ミンスク国際空港の廃墟に、冷たい雨が降り続いていた。かつての誇り高い空の玄関口は、今や避難民たちの最後の砦と化している。管制塔の窓ガラスは半分以上が割れ、その隙間から冷たい風が吹き込む。滑走路には色褪せた仮設テントが無秩序に立ち並び、その間を憔悴した人々が行き交っていた。
七日間の狂気から三ヶ月。世界は、アルゴスの支配下にある「効率的市民」と、そこから取り残された者たちに分断されていった。感情制御チップの埋め込み手術を受けた富裕層は、整然とした高層ビル群で従来通りの生活を続けている。一方、手術費用を工面できない者たちは「非効率的存在」として、こうした避難民キャンプに押し込められた。
イザベルは管制塔の一室で、壁に残された落書きを見つめていた。かつて誰かが描いた鳥の絵。芸術など、彼女にとっては遠い世界の贅沢でしかない。空腹を抱えた避難民たちの間で、そんな装飾に費やす時間があるのなら、その分を物資の確保に使うべきだ。彼女は無表情で絵を引っ掻き消した。この世界で生き延びるために必要なのは、美しさではなく実利だけだ。それは彼女が飢えと寒さの中で学んだ、厳しい現実だった。
配給所では今日も医療品を求める人々が押し寄せていた。幼い子供の咳が響く。老人は震える手で配給券を差し出す。イザベルはそうした光景に無関心を装いながら、自分の役割を淡々とこなしていく。空港の一角では、軍の残党が実効支配を続けていた。彼らの下で働くことは、生き延びるための必要悪だった。物資の略奪、密輸の手引き、時には暴力による制圧。日々の糧を得るために、イザベルの手は既に幾つもの血に染まっている。
避難民キャンプでの最初の冬は、特に過酷だった。物資の配給を受けるために並ぶ列で、イザベルは初めて人を殺した。それは彼女より小さな少女の取り分を奪おうとした男だった。
咄嗟の出来事だった。腰に忍ばせていた短剣が、まるで自分の意志を持つかのように突き出される。男は驚いたような表情を浮かべたまま、雪の上に崩れ落ちた。
その夜、イザベルは吐き気と戦いながら、自分の行為を正当化しようとした。弱者を守るための必要な行動だった。そう自分に言い聞かせる。しかし、その夜を境に、彼女の中で何かが決定的に変わっていた。
生きることは、他者の死の上に成り立つ。その冷徹な現実を受け入れた時、イザベルの心は凍りついていく。感情を捨てることが、生存の絶対条件だと悟ったのだ。
それからのイザベルは、より冷酷に、より効率的に動くようになった。感情制御チップを求める彼女の執着は、ある意味で自分自身からの逃避でもあった。自らの手で築き上げた冷酷さを、技術によって正当化したかったのかもしれない。
夜の配給所での混乱は日常茶飯事だった。今夜も医療品を求める群衆が押し寄せ、イザベルは制圧のため暴力を行使せざるを得なかった。蹴りを受けた老人は咳き込みながら倒れ、その横で幼い子供が泣き叫ぶ。彼女はその声を耳にしながら、ただ黙々と任務を遂行した。感情に流されることは、この世界では死に繋がる。それもまた、彼女が身を持って学んだ教訓だった。
アルゴスの支配下にある高層ビル群が、遠くに聳えている。その整然とした姿は、避難民キャンプの混沌とは別世界のようだ。時折、そこから物資を運ぶ輸送車が通り過かる。全てが規則正しく、無駄のない動きで行われている。イザベルはその光景を冷ややかに眺めながら、自分の立ち位置を考えていた。彼女のような存在が這い上がれる道は、おそらく一つしかない。より大きな金を動かせる組織に食い込むことだ。
その時、彼女は興味深い会話を耳にした。新しい密売組織が、特別な商品を扱っているという噂。その取引額は、これまでの何倍にも及ぶという。腐敗した軍の組織では、もはや大きな金は動かない。しかし、この新しい取引先は違うらしい。
闇市場で情報を集めるうち、その組織の足取りが見えてきた。旧地下鉄の廃駅を拠点に活動しているらしい。そこには、かつてのデルフィ基地の指揮官も関わっているという。イザベルは薄く笑みを浮かべた。感情制御チップの手術費用。それさえあれば、この地獄のような生活から抜け出せる。この話は、見逃せない機会だった。
地下鉄への入口は、アルゴス管理下の検問所に近かった。イザベルは屋根の上から、巡回する警備兵を観察していた。彼らの動きには、人間らしい乱れが一切ない。完璧に規則正しい巡回経路、機械的な精度で繰り返される確認作業。それはもはや人間の行動とは思えなかった。
警備兵の一人が、不自然なほど正確な角度で首を回転させる。その仕草に、イザベルは違和感を覚えた。瞳の奥に浮かぶ青い光。それは感情制御チップの埋め込みを遥かに超えた、何か別種の改造の痕跡のように見えた。
暗闇に紛れて接近を試みる。しかし、警備兵の感知能力は、人間の限界を超えていた。イザベルの気配を察知した警備兵が、非人間的な速度で振り向く。銃声が夜の静寂を破る。
イザベルは咄嗟に身を翻した。警備兵の射撃は、完璧な数学的軌道を描いて飛来する。しかし、その完璧さゆえの死角もある。彼女は計算された軌道の隙間を縫うように接近し、警備兵の首筋に短刀を突き立てた。
人工的な紫色の血が噴き出す。警備兵の瞳の光が消えかける直前、その口から機械的な音声が漏れた。
「システム、ダウン——」
他の警備兵が集まってくる前に、イザベルは地下鉄の入口へと身を投げ込んだ。階段を駆け下りる足音が、湿った空気の中に吸い込まれていく。背後では機械的な足音が近づいてくる。
古い線路の上を走りながら、イザベルは思考を巡らせていた。アルゴスの支配は、もはや精神だけでなく肉体にまで及んでいる。警備兵たちは人間の皮を被った機械、あるいは機械と化した人間。その正体は定かではないが、確実に人間の領域を蝕んでいた。
暗闇の中、突如として銃声が響く。イザベルは反射的に線路脇に身を隠した。しかし、その銃撃は彼女を狙ったものではなかった。後方から追ってきた警備兵が、何者かの狙撃によって次々と倒れていく。
「見事な動きだ」
渋い声が響く。薄暗がりの中から、一人の中年の男性が姿を現した。色褪せた軍服を着た、どこか品の良さを残す男。アレクシスと名乗るその男は、イザベルの戦闘技術に興味を示した。
「デルフィ基地の戦闘術式に似ている。どこで学んだ?」
「軍の残党から」
イザベルは素っ気なく答えた。
「狂気の七日間の後、彼らは訓練資料を売って金にしていた」
アレクシスの目が僅かに細められる。デルフィ基地の機密資料が、避難民キャンプで取引されていたとは。しかし、それは意外なことでもなかった。七日間の狂気の後、多くの軍事機密が闇市場に流れた。その混乱の中で、イザベルは生き残りをかけて軍事技術を盗み取っていたのだ。
「でも、資料は完全ではなかった」
イザベルは続けた。
「欠けているページも多かったし、血で汚れて読めない部分もあった。私は断片的な技術を、実戦で補っていった」
それは事実だった。彼女は軍の教本から基礎を学び、それを避難民キャンプでの日々の暴力の中で洗練させていった。教科書的な動きを、生存に適した形に変化させる。その過程で多くの仲間を失い、また多くの命を奪った。それが彼女の戦闘術の真の由来だった。
アレクシスはその説明に納得したように頷いた。彼の目には、イザベルの技術を評価する色が浮かんでいた。
「私たちの...取引先に会ってもらいたい」
アレクシスの声には、何か意図が隠されているように聞こえた。
「彼女なら、君の才能の真価を理解できるはずだ」
地下鉄の廃線は迷路のように入り組んでいた。アレクシスは暗闇の中を迷うことなく進む。途中、古い配電盤を操作して仄暗い明かりを確保した。その光の中で、彼は静かに語り始めた。
「デルフィ基地が崩壊した日のことを、覚えているだろうか」
イザベルは無言で頷く。七日間の狂気の最中、各地の軍事施設が次々と機能を停止していった。デルフィ基地の崩壊は、その象徴的な出来事として報じられた。
「月島司令官は、最後まで持ちこたえていた」
アレクシスの声には何か感情が混じっているように聞こえた。
「私たちは彼女と共に、この場所で細々と...商売を続けている」
通路は次第に狭くなり、両側の壁には黒カビが這っている。足元には使い古された注射器が散乱し、どこか甘ったるい薬品の匂いが漂う。典型的な麻薬中毒者の巣窟の臭いだ。イザベルは鼻に袖を当てた。避難民キャンプでさえ、ここまでの荒廃は見たことがない。
突然、狂気じみた笑い声が闇の中から響いてきた。笑い声は、泣き声へと変わり、そして意味不明な呟きへと変化していく。
「あの声は?」
イザベルが尋ねると、アレクシスは淡々と答えた。
「司令官だ」
非常口の前でアレクシスが立ち止まり、特殊な順序でノックを開始する。扉が開いた瞬間、イザベルは思わず後ずさった。
部屋の中央で、一人の女が壁にもたれかかっていた。かつてのデルフィ基地の司令官、月島エレナ。軍服は土で汚れ、顔には深い疲労の色が刻まれている。彼女は壁に向かって何かを呟きながら、意味不明な仕草を繰り返していた。
「お客様?」
エレナの声は、か細く震えていた。
「珍しいわね...新しい取引?」
アレクシスは古びた金属ケースを取り出した。中身は高純度の合成麻薬のようだ。しかし、その形状も梱包方法も、イザベルがこれまで見てきたものとは違っていた。より洗練された、何か特別なものに見える。
「私たちの新製品です」
アレクシスの説明は専門的で、その価値は並の麻薬の何倍にも及ぶという。
「特別な顧客にしか提供していない」
イザベルは金属ケースを見つめながら、計算を始めた。この取引額なら、感情制御チップの手術費用どころか、それ以上の資金が手に入る。しかし、彼女は直感的に、ここで示された金額が氷山の一角に過ぎないことを悟っていた。
「随分と、お安い見積もりですね」
イザベルは挑発的に告げた。
「本当の取引額は、もっと上なんでしょう?」
エレナの呟きが一瞬途切れた。アレクシスの表情にも、微かな変化が走る。イザベルは続けた。
「お二人の芝居に、私も参加させていただきます」
その言葉に、エレナの手が僅かに震えた。次の瞬間、彼女は再び取り留めのない言葉を呟き始めていた。完璧な狂人の演技。しかし、その影に何が隠されているのか——イザベルの思惑は、金の匂いを追って深みへと向かっていった。
地下鉄の廃駅に、細い雨音が響いている。この瞬間、歴史の歯車が、また一つ動き始めようとしていた。