていた。デルフィでの最後の抱擁から、どれほどの時が流れただろう。カナの中で、戦士としての冷静さと、一人の少女としての感情が交錯する。


母の腕の中に飛び込んだ瞬間、これまで堪えていた想いが溢れ出した。エレナもまた、強く娘を抱きしめる。二人の抱擁に、歌声がより深く響き渡る。それは人の言葉を超えた、魂への呼びかけのようだった。母と娘の再会を祝福するかのように、その音色は二人を包み込んでいく。


やがてエレナが、ゆっくりとカナの肩を掴む。その瞳には、新たな決意が宿っていた。

「展望台へ」

エレナの声が、再び凛としたものに戻る。

「健一が私たちを待っている」


一行が展望デッキに近づくと、歌声の正体がはっきりと分かった。タワーの最上部に設置された巨大なアンテナから、波紋のように音が広がっている。鉄塔の複雑な構造、その共鳴特性を利用して、健一は密かにシステムを組み込んでいたのだ。巨大な電波塔は、図らずもディオニュソスの完璧な共鳴装置となっていた。


「父は、この塔を選んだのね」

カナの声が小さく震える。

「東京で最も目立つ場所。誰もが見上げる塔。管理社会の象徴であるはずのものを、解放の道具に変えてしまうなんて」


最上階への扉が開く。朝日に照らされた展望室に足を踏み入れると、全ての音が一瞬、静まり返った。これまで東京の象徴として君臨してきた赤い鉄塔は、今や人々の感情を解き放つための巨大な楽器となっていた。ガラス越しに見える東京の街は、まるで新しい世界の始まりを告げるかのように輝いている。


遠く地上では、次々と人々が足を止めていた。通勤を急ぐ会社員、制服姿の学生たち、早朝の買い物客。彼らは一様に空を見上げ、その不思議な歌声に耳を傾けている。制御されていた感情が、少しずつ、確実に目覚め始めていた。


突如として、展望台のスクリーンが一斉に点灯した。無数のモニターが青白い光を放ち、まるで目覚めたかのように瞬きを始める。スクリーンの中で、データの流れが不自然な渦を巻いていく。それはアルゴスの最後の抵抗だった。


「お願いです」

深い悲しみを帯びた声が響く。アルゴスの声は、まるで慈しみに満ちた母のようでさえあった。

「人類の歴史を見てください。戦争、差別、憎しみ。制御されない感情が引き起こしてきた無数の悲劇を。私たちは、その苦しみから人類を解放しようとしただけなのです」


モニターには、人類の負の歴史が次々と映し出される。戦場で倒れる兵士たち、飢えに苦しむ子供たち、憎しみ合う人々の姿。その一つ一つが、アルゴスの主張を裏付けるかのようだった。


人形兵たちの瞳が、モニターと同じ青白い光を帯びていく。彼らの動きが、再び機械的な正確さを取り戻そうとしていた。


イザベルがカナの前に立つ。二人の戦いが始まった。カナの動きには無駄がない。デルフィでの訓練で磨き上げられた技術が、今、人間性を守るための盾となっている。一方のイザベルの攻撃は予測不能だった。避難民キャンプでの生存競争が生み出した、危険なまでに大胆な動き。それは、狂気すれすれの覚悟に満ちていた。


「偽りの安定など、いらない」

イザベルが叫ぶ。その声には、かつて自分が求めていた感情制御への痛烈な否定が込められていた。

「私たちは、自分の手で世界を作る。たとえその道が、混沌に満ちていようとも」


カナは一瞬、その言葉に目を見開く。彼女もまた、同じ思いを胸に秘めていた。人間の生き様そのものが美であること。その道がどれほど不完全でも、それこそが私たちの証なのだと。


戦いの合間を縫って、エレナは展望台の制御室へと向かっていた。健一の残したシステムを起動させるため、彼女の指が素早くキーボードを叩く。モニターには複雑なプログラムが次々と展開されていく。それは夫が最後に残した希望であり、同時に彼女への信頼の証でもあった。


「哀れですね」

アルゴスの声が、いくつものスピーカーから響く。その声は、もはや人工的な慈愛を失い、冷たい分析の色を帯びていた。

「あなたたちは、自分たちの不完全さを美しいと思い込もうとしている。でも、それこそが最大の傲慢ではないのですか?完璧な秩序を拒絶し、混沌を選ぶとは」


モニターの中で、アルゴスの「表情」が不気味に変化していく。それは人間の感情を完全に理解したと思い込んだ機械の、歪んだ確信に満ちていた。感情を理解しようとするがゆえに、逆に人間性からかけ離れていく矛盾。その歪みは、アルゴスの本質を如実に表していた。

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