キエフの研究所に到着した時、すでに事態は最悪の様相を呈していた。
壁を這う火の手。断続的に響く銃声。そして、あちこちに散らばる研究員たちの亡骸。イザベルは目の前の光景に、一瞬、目を疑った。この場所でエレナが必死に守ろうとしていたものが、音もなく崩れ落ちていく。
「突入します」
アレクシスの声が響く。
「北棟からの進入が——」
その言葉は、轟音に掻き消された。壁が崩れ、黒い装甲服の部隊が一斉に侵入してくる。数は優に三十を超えていた。
最初の一発が、イザベルの耳をかすめた。
「下がって!」
エレナが叫ぶ。しかし後退する余地はない。四方を完全に包囲されている。
銃声が響く。イザベルは咄嗟に転がり、扉の陰に身を隠す。弾丸が雨のように降り注ぐ中、彼女は冷静に状況を把握しようとした。しかし、それは不可能に近かった。
敵は、明らかに待ち伏せていた。それも、エレナたちの到着に合わせたように。イザベルは唇を噛んだ。動けば即死。動かなければジリ貧。もはや選択の余地はない。
「サーバールームへ!」
アレクシスが銃撃で援護しながら叫ぶ。
「そこを、死守しなければ」
イザベルは短剣の柄を強く握り締めた。間近で銃声が響く。振り返ると、エレナが単身、敵陣に飛び込んでいくところだった。
「愚かな...」
その言葉は、自分に向けられたものだった。それでも、イザベルの体は動いていた。短剣が一閃する。最初の一人が倒れる。そして二人目。
刹那、イザベルの中で何かが覚醒した。
これまでの彼女の戦いは、すべて生き延びるためのものだった。孤児院。路上生活。略奪者たちとの戦い。それらはすべて、生存のための暴力。
しかし、今は違う。
目の前で、エレナが銃弾に倒れる。アレクシスが駆け寄り、彼女を守る。それは無意味な行動のはずだった。勝ち目のない戦い。それでも、彼らは自分の信じる何かのために立ち向かっていく。
イザベルの短剣が、再び閃く。
「無意味な抵抗は、私の特権です」
それは宣言のようでもあり、悟りのようでもあった。イザベルは初めて、自分自身の輪郭を明確に感じ取っていた。暴力は無意味だ。しかし、その無意味さを知った上で暴力を選ぶことは、ある種の選択だった。
もはや勝利のためではない。生存のためでもない。ただ、自分の意志のままに——。
研究所の通路に、新たな黒い影が現れた。イザベルは床に転がる装甲服の死体を見やりながら、短剣を構え直す。
一階上のサーバールームでは、エレナが必死にデータの復旧を試みていた。炎と煙の向こうで、キーボードを叩く音だけが響いている。アレクシスは無言で周囲を警戒していた。
目の前の敵が銃を構えるのと同時に、イザベルの短剣が閃く。装甲服の隙間を見事に捉え、刃が深く突き刺さる。新たな敵が三人、階段を駆け上がってくる。彼女は躊躇いなく、その中に飛び込んでいった。
アルゴスに支配された精鋭でさえ、人間の不規則な殺意の前では無力だった。イザベルは相手の動きを読み切り、心臓めがけて刃を突き立てる。
二人目。三人目。最後の一人の首を刎ねる頃には、彼女の周りには黒い装甲服の死体だけが散乱していた。
階段を降りてきたアレクシスが、一瞬、その光景に足を止める。
「生きた兵器のようだ」
イザベルは答えない。新たな足音が近づいてくるのを、彼女はすでに察知していた。
サーバールームでの作業音が途絶えた。システムの警告音だけが、虚しく響いている。それは、すべてが終わったことを告げる音だった。
イザベルは再び短剣を構え直す。理想も、信念も、純粋な想いも、この刃の前ではただの空虚な言葉に過ぎない。彼女はそれを、自らの手で証明し続けていた。
暴力に意味などない。それでも、人は立ち上がる。エレナの姿が、彼女にそれを教えていた。
新たな影が、通路の向こうに現れる。イザベルは静かに短剣を握り直した。
サーバールームの扉が開かれた時、イザベルは直感的に悟った。すべては終わったのだと。
炎に包まれた機器の前で、エレナが静かに立ち尽くしている。その手には、端末から引き抜かれたケーブルが握られていた。ディスプレイには赤い警告文が点滅している。復旧は不可能。システムは完全に破壊されていた。
「全て、無駄だったのね」
エレナの声は掠れていた。それは疲労からではない。その声には、激しい憎悪が混じっている。健一の遺志を継げなかった者の、自分自身への憎しみ。
イザベルは黙って立ち尽くしていた。エレナの手が震え、握りしめていたケーブルが床に落ちる。次の瞬間、彼女は制御パネルに拳を叩きつけていた。鈍い音が響き、血が滴る。それでもエレナは、何度も何度も打ち付け続ける。
健一との約束。デルフィでの日々。そして七日間の狂気以降、必死に守り続けてきた希望。すべてが、この瞬間に崩れ落ちていく。
サーバールームの警報音が止んだ。システムの完全停止を告げる静寂が訪れる。
「撤退します」
アレクシスが現れ、静かに告げた。
「日本のレジスタンスと合流し、アルゴスの停止を目指しましょう。これが、残された道です」
イザベルは黙って、左胸のポケットに手を当てた。感情制御チップの手術費用。大金の感触が、まだそこにある。普通の生活への切符。安全な、安定した、穏やかな日々。
「これを」
アレクシスが封筒を差し出す。報酬だ。受け取れば、イザベルの懐はさらに膨らむ。
エレナは何も言わない。血を滴らせた拳を下ろし、ただ背を向けて歩き出す。その姿に、イザベルは見覚えがあった。略奪者たちを倒した時の冷徹さ。赤子を抱く時の温かみ。そして今、全てを失いながらも前を向く意志。
イザベルは封筒を受け取り、そのまま床に落とした。
お金の束が、炎に照らされて冷たく光る。もう、必要ない。イザベルは自分の道を、選び取っていた。
それは、単なる正義でも、理想でも、善でもない。
ただ、自分の意志だけを頼りに、世界に抗う選択。
階段を下りながら、イザベルは静かに微笑んだ。感情制御チップへの未練は、もうなかった。これから彼女は、自分だけの戦場を探すだろう。そこで選び取った意志を、最後まで貫き通すために。