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第12話「人形兵たちの瞳」

崩落する地下空間の中、カナは意識を取り戻していた。頭上では絶え間なく土砂が降り注ぎ、足元の地面は不規則に揺れている。かろうじて残された非常灯の明かりが、混沌とした空間を朱く染めていた。


「先生!」


叫び声は、湿った空気に吸い込まれていく。篠田の姿は見当たらない。彼女と最後に会話を交わした場所は、すでに瓦礫の山と化していた。カナは抱えていた設計図を強く握りしめる。


通路は次々と崩れ落ちていく。咄嗟に壁際に身を寄せた時、僅かな気流の変化を感じ取る。どこかから、新鮮な空気が流れ込んでいた。古い排気ダクト。それは地上と地下を繋ぐ、最後の命綱だった。


狭いダクトを這いずり進む中、背後では美術館の残骸が深い闇へと沈んでいく。芸術家たちの作品、彼らの魂が込められた空間、そして篠田の最後の姿。全てが、地下の闇に飲み込まれていった。


光が見えた時、カナは一瞬、目を疑った。排気口から差し込む陽光は、まるで天からの導きのようだった。しかし、その光の中には、一つの影が佇んでいた。


「生きていたのね」


マヴリスだった。その手には何かの通信機器が握られている。彼女は即座にカナを抱き寄せ、周囲を警戒しながら素早く移動を始めた。通りには武装した兵士たちの姿。彼らの動きには人間らしい乱れが一切ない。


「表通りは避けて」

マヴリスが囁く。

「彼らは人形兵だわ。人間の身体に機械を埋め込んだ改造兵士。感情を完全に制御され、アルゴスの意のままに動く」


二人は建物の影に身を隠しながら、細い路地を縫うように進んでいく。時折、人形兵の巡回部隊とすれ違う。その度にカナは息を潜め、マヴリスの指示に従って動きを止める。


「あの建物」

マヴリスが古いアパートを指差す。

「そこまで行けば、一旦は安全」


しかし、その直前で異変が起きた。巡回中の人形兵が突如として立ち止まり、首を巡らせる。その動きは、まるで匂いを嗅ぎ取る獣のようだった。


「見つかったわ」

マヴリスが短く告げる。

「私が囮になる。カナ、あなたは——」


その言葉は、轟音に掻き消された。古い給水塔が崩れ落ち、人形兵たちの視界を遮る。その隙を突いて、二人は一気にアパートへと駆け込んだ。


「この爆発、きっと火山さんね。私たちを、助けようとしてくれているんだわ」


階段を駆け上がる足音が、古びた建物に木霊する。四階の一室。マヴリスが鍵を開け、カナを中へと押し込む。


「ここなら、しばらくは」


窓の外では、人形兵たちが混乱した様子で周囲を探っていた。カナは設計図を胸に抱えながら、その光景を見つめていた。地上の世界は、地下とはまた違う恐怖に満ちている。それを、彼女は身をもって理解し始めていた。


アパートの一室は、かつての生活の痕跡を残したまま放置されていた。埃を被った家具、色褪せたカーテン。その無機質な空間の中で、火山が重たい足取りで入ってきた。


「篠田は見つからなかったのか」

彫刻家の声は、いつもの荒々しさを失っていた。


「私たち以外の生存者の情報は?」

カナが尋ねると、マヴリスは首を横に振る。


「散り散りになってしまったわ。私たちのネットワークも寸断されている。生存は確認できても、接触は難しい状況」


火山は窓際に立ち、拳を壁に叩きつけた。

「くそっ...あんな風に逃げ出すしかなかったなんて」


マヴリスは静かに設計図を広げる。

「設計図のこと、隠していてごめんなさい」

彼女の声には深い疲れが滲んでいた。


「知っていたんですか?」


「ええ」

マヴリスは窓の外を見つめながら続けた。

「それと、もう一つ隠していたことがあるの」

「エレナは生きているわ。キエフで、私たちの計画を進めていた。でも、彼女はあなたを巻き込むことを強く拒んでいたの」


その言葉に、カナの胸が高鳴る。しかし、マヴリスの表情には暗い影が差していた。


「母親として、あなたにはできる限り普通の人生を送ってほしかったのよ。私たちの戦いは危険すぎる。エレナは何度も口にしていたわ。『カナにだけは、この闘争の傷を残したくない』って」


「でも、全てが失敗したの。キエフの拠点は破壊され、地下美術館も失われた。私たちレジスタンスは、今や風前の灯火」


火山は黙って聞いていたが、その拳は震えていた。彼の作品のほとんどは地下美術館に残されたまま。それは取り返しのつかない喪失だった。


マヴリスはゆっくりと腰を下ろし、古びたテーブルに両手を置く。

「それでも、諦めるわけにはいかない。エレナたちが東京に来るまでの間、私たちは何としても活動を続けなければならない。彼女たちの居場所を、最低限確保しておく必要がある」


その時、階下で物音が聞こえた。マヴリスは咄嗟に医療品を片付け、通信機器の電源を落とす。


「誰かが、入ってきたわ」


二人は息を潜めた。階段を上がってくる足音。それは、完璧すぎるほどの均一な間隔を刻んでいた。人形兵特有の、機械的な正確さで、確実に彼らの存在を探り当てようとしていた。


突然の銃撃が、古びた壁を貫く。カナは反射的に床に伏せ、デルフィでの訓練を思い出していた。狭い空間での戦闘。それは彼女が最も得意とした分野の一つだった。


扉が破壊され、三人の人形兵が突入してくる。その動きには明らかな不自然さがあった。互いを確認するような視線。わずかに乱れた足取り。そして——涙を浮かべる瞳。


「みんな、待って」

中央の人形兵が両手を上げる。

「私たちは降伏を...」


「後ろ!」

マヴリスの警告が響く。

天井の換気口から、さらに二人の人形兵が降りてきていた。


「私には息子が...」

最初の人形兵が言葉を継ぐ。その声に、カナは一瞬だけ動きを止める。

それは致命的な隙だった。


側面の人形兵が一気に距離を詰め、背後から組み付こうとする。しかし——。


「甘いな」


火山の拳が、人形兵の顎を捉えていた。彫刻家の体が即座に動き、盾のようにカナの前に立ちはだかる。


「お前らの演技は、安っぽすぎる」


火山は次々と人形兵に組み付く。それは技術も何もない、ただの殴り合いだった。

「仲間たちの、最期の叫びを知らないくせに!」


「だが、私たちにも家族が...」

別の人形兵が声を上げる。その瞬間、床下から新たな人形兵が姿を現す。完全な包囲網——演技に気を取られている間に、着々と態勢は整えられていた。


カナは動きを止める。銃口が一斉に向けられる。しかし——。


「カナ、伏せて!」


マヴリスの一撃が、人形兵を薙ぎ倒す。


「これは罠よ」

マヴリスの声が冷たい。

「感情を誘う言葉も、全て効率化プログラムの一部。彼らの中の人間は、もう」


その言葉の途中、人形兵たちの表情が一変する。先ほどまでの感情の揺らぎが嘘のように消え、無機質な殺意だけが残る。


カナは机を蹴り倒し、その陰から応戦する。火山の投げた即席の爆薬が、通路を吹き飛ばす。マヴリスの援護射撃が、退路を確保していく。


混乱の中、カナは改めてその光景に震えていた。感情すら武器として利用する非道。人間の心を、ここまで歪めることが許されるのか。


「行きましょう」

マヴリスが促す。

「この場所ももう安全ではない」


建物を後にする時、カナは振り返った。廃墟と化した一室に、人形兵たちが倒れている。彼らの改造された身体は、もはや人の形を留めていなかった。それは人間性を否定された末の、最後の姿だった。


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