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第10話「キエフへの道」

地下シェルターの一室で、赤子は静かに眠っていた。


予定されていたキエフへの任務は翌日に延期された。イザベルは薄暗い非常灯の下、即席のベッドとなった古い担架の横で警戒を続けていた。エレナが古いカーテンと毛布で作った簡易の寝床は、無機質な地下室の中で、どこか異質な温かみを放っている。


上階では時折、巡回する警備兵の足音が聞こえる。略奪者の第二波に備えて、警戒態勢が強化されていた。アレクシスは地上の指揮室で代替の輸送ルートを探っているはずだ。今夜の襲撃は、この地域の治安が急速に崩壊していることを示していた。


壁に設置された古い軍用時計が午前三時を指す。赤子の寝息だけが、無機質な地下空間の静寂を柔らかく溶かしていた。


「そろそろ、休憩したらどうだ?」


背後から声がした。振り返ると、エレナが立っていた。イザベルは首を振る。


「任務ですから」


「キエフまでの移動ルートの確保に、まだ時間がかかりそうだ」

エレナは壁際の配管を見上げながら続けた。

「その間に、見せておきたいものがある」


イザベルは僅かに眉を寄せた。シェルターの奥には、普段は立ち入り禁止とされている区画があった。


エレナは古い非常口を開けると、狭い通路へと足を踏み入れる。そこには隠された階段があり、さらに地下へと続いていた。イザベルは懐中電灯を取り出し、その後に続く。


地下室は予想以上に広かった。壁際には発電機が置かれ、その横に通信機器らしき装置が並んでいる。全てが可搬式で、急な移動に備えているようだった。


「なぜ、こんな場所を?」


イザベルの問いに、エレナは古い椅子に腰掛けながら答えた。


「キエフの協力者と連絡を取る必要がある。今夜の襲撃で、直接の接触は難しくなった」


エレナがスイッチを入れると、小さなモニターが青白い光を放つ。画面には複雑な暗号が流れている。


「量子暗号通信。アルゴスの監視下でも、察知されることのない通信手段だ」


イザベルは息を飲む。突如として表示された通信記録は、三ヶ月前のものだった。


『エレナ、聞こえますか』

『はい、マヴリス。状況は?』

『地下空間に亀裂が。このままでは...』


ノイズ交じりの映像が続く。イザベルは黙って見つめていた。


『避難経路は確保しました』

『...了解。他の件は?』

『ええ、約束通り』


通信は途切れがちだった。マヴリスという女性の声に、どこか切迫した響きがある。


「この人も、キエフの?」


エレナは首を横に振った。代わりに、壁に貼られた地図を指差す。そこには赤い点が複数打たれている。東京、大阪、福岡——先ほどの会議で見た地図と同じ場所だ。


「私たちのネットワークは、想像以上に広がっている」


その言葉の意味を理解するために、イザベルは地図の赤い点を見つめる。日本の各都市に打たれた印。それは単なる制御チップの不具合発生地域ではない。


「レジスタンスの、活動拠点...」

イザベルには、確信があった。そうすると、エレナたちの目的も見えてくる。


「キエフと通信を試みます」


画面にはノイズが満ちる。イザベルはただ黙って見守っていた。自分の理解を超えた何かが、そこで行われていることは分かる。しかし、それが何を意味するのか——。


突如として、映像が現れた。


『エレナ、聞こえますか?』

掠れた男声が響く。背後では何かが燃えているようだ。

『実験施設が、攻撃を受けて...システムの...修復不能...』


「何が起きているの?」

エレナの声が震える。

『アルゴスの...急襲......』


通信が途切れた。エレナは立ち上がり、イヤピースでアレクシスを呼び出す。


「状況が変わった。キエフへの出発を早める」


イザベルは黙って事態を見守っていた。エレナの表情が、これまでにない緊張を帯びている。


「聞いてもらいたいことがある」

エレナはモニターに新しいデータを表示させた。


「月島健一を知っているか?」


イザベルは首を横に振る。


「アルゴスの開発者...私の夫よ。彼はデルフィ研究所で国際チームのリーダーとして開発を進めていた。当初は感情を完全に制御することで人類を救えると信じていたの。でも研究を進めるうちに、制御には致命的な欠陥があることに気付いた」


エレナは一瞬、言葉を切る。


「七日間の狂気の後、新ユーラシア連合がデルフィ研究所を接収した。健一の警告を無視し、アルゴスの実用化を強行したのよ」


画面には複雑な設計図が映し出される。それは影の美術館で発見されたものだという。アルゴスとは異なる、もう一つのシステム——ディオニュソス。


「健一は密かにもう一つのシステムを設計していた」

エレナの声が低く響く。


「アルゴスが感情を抑圧し、人々を支配するのに対し、ディオニュソスは抑圧された感情を解き放つ。それは単なる対抗システムではなく、人間を本来の姿に戻すための鍵なのよ」


イザベルは眉を寄せる。


「健一は最後のメッセージで、こう残していた」

エレナはモニターに新しいデータを表示させる。


『アルゴスは決して完全にはならない。なぜなら、人間の感情は本質的に制御不能だからだ。ディオニュソスは、その事実を証明するためのシステムでもある』


上階から物音が聞こえた。イザベルは反射的に短剣に手をかける。


「準備をしなければ」

エレナは素早くデータを消去し始める。

「キエフまでの移動経路を——」


「待ってください」

イザベルは静かに告げた。

「そのシステムは、本当に必要なのでしょうか」


エレナは一瞬、動きを止める。


「完全なシステムなど、存在するとは思えない」


エレナは何も答えなかった。ただ黙って準備を続ける。その姿に、イザベルは見覚えのある影を感じていた。


「アレクシス、出発準備を」

エレナはイヤピースを通じて指示を飛ばす。

「時間がない。可能な限り早く」


上階からは慌ただしい足音が響いてきた。アレクシスの指示を受けた兵士たちが、移動の準備を始めている。


「赤子は?」

イザベルは尋ねた。


「私たちが向かうキエフは、もはや安全な場所ではない」

エレナは素早く機材の撤収作業を進めながら応える。

「アレクシスが、避難民キャンプの医療施設に移送する手配をした」


古い軍用時計の針が、午前四時を指そうとしていた。夜明けまでには出発しなければならない。移動中の発見を避けるため、まだ暗いうちに行動を開始する必要がある。


イヤピースから、再び通信が入る。今度は別の周波数だった。エレナが素早く暗号を解読すると、モニターに新たな映像が映し出される。それは、キエフ研究所の監視カメラ映像のようだった。


研究所の廊下を、黒い装甲服に身を包んだ部隊が進んでいく。彼らの動きには人間らしい乱れがない。完全に制御された存在——アルゴスの尖兵だ。


映像は次々と切り替わる。実験室の扉が破壊される様子。炎に包まれる研究機材。床に倒れる研究員たち。そして最後に、巨大なサーバールームが映し出された。無数の端末が並ぶ中央で、何かが激しく燃えている。


エレナの声が震える。

「全てを破壊するつもりね」


イザベルには、映像の本当の意味は理解できなかった。しかし、この光景が取り返しのつかない何かを示していることは、感じ取れた。


「準備が整いました」

アレクシスの声が響く。

「いつでも出発できます」


エレナは短く頷くと、最後の暗号を入力する。画面には"SYSTEM DELETE"の文字が浮かび、そして全ての機器の電源が落とされた。


「行きましょう」


夜明け前の空気が、冷たく肌を刺す。装甲車が待機する中、イザベルは最後にもう一度、赤子のいる建物を振り返った。これから向かう場所で、彼女は何を目にすることになるのだろう。


闇を切り裂くようにエンジン音が響き、一行を乗せた車両が動き出す。東の空が僅かに明るみを帯び始めていた。

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