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第6話「篠田千代の選択」

最初は小さな音だった。遠くで重機が地面を掘り返す音が、地下深くまで伝わってくる。影の美術館の住人たちは、最初こそ気に留めなかった。日々の暮らしがあった。水耕栽培の手入れ、地下水の浄化、共同の食事の準備。小さな社会は、確かな営みを刻んでいた。


しかし、その音は日に日に大きくなっていく。天井から落ちてくる土砂の量も増えていった。誰かが持っていた古い花瓶が、振動で棚から落ちて砕ける。その音が、不吉な予感となって響いた。


「上の工事が、予定より早まったようね」


マヴリスの声には、深い憂いが滲んでいた。東都美術館の解体工事。それは地上の建物だけでなく、この地下の避難所をも破壊することを意味していた。


住人たちの表情が、少しずつ変わっていく。朝の水耕栽培場では、いつもの会話が途絶えがちになっていた。野菜の世話をする手つきにも、迷いが見える。収穫しても、この場所がどれほど持つのか、誰にも分からない。


「この絵を、どうしよう」

「彫刻は...持ち運べないわ」

「楽器は...せめて一つだけでも」


切迫した会話が、あちこちで交わされ始める。作品を守ろうとする気持ちと、自分の命を守らなければならない現実。その狭間で、人々は苦しんでいた。


轟音が響く。天井から大きな土の塊が落ちてきて、誰かの彫刻作品を直撃した。粘土で作られた人物像は、もろくも崩れ落ちる。作者の悲鳴が響いた。それは作品の死を嘆く声であり、この場所との別れを悟った声でもあった。


地下水の水位が上がっていることを、皆が感じていた。古い配管から、今まで以上に水が染み出している。足元が常に濡れている場所が増えていく。それは、この地下空間が、ゆっくりと、しかし確実に崩壊に向かっていることの証だった。


「ここは、私たちの家だったのに」


誰かの呟きが、重く響く。かつて地下鉄の車両を改造した居住区では、人々が私物を纏めていた。しかし、何を持って行けるというのだろう。芸術家たちの持ち物は、ほとんどが作品だった。その多くを置いていかなければならない。


夕食の時間が近づいても、いつものような食事の匂いは漂ってこない。共同の食事スペースは、避難の打ち合わせ場と化していた。地図が広げられ、脱出経路が検討される。しかし、行き先を決められる者は少なかった。管理社会の中で、彼らの居場所は限られている。


「まだ少し時間はある」

「いや、もう危険だ」

「でも、まだ...」


意見が割れ始める。些細な言い争いが、不安と焦りを露にしていく。普段は互いを思いやる言葉しか交わさなかった者たちの間にも、亀裂が生まれ始めていた。


その時、天井から大きな轟音が響いた。


「全員、避難を始めてください」


マヴリスの声が響く。もう迷っている時間はない。出口は二つ。西側の地下鉄廃線へ続く経路と、東側の地上への直通路。しかし東側は、制御チップ検査所に近い。


住人たちの目に、これまでの暮らしの風景が焼き付いていく。誰かが弾いていたピアノ。壁に掛けられた絵画たち。創作の場として使われていた工房。水耕栽培の野菜たち。それらは全て、この場所でしか意味を持たなかったものだ。


崩壊は、確実に進んでいた。地下美術館は、ゆっくりと、しかし確実に、その幕を閉じようとしていた。


混乱の中、一つの影だけが人々の流れに逆らっていた。篠田は静かに、美術館の最深部へと歩き出していた。その足取りには迷いがない。まるで何かに導かれるように、暗がりの中へと進んでいく。


「篠田先生!」


マヴリスの声が響く。しかし、老画家の姿は既に闇に溶けていた。地下水の水位は確実に上昇し、通路の照明は不規則に明滅している。そんな中、カナは篠田の背中を目で追っていた。


「行かないで」

マヴリスがカナの腕を掴む。

「あの先は危険すぎる」


「でも...」


「あなたを、この状況で失うわけにはいかない」

マヴリスの声が震える。

「健一さんとエレナの娘を、こんな場所で」


カナは腕を振り解こうとする。しかし、マヴリスの手に込められた力は、決して弱くはなかった。


「母さんも、きっと同じ選択をしたはず」

カナの声が、暗がりに響く。

「大切なものを守るために」


「でも、それは」


「篠田先生!」


カナの声が、湿った空気に吸い込まれていく。決して大きな声ではなかったが、その中には切実な想いが込められていた。マヴリスの制止を振り切ったのは、純粋な直感だった。老画家の背中が、何かを語りかけていた。


「行かせるわけにはいきません」

マヴリスが、カナの腕を掴む。

「命あっての物種です。篠田先生だって、そう仰っていた」


「だからこそ」

カナは、母から託された絵筆を強く握りしめる。

「先生の命も、守らないと」


マヴリスの手から、少しずつ力が抜けていく。彼女は深いため息をつくと、静かにカナの肩に手を置いた。


「気をつけて」

その声には、諦めと共に祈りが込められていた。

「必ず、戻ってきなさい」


カナは黙って頷くと、篠田の消えた闇の中へと走り出した。靴底が水に濡れ、足音が不規則に響く。天井からは細かな土砂が降り続けている。


通路は次第に狭くなっていく。両側の壁には、かつて展示されていた絵画の痕跡が残っている。色褪せた額縁。剥がれかけた銘板。それらは皆、この場所の記憶を語っているようだった。


「先生!」


カナの声が、湿った空気に吸い込まれていく。振動で外れかけた照明が、不規則に通路を照らす。その明滅の中に、一つの人影が浮かび上がった。


篠田は立ち止まり、振り返る。その表情には、どこか覚悟のようなものが窺えた。


「来てくれたのね」

老画家の声は、穏やかだった。

「でも、カナちゃん。ここは危険よ」


「先生こそ、何故!?あの時仰いましたよね。命あっての物種だと」


篠田は微かに笑みを浮かべた。


「ごめんなさい。あれは嘘だったの」

老画家の声が静かに響く。

「私たち芸術家にとって、作品は命そのもの。この場所を離れることは、自分の一部を切り離すことと同じなの」


老画家は壁に触れた手をゆっくりと滑らせる。


「私の命は、もうずっと前からここにある。この作品たちと共にね」

「私にはね、もうここ以外に居場所はないの」

篠田は壁に手を触れた。

「この場所を、私の死に場所と決めたのよ」


カナは息を呑む。篠田の瞳の奥には、何か強い光が宿っていた。


「あなたのお母様のことを、話してもいいかしら」


老画家の声が、懐かしさを帯びる。その声は、まるで遠い日の記憶を紡ぎ出すように、静かに響き始めた。二人の周りでは、美術館が確実に崩壊へと向かっている。しかし、その時間だけは、不思議な静けさに包まれていたのだった。

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