冷たい風が、廃墟と化した軍事施設を吹き抜けていた。イザベルは配給所から戻る途中、倉庫群の間を歩くエレナの姿を見かけた。彼女は誰かと話をしている。手振りから察するに、作戦会議のようだった。その姿からは、昼間見せる狂気の片鱗も感じられない。
夕食時、アレクシスが訪ねてきた。彼は配給の品に加えて、缶詰を一つ差し出した。温かい紅茶も用意されていた。無駄な気遣いだと思った。
「エレナ司令官の...演技について説明しておく必要がありますね」
アレクシスは紅茶を一口飲んでから、静かに語り始めた。
「かつてのデルフィ基地司令官が精神を病んでいるという噂は、私たちにとって最高の隠れ蓑なのです」
イザベルは黙って聞き入る。アレクシスは続けた。
「新ユーラシア連合の監視網は、異常な行動を示す者には関心を示しません。制御チップの誤作動による精神障害として処理され、詳しい調査の対象から外されるのです。その盲点を突いて、私たちは活動を続けている」
確かに、エレナの狂気じみた行動は完璧な演技だった。昼間は薬物中毒者のように意味不明な言葉を呟き続け、夜になると冷静な司令官として組織を指揮する。その二重生活は、アルゴスの監視網を巧みに欺いていた。
「今夜は、任務の説明を」
アレクシスは話題を切り替えた。表向きは武器の取引。実際の目的は、新たな協力者との接触だという。イザベルは黙って頷く。どちらでも構わない。仕事は仕事だ。
「新聞は読んでいるか?」
イザベルは無言で新聞を広げた。見出しには東京の美術館崩落事故が報じられている。地下空間での反体制活動の疑い。感情制御システムの不具合報告。
「東アジアの混乱は、我々の予測を上回っている」
エレナが入ってきたのは、その時だった。彼女の声には、かつての司令官としての冷静さが感じられた。
「感情制御システムの受容率を見てみなさい。欧州圏では75%を超えているが、アジア圏、特に日本では40%にも届かない。経済的な理由だけではない。組織的な抵抗の可能性が高い」
エレナは地図を広げ、赤い点を指し示した。
「過去三ヶ月で、制御チップの不具合報告が急増している地域だ。特に東京、大阪、福岡。この分布には明確なパターンがある」
イザベルは黙って地図を見つめた。エレナの分析がどこまで本当で、どこまでが演技なのか。それを見極める必要はあった。
「二時間後に出発する」
アレクシスが時計を確認する。
「イザベル、準備は?」
「問題ない」
「目的地はキエフ郊外」
エレナが地図上の一点を指す。
「そこで協力者と接触する。表向きは武器の取引。所要時間は片道で約6時間」
短い説明の後、沈黙が流れる。エレナは窓の外を見つめている。月明かりに照らされた彼女の横顔は、どこか強い意志を秘めているように見えた。
暗闇が施設を包み込む頃、イザベルは古い倉庫の屋根裏から、施設の外周を巡回する警備兵たちを観察していた。出発まであと30分。表向きは麻薬組織の製造拠点。しかし、その警備の動きには明らかな特徴があった。
「軍の残党ね」
彼らの動きには統制が取れていた。素人の警備員を装ってはいるが、その歩き方、銃の構え方には訓練の跡が見える。エレナの組織は、着実に仲間を増やしていた。
突如、警報が鳴り響く。イザベルは息を潜めた。想定外の来訪者。それも複数。赤外線スコープを覗くと、十数名の武装集団が、施設の裏手から忍び寄っていた。
「おそらく略奪者たち」
アレクシスの静かな声が、イヤピースに響く。
「この地域では珍しくない」
イザベルは撤退を考えた。しかし次の瞬間、驚くべき光景を目にする。
倉庫の陰から一つの影が現れた。月明かりに照らされたその姿は、紛れもなくエレナだった。彼女は単身、武装集団に向かって歩き出す。
続く光景は、戦闘というより処刑に近かった。エレナの動きには無駄がない。最小限の動きで、確実に致命傷を与えていく。それは特殊部隊の戦闘術そのものだった。
相手が引き金を引く前に、喉を潰す。銃を構え直そうとする動きを見せた瞬間、心臓を貫く。全ては冷徹な計算に基づいていた。
戦闘は、わずか数分で終わった。地面に横たわる略奪者たち。エレナはゆっくりと立ち上がると、イヤピースに向かって静かに告げた。
「イザベル、アレクシス、死体の処理を頼む。痕跡は残さないように」
その声には、かつての司令官としての冷静さが戻っていた。
イザベルは静かに応じた。エレナの戦闘力と非情さは、ただの事実として記憶に留めておく必要があった。
死体の処理を終えた後、イザベルは保育所跡の建物を確認していた。キエフへの出発は延期された今、略奪者たちの足取りを追う必要があった。彼らがなぜここを目指していたのか、他の仲間はいないのか——そういった情報は、今後の警備体制に関わってくる。
暗闇の中、赤子の泣き声が響いた。
イザベルは足を止めた。保育室の奥、転倒した保育器の中で、一つの小さな命が震えていた。略奪者たちの襲撃で職員は全員死亡。奇跡的に生き残った赤子が、今、彼女の前で泣いている。
左胸のポケットに手を当てる。今日の取引で得た現金が、そこにあった。感情制御チップの手術費用に届くまで、あと少し。この世界で生き延びるための、最後の望み。
「生きていても、幸せにはなれない」
短剣を取り出す手に迷いはなかった。これは慈悲だ。孤児院での日々、路上での生活。親のない子供の運命を、彼女は身をもって知っている。全ては偶然。生まれる前から決められた不運な偶然が、人の幸不幸を決める。
——だから、早く楽にしてあげるの。
「そこまでよ」
背後から聞こえた声に、イザベルは振り返った。エレナが立っていた。先ほどの戦闘の痕跡は既になく、ただ静かな佇まいで彼女を見つめている。
「それは、命令ですか?」
イザベルは短剣を握り直した。
エレナは答えない。ただゆっくりとイザベルの傍らを通り過ぎ、赤子を抱き上げた。その仕草には、先ほどの冷徹な戦士の面影はなかった。
「可哀想に」
エレナの声は、掠れていた。
「何が分かるというんです」
イザベルは左胸のポケットを強く握る。お金の感触が、彼女に力を与える。
「私はもうすぐ、この呪いから解放される。感情なんて、必要ない」
「本当にそう思っているの?」
赤子が泣き止み、小さな手でエレナの指を握る。その光景に、イザベルの中で何かが揺らいだ。記憶の底に沈んでいた感覚。温もり。忘れていた、あるいは忘れようとしていた何か。
「私にも分かるわ」
エレナの声が響く。
「孤独が、どれほど人を追い詰めるか」
イザベルは息を飲む。エレナの目には、狂気の演技でも、司令官の威厳でもない、何か深い理解が宿っていた。
赤子が笑顔を見せた。その無邪気な表情に、イザベルは目を逸らす。左胸のポケットの中のお金が、急に重く感じられた。
「施設の地下シェルターに移動しましょう」
エレナは実務的な口調に戻る。
エレナは静かに歩き出した。赤子を抱く姿に、先ほどまでの冷徹な戦士の面影はない。
施設の地下には、かつて軍事基地として使用されていた際の避難用シェルターが残されている。表向きは麻薬製造のための地下倉庫として偽装されているその場所は、イザベルもよく知っていた。しかし、一時的な避難場所として使うにしては、あまりにも不適切な選択に思えた。
地下への階段を降りる途中、イザベルは左胸のポケットに手を当てた。お金の束が、まだそこにある。それは彼女にとって、救いの約束であるはずだった。
なのに、どうして。赤子の笑顔が、頭から離れないのか。
地下シェルターの通路には、冷たい風が吹き込んでいた。イザベルは自分の中の何かが、少しずつ、しかし確実に変わり始めているのを感じていた。理性という仮面の下で、長い間封印されていた感情が、僅かに胸を刺す。