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第7話「二人の再会」

轟音が響く中、篠田は目を閉じた。記憶の中で、あの日の光が蘇る。


デルフィの朝は、いつも霧に包まれていた。谷間から昇る太陽が、古代遺跡の白い石柱を淡く染めていく。篠田はその光景に見入っていた。十八世紀のある画家が残した傑作『アポロンの系譜』の修復依頼。それは世界でも稀少な技術を持つ篠田にしか任せられない仕事だった。デルフィ美術館に保管されていた絵画の修復は、世界的な美術修復家である彼女の腕を必要としていた。


修復室で、篠田は絵画と向き合っていた。劣化によって失われた光の表現を取り戻す作業。それは過去の画家との静かな対話だった。画家は白いキャンバスに、光そのものは描かなかった。巧みな陰影の配置によって、余白に光を宿らせる。その技法の痕跡を、篠田は丁寧に読み解いていく。


最初に気づいたのは、誰かの視線。振り返ると、一人の女性が作業を見つめていた。軍服姿。それなのに、どこか優しい佇まい。


「失礼。興味深くて」

女性は少し照れたように微笑む。

「私、エレナ・マヴロマティと申します」


その声には、張りつめた緊張の中にある種の憧れが混ざっていた。


「絵を、お描きになるんですか?」

篠田が尋ねると、エレナは首を振る。


「いいえ。でも、絵には魅かれるんです。でも、よく分からなくて」

彼女は言葉を探すように目を伏せる。

「軍人には似合わないかもしれませんが」


「そんなことはありませんよ」

篠田は筆を置き、エレナに近づいた。

「人間は誰しも不完全な存在。だからこそ、互いを理解し合えるのです」


エレナの目が、かすかに輝きを増す。


「見てごらんなさい」

篠田は、修復中の絵画を指さした。

「この人物画の手の描き方が分かりますか?」


エレナは首を傾げる。


「画家は、この手を何度も描き直しているの。下層に残された絵具の跡が、それを物語っています。完璧な形を求めて、何度も消しては描き。でも最後に残ったのは、どこか不器用な、でも生きた手の表現」


篠田は柔らかく微笑んだ。


「人間の手なんて、本来完璧な左右対称などありえない。むしろ、その不完全さこそが命の証。だから芸術家は、その不完全さの中に真実を見出すのです」


エレナは息を呑む。


「軍人である私たちは、常に完璧を求められます」


「でも、人間に完璧を求めることは、命を否定することと同じ」

篠田は静かに告げた。

「揺らぎこそ、あなたが生きている証なのよ」


「でもその心の空白も、きっと誰かが光で満たしてくれるでしょうね。あなたって、美しいから」


エレナは驚いたように篠田を見つめた。


「まあ、これは年寄りの戯言ですけどね」

篠田は茶目っ気を込めて付け加えた。


その日、篠田は一本の筆をエレナに渡した。


「これは」


「私の大切な筆です。もし、光が見えなくなった時は、この筆で絵を描いてみてください」

篠田は優しく微笑んだ。

「きっと、新しい何かが見えてくるはず」


エレナは筆を受け取り、大切そうに胸に抱いた。その仕草は、まるで子供のようだった。


「必ず、お礼をさせてください」

エレナの声には強い決意が込められていた。

「日本...先生の国で、また絵の話を聞かせていただけませんか」


「まあ」

篠田は思わず声を上げた。

「そんな遠くまで、私のような老人に会いに来てくださるの?」


「ええ」

エレナは真剣な面持ちで頷いた。

「この筆で描いた絵を、いつか先生に見ていただきたいんです。それに...」

彼女は少し躊躇いがちに続けた。

「先生の国の美術館で、一緒に絵画を見られたら、きっと素敵だと思って」


その言葉に、篠田は胸が熱くなるのを感じた。軍人としての凛とした佇まいの中に、純粋な憧れを秘めたエレナの姿。それは彼女の持つ不思議な魅力を、一層際立たせていた。


「ええ、約束ですよ」

篠田は柔らかく微笑んだ。

「でも、その時は絵の批評だけでなく、あなたの人生の物語も聞かせてくださいね」


それから日本に帰国後も、篠田は時折エレナとの約束を思い出していた。一緒に美術館で絵画を見るという約束。しかし、それは叶わぬ約束だと思っていた。多忙な軍人が、遠い日本まで。それも、たった一人の老画家に会いに来るなどあり得ないと。きっと、あの時の言葉は社交辞令。そう思い込むことで、篠田は密かな期待を押し殺していた。


だから、東都美術館の特別展示室でエレナの姿を見た時、篠田は自分の目を疑った。約束は守られたのだ。十年の時を経て、エレナは防衛協定の会議で東京を訪れていた。


「懐かしい空気ですね」

エレナの声には、年月を経た深みがあった。

展示室の壁には、篠田が修復を手がけた古典絵画が並んでいる。デルフィ美術館での出会いを思い出すような光景だった。


「実は、ご報告があります」

静かな展示室の一角で、エレナは語り始めた。デルフィ研究所の科学者、月島健一との出会い。彼の研究に秘められた想い。そして今、世界が直面している危機について。


「私、人を好きになりました」

エレナの瞳が、壁に掛けられた絵画を見つめる。

「でも今は、その想いさえも危険な時代になろうとしている」


篠田は黙って聞いていた。エレナの言葉の端々に、深い決意と覚悟が滲んでいた。美術館の静寂が、その告白をより重みのあるものにしていく。


「先生に教わったことを、私は決して忘れません」

立ち上がる前、エレナはそう告げた。

「人の心にある光は、決して消してはいけないものだと」


再会は短かったが、篠田の心に深く刻まれた。軍人としての凛とした姿の中に、確かな温もりを感じ取ることができた。それは芸術が人の心に与える、小さな、しかし確かな変化の証だった。窓から差し込む午後の光が、静かに二人を包み込んでいた。


記憶の中の光が、現実の闇へと溶けていく。篠田の目の前で、天井から新たな土砂が降り注いでいた。


「カナさん」

篠田の声が、薄闇に響く。

「もう、戻らないと」


その時、大きな土塊が崩れ落ちた。二人は反射的に壁際へと身を寄せる。そして、その衝撃で剥がれ落ちた壁の向こうに、新たな空間が広がっているのが見えた。


円形の部屋。その中央には、一枚の巨大な設計図が残されていた。


「これは...」

カナは目を凝らした。設計図の端に記された「PROJECT DIONYSUS」の文字。無機質な図面の中に、確かな父の筆跡を見つける。


デルフィ基地で見た「PROJECT ARGOS」の設計図が、記憶の中で重なる。制御装置の配置、演算素子の構造、そして中枢部の設計。それらは、まるで双子のように酷似していた。


しかし、その機能は正反対だった。アルゴスが人間の感情を制御し、抑え込むように設計されているのに対し、このディオニュソスと名付けられたシステムは、抑制された感情を解放し、増幅させる回路を持っていた。


設計図の余白には、父の走り書きが残されていた。


『完璧な存在などない。真実は、不完全さの中にある』


その時、天井全体が大きく軋んだ。


「危険です!」


篠田の声が響く前に、巨大な梁が崩れ落ちてきた。カナは反射的に設計図を抱き寄せる。続いて天井が波打つように崩壊を始めた。


二人の間に土砂が流れ込み、視界が遮られる。


「先生!」


応答はない。轟音だけが耳を埋め尽くす。カナは土砂に押し流されながら、設計図を必死で抱きしめていた。暗闇の中で、意識が遠のいていく。

最後に見えたのは、篠田の静かな微笑み。そして、影の美術館は深い闇の中へと沈んでいった。

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